をちみず忌譚
これは江戸の時代、真にあったというお話。
運悪く落ちてしもうただけの、あわれな男のお話よ。
※
江戸のはずれ、江戸と呼ぶこともはばかられんほどの田舎。栄吉という男がおったそうな。細々とした農民の、跡継ぎでもない三男。二十四になれども嫁はおらず、家業を助けるだけの一本調子な生活じゃった。まじめと優しさだけが取り柄と言ったありさま。そんな彼にも、ひとつ大役が言い渡された。
時は立春。栄吉の住む村一帯には、若水取りなる年中行事があった。正月の朝早うに起き出し、泉や井戸へ向こうて水を汲む。そうして得た水を若水、あるいは変若水と呼び、なんでも飲めば若返るというめでたさ。やれ歳神様に供え、それ飯をこしらえ、はたまた茶を汲みと、よろづのことに用いて若返らんとするのである。
この家においてもっとも早う寝て早う起きる栄吉には、まさにうってつけであった。
さりとて、彼は若返りを信ずるわけではなかったが。
身を清め、さっぱりとした心持ちで新たな年を迎えんための儀式に過ぎぬ。それも大切な行事ではあるが、若返りなどしょせん調子のよい与太よ。そう思うておった。
――変若水を汲みに向こうたきり、戻ってこない者がしばしばおる。あるいは、飲み過ぎれば化生となる。
そげな噂を耳にしたことも、わずかに足を引っ張っておった。それらもまた、与太であるやもしれぬのに。
その朝、言いつけどおり早うに目を覚ました栄吉は、急ぎぼろの紬に身を包む。細っこく背も小さき彼に合わせ、母がおのずから仕立てた紬である。
そうして水がめを手に、肌寒い外へと出て行った。村の北方、山のふもとの少々奥まったあたりに泉がある。そこを目指して、歩みゆく。いまだ気乗りせず、とぼとぼ歩く。
泉への道はただひとつのみといへども、普段は人気も少なく、うかつに近う寄れば化生が出るとまで噂されるほどである。
――じゃが、その日は大層混み合っておった。
右を見ようと左を見ようと、にぎやかな若き男ども。村中から集まってきよるのだ。皆が活気に満ちておった、噂など気にしておらぬのだろう。
当然見知った顔も多い。隣家に住む恒之助という気のいい男を見つけ、たわいない話に高じつつ。
泉に着くころには、普段通りの心持ちを取り戻した栄吉であった。
さっそく水を汲むための小舟に乗ろうとするが、押し合いへし合いの大騒ぎ。早う終わらせてくつろぎたいのであろう。正月の朝から駆り出される輩の悲哀に、栄吉はいたく共感した。
やっと彼の番が回ってきたころには、御来光が顔をのぞかせつつあった。とうに汲み終えた者も、日の出を迎えんと天を仰ぐ。その瞬間を見逃すまいと、栄吉は漕ぎ人に声をかけた。
「ちょいと舟漕ぎ、頼み申す」
「おうよ。後ろもつかえとる、早う乗りな」
泉の水であろうと、真ん中のこんこんと湧きいづるところの水でなければ効き目は薄い。その言い伝えゆえ、舟が入り用というわけだ。漕ぎ人と栄吉、それから恒之助。加えて他に二人が乗り込み、木舟はついと水面を滑る。
「着いた着いた。皆の衆、汲みやがれ!」
「おう!」
泉の漕ぎ人は、短くともその道二十年以上はなければ務まらぬ。その誇りがあるのだろう、威勢のよい声で漕ぎ人は号令する。
水がめの蓋を開け、水中に浸し入れたそのときであった。
――ごう、と疾風が吹いたのだ。まるで狙い打ったかのように、唐突に。
「危うし!」
慌てて船べりにしがみつく男衆。されど、体躯に劣る栄吉だけは、風勢に耐えられず放り出されてしもうた。
「栄吉ぃ!」
痛々しげな恒之助の声も、届くこと能わず。もがくことすらできぬまま、栄吉は泉に呑み込まれていった。
※
栄吉が目を開けると、そこは豪勢な御殿であった。畳敷きの上に絹の敷物が張られてあり、屏風にはとぐろを巻く大蛇を描いた見事な蒔絵。この一部屋だけで、栄吉の家の数倍はあろうという広さよ。
有無を言わせぬ風格であるが、妙なところがふたつ。ひとつは部屋に灯りがなく、だというのになぜゆえかものの在り処や見た目がわかること。もうひとつは、部屋が黒鉄色に塗られていることであった。
そして黒鉄色は、目の前で座布団に座る者も同じ。それは、だらんと袖が垂れた小袖の着流しに烏帽子をかぶる、高級武家の身なりをした中年の男。人のよさそうな笑顔でこう言うた。
「ようこそ、この宮へ。地上からようおいでなすった」
「え、ああ……いったい、なあにがあったんで。おらぁ、溺れて死んじまった気がするんだ」
「おっしゃる通りで。溺れて沈んできたそれがし――ああそれがし、名はなんと言う」
