4.お兄ちゃん
看護師に続いて、リサは診察室の扉をくぐった。
灰色の髪をした医者が、こちらを振り返る。リサは手にした茶色のコートをもう一度握り直し、軽く頭を下げた。逸る気持ちを抑え込む。ためいがちに、椅子に腰かけた。
医者はリサの立ち居を見届けてから、ゆっくりと言葉を口にした。
「あなたのお兄さんは、アンドロイドですよ」
「えっ……」
何を聞き違えたのかとリサは思った。
アンドロイド。お兄さんは、アンドロイド。
一体何なのか訳が分からない。
「睡眠機能がついていて、特殊な頭脳の働きができるんですね。私も初めて見ました」
「何の……話でしょうか」
声がかすれて、うまく出てこない。
「目覚まし時計が鳴ると、覚醒するタイプですよ」
リサの様子に、医者はもう一度告げた。
「あなたのお兄さんは人間ではなくて、アンドロイドです。セットになっている目覚まし時計が故障したので、動かなくなっただけですよ」
「お兄ちゃんが……アンドロイド……」
「知らなかったのですか」
医者の声には、何の感情もこもっていないようだ。リサは医者の瞳をよく覗き込む。青いガラスの瞳だった。
このお医者さんも……!
そういうこともあるんだと、リサは冷静になろうとした。けれど、今まで一緒に暮らしてきたお兄ちゃんが人間でないなどとは、到底信じられない。
「嘘だわ。嘘よ。自分と一緒にしているだけじゃないの!」
声が震える。体も震えている。
「リサちゃん!」
叫び声がした。そして、後ろから抱きつかれた。
「リサちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい」
叔母だった。来ていたのだった。叔母はリサの前に向き直った。
「リサちゃん、聞いたでしょ」
リサは首を強く横に振る。
「嘘よ……」
「いいえ、嘘じゃないの。聞いて」
静かだが、強い調子で叔母は続けた。
「リサちゃんも知っている通り、事故から半月くらいたって、あなたのお兄さんが見つかったって連絡が届いたの。レイルス諸島の病院に入院しているって」
リサが以前から聞いていたのと同じ話だった。
「すぐに私が向かったのも、知っているわよね」
叔母は息を継いで、真っ赤になった目元を拭う。
「それなのに、私が病院に着いた時には、お兄さんは……亡くなっていたのよ。一緒に漁に出ていた友だちの方と間違えていたらしいの。信じられなかったわ」
「……」
リサは何一つ言葉を口にすることができない。
「お兄さんは、二年前の事故で亡くなったのよ、リサちゃん」
嘘よ、絶対に嘘よ。
心の中で叫んでも、声にはならない。
叔母さんが嘘をついているんじゃないことぐらい分かっている。でも、こんなこと信じたくない。
リサは、ただ涙があふれていくままでいるしかなかった。
「私、あの時リサちゃんになんて言ったらいいか分からなかった。だから、嘘をついたの。お兄さんは入院しているって。最初に聞いたままを言ったのよ。ごめんなさい、リサちゃん」
リサは俯いた。涙がぽとりぽとりと地面に落ちる。
お兄ちゃんが、二年前に死んでいたなんて。
リサは唇を噛みしめて、地面に落ちていく涙を見つめる。
お兄ちゃんがこれまでいなかったなんて、信じることができない。理解できない。
医者が時計を直してくると叔母に話したようだが、リサは鞄を持ったままぼんやりしていた。
叔母は自分のコートと鞄を抱え、更にリサの茶色のコートを手に持った。リサを待合室の隅の席へ行くように促す。
座り込んだリサは、しばらくしてからぽつりと呟いた。
「それで、今のお兄ちゃんはアンドロイドなの……」
疑問のような独り言のような言葉に、叔母はリサの手を取った。
「そうだったのよ」
一言、はっきりと告げた後、目を伏せた。
叔母の手は、ふっくらとしていて、きれいだった。木や草、肉や魚、冷たい水や泥と格闘していたリサの母のかさかさした手とはまるで違っている。その手は、思いがけないほど温かく感じた。
