5.決心
リサが待合室の向こうを見ると、ちょうど女の子と母親くらいの年齢の女性が通った。先ほど椅子に腰かけて、おじいさんに会うために話をしていた二人だ。アンドロイドの女の子とボランティアスタッフ。おそらく面会を終えて、これから帰るところなのだろう。
リサは、叔母に目を戻した。
「アンドロイドには、人工知能があるから、それで考えたりできるんですよね」
「そうよ。自分で考えたり、行動したりできるの。この国もそうだけど、世界中で戦争が起こって、たくさんの人が犠牲になったわ。もう人間だけでは、大きくなった社会を支え切れなくなっているの。今、アンドロイドはこの社会に必要な人材、になりつつあるのよ」
リサは、大きく頷く。医療センターに来てから、そのことを何度も感じてきた。
「だけど」
叔母は続けた。
「だけど、アンドロイドが亡くなった人の代わりにはならないわね」
リサはその言葉に、思わず叔母の顔を見つめる。
「叔母さん……」
「私も姉を亡くしたから、少しは分かるわ。姉……あなたのお母さんは、この国から離れるとき、本当に悩んで、いろんなことを考え抜いて出ていったのよ。あなたのお父さんは、ファルカ島でテクノロジーから離れた生活を推し進めている中心人物だったから、結婚するのは相当な覚悟が必要だったはず。二度とこの国に戻らないかもしれないって話していたの。でも、向こうに渡ってから、何度も手紙をくれてね、そのたびにやらなきゃいけないことや課題はたくさんあるけど、頑張っているって書いてあったわ。きっと、いい世界が作れるって」
小さなリサには、母の苦労はあまり伝わっていなかったと思う。だが、それでも「集まりに行く」と言われれば、真面目な話なんだと思って、黙ってお兄ちゃんと留守番をしていたものだ。
「あなたのお母さんは、志半ばで亡くなってしまった。そう思うと悔しくて悲しいのよ。リサちゃんのことも最後まで心残りでいたはずよ。だけど、世界中にいっぱいそういう人たちがいるってことも、知ったわ。お兄さんが入院していた病院では、家族や親しい人を亡くしたりして悲しみに沈んだままの人たちに何度も会ったの。ファルカ島付近の今回の事故もそうだけど、その前の戦争でも本当にたくさんの人が悲しんで傷ついたのよ」
世界中を巻き込んだ核戦争が完全に終結してから、まだ十数年しか経っていない。
「まだまだ世界中に深い傷が残っているって話していたわ」
叔母は続けて言った。
「お兄さんだけが特別ではないのよ」
その意味をリサはどう考えたらいいのか、一瞬迷った。
世界中が傷ついていて、世界中に悲しみが溢れている……。
悲しみが癒えないまま生きているのは自分だけではない。それは分かっているつもりだった。でも外に出ず、人に会うことも避けてしまっていたから、見聞きする機会はまるでなかった。今、初めて自分以外の人のことを考えたような気がする。
「リサちゃんに、アンドロイドであってもお兄さんを会わせようって思ったのは、結局いろいろと話を聞いたからなの。亡くなった家族や恋人に似せたアンドロイドと一緒に暮らしている人は、実はたくさんいるのよ。もちろん、それで死んだ人の代わりになることはない。ただ、少しずつ亡くなったことに慣れていくんだとみんなが話していたの」
アンドロイドが人間と一緒にいる社会。
アンドロイドが必要とされているのは、今生きている人のこれからのためだけでなく、亡くなった人との過去のためでもあったのだ。
「……」
リサは、戸口を見つめた。
ついさっき帰った女の子とボランティアスタッフ。あの女の子は、おじいさんを元気づけるためにやってきたアンドロイドだと思っていた。だが、人間そっくりなあの子に対して「人間だって思ってもらえるように」と言い聞かせていた。もしかすると、亡くなった孫そっくりに作ってあって、おじいさんは孫だとずっと信じているのかもしれない。
これまでのリサのお兄ちゃんと同じように。
リサは今になって、急に思い至った。
「いつかリサちゃんがお兄さんのことを分かってしまうのではと思っていたわ。そのときは、今すぐお兄さんを失ってひどく悲しむリサちゃんを見たくなかったこともあるけれど、少しずつお兄さんが亡くなったことを受け入れていった方がいいんじゃないかと思ったこともあるの。でも、やっぱり突然のことなってしまったわね」