「栄吉、袋田村の栄吉と申す」
「そうか、栄吉か。おめでたい名じゃのう」
そこで男はわずかに面を下げ、
「かわいそうに」
栄吉には聞こえぬようにつぶやいた。
「……あのう、なにかおかしなことでも」
「心配ご無用。とにかくじゃ、沈んできたそれがしを外へ出ていたわしのお付きが見つけて、ここへ運んできたのよ。ここは泉の中にある宮殿じゃ、お伽噺の竜宮だと思えばよい」
「ああ……竜宮」
理解のしやすい喩えに、栄吉は少し落ち着きを取り戻した。
「わし一人で迎えたいと伝えたから、お付きは今奥へ引っ込んでおる。あとで礼を言うてやってくれ」
「はっ。しかし、水中に沈めば命はないんじゃあ……」
「なにを言うておる。これは変若水、死なずの水じゃぞ? 死ぬわけがなかろうて」
それはそうだと納得しかけたところで、栄吉の頭には疑問がよぎるのであった。
「変若水はその名の通り、あくまでも若返りの水であって。死なずとまでいくとは、おらぁ初耳で」
若返りさえも信じてはおらんのですが、と付け加え。
「お主らのように年に一度水かめへ汲むほどであれば、幾年か若返るだけよ。それも、若返りは生涯一度きり。世のほとんどは無駄なことをしとるわけだ……じゃが」
栄吉には、男の眼が鋭い光を宿したように思えた。
「毎日欠かさず、生活のほぼすべてに変若水を使い続けると、十年もすれば不死になる。あるいは……」
「あるいは?」
「変若水の泉あるいは井戸に落ちて沈む……そうじゃ、先ほどのそれがしのようにな。どういうわけか、自ら飛び込むのでは能わぬらしい。死なずとなる意思を持たずに落ちねばならない」
「なんと、そげな駄洒落まがいのことで……?」
「信じられぬと言いたいようじゃな。まあ、無理もなかろう」
正座のひざに両手を置き、背筋に力を入れる男。笑みが柔和なものから形を変えた。
ああ――ああ其れは、語るに語れぬおぞましさ。なんとも残忍で、狂いきった笑みであった。
怖気を隠せぬ栄吉の背に、つうと冷や汗の筋が垂れ。続く言葉で、栄吉の肌はあたたかみを失うた。
「じゃがこれで、それがしも戻れぬ身。わしらの同胞じゃ。これからずうっと共に生きような」
「なに、戻れ――」
けけけけけえけ、けえけけけ。
あざけるような高笑いの中、男はその姿を異にした。
――それは、蛇のようじゃった。蛇と人の合いの子か、あるいは蛇のなりそこないか。いずれにせよ、醜いことに変わりはのうて。
手足は退化してごく小さきものとなり、肌はてらてら黒光りする鱗。口からはちいろちいろと糸のごとき舌がのぞいておった。それ以外は人のまま、半端な化けようのそれは、しかし紛れもなく化生であった。
「ああ口惜しい、人間に戻れる時の短さよ。なあ、忌むべき無残な姿じゃろう? 死なずとなったところでこれではのう。俗世に戻らんとしたこともあったが、だあれも受け入れてはくれんかった」
細くなった腕で泣き真似をする男。しかし、声に乗りし悲しみは、おそらく真であろう。
「たしかに蛇は、天照大神の化身とも言われるほどめでたき存在じゃ。なにより、古来から不老不死の象徴と伝わる。しかし蛇にはなりとうなかった、人であれ! あまつさえ、縁起のよい白蛇ですらなく。黒じゃ、深き闇の黒じゃ。これこそが、人の分際で死なずを望んだ罰よ」
「それは実に切ねえと、おらぁ思いますで……」
心中を驚きに支配されどなお、栄吉の優しさは健在であった。
「左様か。わかってくれるか。かように優しき者であれば、呼んだ甲斐があったというもの。生き続けねばならぬとあっては、わしらも寂しいんじゃ。それゆえ、たまにこうして友を増やすのよ。先ほども言うたが、もう戻れぬぞ。現世はすべて捨ててゆけ」
「……承知、いたし申した」
泣きわめく心を抑え、それのみを答えるのが精一杯の栄吉であった。
――とうに限界であるというのに。
「わしらの同胞になったのじゃからな。ほうれ、己の手を見てみい」
その手は真黒になり、腕もろとも縮んでおり。眼前の化生と瓜二つ……いや、まったく同じであった。
「くろへ、び……」
気づいたのと時を同じくして、栄吉の中のなにかが壊れていった。
「ようこそ、底の宮へ。闇へ堕ちた者同士、光を見ずにいつまでも、いつまでも不幸せに暮らそうではないか」
「………っは、」
まず息が漏れ、次いで暗き笑みが漏れ。
「はは、ははははははは!暮らそうではないか!」
まるで今後の生の長さを表すかのように。それはそれは長いこと、笑みがふたつ響き渡っていたんだとさ。