リサは何も答えられなかった。
リサは、事故からしばらくしても、時折、発作のように島での暮らしを思い起こして、気持ちを抑え込むことができなくなることがあった。両親のことをどうしようもなく悲しんだり、以前の生活をひどく懐かしんだりした。兄と暮らし出してからも時たまそういうことがあった。
「取り戻せないことが分かっているのに、どうしても気持ちが収まらなくなるの。どうしたらいいのかな」
ある晩、泣きながらお兄ちゃんに話したら、お兄ちゃんはこう答えてくれた。
「感じることを、感じるまま表していいんじゃないかな」
リサは、いつまでも悲しむ自分を受け入れてもらったようで、救われた気持ちになった。
だけど、お兄ちゃんは本当はアンドロイドで、リサとの思い出も後から加えられたものだったのだ。アンドロイドだと知っていたら、人工知能で考えた言葉だと分かっても、あの時救われることはなかったかもしれない。
これまでの二人での暮らしは、リサには必要だったに違いない。
だけど。
アンドロイドだと知った今と、これからはどうなのだろう。
「ここへ来る前に病院の先生に私から連絡をとって、お兄さんのことを話したのよ。それだけじゃなくて、目覚まし時計をリサちゃんの家から借りたの。時計の故障だってことは、もう分かっていたから。黙っておうちにまで入ってしまって、ごめんなさい」
「いいえ……」
椅子の上に、紺色のコートが黒い小さな鞄と一緒に置かれている。先ほど叔母さんらしい姿を見たと思ったのは、やはり本人だったのだ。
もともと叔母の持っていた家を二人で住めるように手配してもらっていた。時計を借りるために入るのは全く構わなかった。
ただ。
今、眠っているアンドロイドのお兄ちゃんがいる。そして、そのお兄ちゃんを目覚めさせる時計がある。
そのことが、リサには重い事実だった。
目覚まし時計が直ったら、私はどうすればいいのだろう。
「もうすぐ、時計の修理が終わるわ。きっと元に戻るわ」
一体何が元に戻るというのだろう。
元のように、アンドロイドのお兄ちゃんとの暮らしがまた始まるのだろうか。叔母さんは、お兄ちゃんの死を知った以上、少しずつこれからの生活で傷を癒すことができたら、と望んでいる。でも、アンドロイドと知った以上、もうお兄ちゃんはどこにもいないんじゃないの……?
リサは一息ついて、遠くを眺めた。
院内では、たくさんの人が待っている。たくさんの人が働いている。そこにアンドロイドの勤務者が立ち混じる。気づかないかもしれないけど、待っている人の中にもアンドロイドがいる。それがこの社会だ。
最初にこの国に来てから、二年が経とうとしている。はじめは、島での生活と両親をみんな失ったことで、呆然としていた。今も、そのときの悲しみがなくなることはない。
けれど、お兄ちゃんが見つかったことで希望を持った。お兄ちゃんと一緒に生活できるようになった。以前とは様々なことが違う毎日だったけれど、二人でいられれば大丈夫だと思っていた。今思えば、いろんなことから逃げていた気もする。
この国に来る前は、アンドロイドは怖いものだと思っていた。人間の代わりをするロボット。機械の人形が歩いている世界ばかりを想像していた。叔母さんと一緒にいたときも、お兄ちゃんと住んでからも、ほとんど家にいる生活をしていた。ボタン一つで何でも物が揃うから、外に出る必要はなかった。そうすれば、知らない世界を見ずに済むし、アンドロイドに会わないから。でも、実は一緒にいたお兄ちゃんがアンドロイドだったのだ。
今日、初めてこの世界のいろんなことを知った。お兄ちゃんがおかしいと気づいてから、無我夢中で医療センターに連絡して、一人で遠くまで外に出た。センターの人たちに説明したときに、アンドロイドの姿も見かけた。お兄ちゃんの脈を採った人には、腕に脈拍計が付属していて、そうだと気が付いた。そのあと、運搬してくれた人も。でも、そのとき怖さなど感じる余裕はなかった。ただお兄ちゃんがどうなってしまったのか考えるだけで震えがきて、心配でどうにかなりそうだったのだ。
そのあとも、椅子を勧めてくれた人、会計の人、女の子。みんな怖さを感じなかった。医者がアンドロイドだと知った時には驚いたけれど、この社会のあり方がようやく心から分かったように思った。
だけど。これから先も、本当のお兄ちゃんの死が受け入れられるまで、アンドロイドのお兄ちゃんと一緒に住むというのは、どうなんだろう。
想像してみる。でも、叔母さんが考えている通りになるかどうか分からなかった。
お兄ちゃんが事故で死んでいたことは、まだ受け止めきれない。アンドロイドのお兄ちゃんと暮らしていくうちに、少しずつ受け入れる。そうするのも、一つの手立てだと思う。でも、そうしないのも一つの手立てだ。
私は、本当はどう望んでいるんだろう。今、それを自分で決めないといけない。
「いろんな現実を知った上で、選択する権利がある」
母の言葉をふと思い出した。
リサは、自分の右手を握りしめる。
アンドロイドのお兄ちゃんと暮らし始めて一年近く。自分自身は、閉じこもって生きてきた。この社会とかかわる気持ちになれなくて、不安で。でも、どこかでこのままではいけないと思っていた。ずっとお兄ちゃんに頼ってばかりいないで、少しでも社会と関わらないといけないと思っていた。学校に行くことさえ考えてみたことがある。
一番怖いと思っていたアンドロイドさえどんなものなのか知った。今なら、一歩踏み出せる。
外を見ると、一度小止みになっていた雪がまた降り始めていた。このまま積もるのかもしれない。
リサはまた、自分の心のうちに戻る。
今でも、お兄ちゃんが本当に生きていたらって、とてもとても思う。だけど、私はどこかでお兄ちゃんがもういないと知っていたのかもしれない。
私が一番よく見る夢は、事故でお兄ちゃんも死んでしまった夢だったのだから。
アンドロイドのお兄ちゃんに、朝話せない唯一の夢。それが、本当は現実だった。
私は、それをどこかで感じ取っていて、夢に見ていたのかもしれない。きっと、そうだ。
医者はアンドロイドの技術者に時計を直すように依頼している。もうすぐ時計が動くようになる。目覚まし時計の音が鳴る。アンドロイドのお兄ちゃんが目を覚ます。私をお兄ちゃんのガラスの瞳が見つめる。
私は、そのお兄ちゃんとこれからも暮らし、少しずつ本当のお兄ちゃんとお別れするのだろうか。
それとも、いまお別れできるだろうか。
リサは、そっと目を閉じた。
どこかで、目覚まし時計の音が聞こえる。
現実にではない。ずっと私の中で聞こえていた気がする音だ。
そう。私の心の目覚まし時計は、もう鳴り響いている。お兄ちゃんのことを、ずっと前から感じていたのだ。
今、私こそ目を覚まそう。
病院の廊下に、人を呼ぶ声が響いている。リサの名前だ。
リサは目を開き、立ち上がる。
「リサちゃん……」
叔母の声が追ってきた。
「叔母さんは、ここで待っていてください」
「大丈夫なの。ついていくわよ、リサちゃん」
きっと、このままで少しずつ受け入れられる。お兄ちゃんのことも、この社会のことも。こんな自分自身のことも。
「一人で行きます」
リサは決心した。
「でも……」
ためらう叔母に、リサは振り返る。
「その代わり、あとでゆっくりお話聞かせてもらえますか。この社会のこととか学校のこととか、知りたいことがたくさんあるので、教えてもらえませんか」
叔母は一瞬驚いたようだが、そのあと表情が初めて微かに明るくなった。
「ええ、ええ。そうしましょう、リサちゃん」
診察室の扉を開くと、医者ともう一人の男性がいた。
「こちらが、アンドロイドの技術者の方です」
医者が紹介した。リサは黙礼した。
「いただいた時計の故障は直りましたから、心配ありませんよ。お兄さんもこれで元通りです」
リサは深呼吸をした。
「それでは、時計を鳴らしますからね」
その言葉に、リサは静かに口を開いた。
「待ってください。もう鳴らす必要はないんです」
さようなら。ずっと前にお別れしなければならなかった、お兄ちゃん。
リサは、心の中でそっと呟いた。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。