「リサちゃんにお兄さんが入院していると話してしまってから、どうしようか随分悩んだわ。最初は、何とかしてリサちゃんに本当のことを言おう、どう言おうかって考えた。でも、だんだんどうしたらリサちゃんが知らないで済むだろうって……そんなことを考えるようになったの」
叔母は、苦しそうに息を吐いた。リサはその様子に、叔母の今までの苦労を感じ取った。
「それで私に、お兄ちゃんは向こうで長く入院することになったって……言ったんですね」
リサはやっとの思いで、そう口にした。
「嘘をついてしまって、本当にごめんなさい。おかげで、もっとリサちゃんを辛い目に遭わせてしまったわね」
「そうかもしれません。だってまだ信じられないんです」
「そうよね。本当になんて言ったらいいか……」
叔母の言葉を聞きながら、リサは黙って目を閉じた。
飛行場で待っている中、叔母さんと一緒に降りてきたお兄ちゃん。長く入院していたなんて信じられないくらい元気で、こちらに手を振ってくれた。
「ただいま、リサ。やっと会えたね。いままで一人でよく頑張ったよ」
最初にそう声を掛けてくれた、久しぶりのお兄ちゃん。
叔母さんの家を出て、二人で暮らしたいと言ったときの、ちょっと驚いて不安そうだった顔。
退院して初めて仕事に行くときの、「一人で留守番でいいの?」と逆に気をつかってくれた一言。
「記憶に曖昧なところがあるかも」と伏目がちに話したときのこと。
リサの焼いたパンを「おいしいね。ぼくも一緒に作れるように早く起きたほうがいい?」と聞いたときの何気ない曇った表情。
少し違和感のあることもあった。でも、きっとそれはそれで普通になっていくと思っていた。半年もして、最近ではだいぶ慣れてきたと思っていたところだったのだ。
それなのに、それなのに。
今まで一緒だったお兄ちゃんが、アンドロイドだなんて。お兄ちゃんが二年前に事故で亡くなっていたなんて。
こんな事実、受け止める自信がない。やっぱり嘘だと言ってほしい。
叔母は、言葉を継いだ。
「何度も、本当のことを言おうと思ったわ。でも、日が経つにつれてどんどん重くなってしまって、言えなくなってしまったの。ごめんなさい、リサちゃん」
リサは俯いたまま、微かに首を横に振った。
私のことを思ってしてくれたことなのだ。
しばらくリサの様子を見てから、叔母はまた口を開いた。
「リサちゃんに何も告げないでいられたらって考えたとき、一番最初に思い出したのは、リサちゃんがお兄さんが戻ってきたら、毎朝夢の話をしたいって言ったことよ」
「夢の……話」
リサは確かに、叔母に語った。
お兄ちゃんが退院したら、一緒に暮らしたい。島には戻れなくても、二人でここで生活できれば、私は大丈夫。島にいたときは、毎日起きると夢で見たことを話していたの。だから、これからもお兄ちゃんと暮らして、朝ご飯を食べながら、前の晩に見た夢の話をしたいの。
「ただ昔のように、お兄さんと夢を話してご飯が食べたいってリサちゃんが言ったの。私は、それを叶えてあげたいなって強く思ったわ」
叔母は鼻をすすり、目頭を押さえた。
「両親を亡くして、リサちゃん、すごく塞ぎ込んでいたから。私もどうしたらいいか分からなくて。そんなときにお兄さんが見つかって、リサちゃんが初めて話してくれた希望だったもの。よく覚えていたわ」
リサは、本当にその通りに暮らしてきた。
「お兄さんが亡くなったことを入院中だってことにしてしまおう。そして、お兄さんをリサちゃんに絶対会わせたい。そのためにどうしたらいいか、とても考えたのよ」
叔母は、アンドロイド製造について調べた。今の技術では、人間そっくりに作ることも可能だという。一番難しいのは瞳らしい。大抵のアンドロイドはガラスのような眼をしている。が、それさえ特殊な技術を施せば、人間とそっくりに作ることができるという。さらに、アンドロイドの性能として、睡眠機能というものを見つけたのだった。
「目覚まし時計をセットすると、その夜夢を見ることができるアンドロイドも制作できると聞いたのよ。それだったら、きっとリサちゃんの思いを叶えられると考えたわ。本当の……お兄さんじゃないって分からなければ、きっとうまくいくって……思ってしまったのよ……」
叔母は仕舞いまで言うか言わないかのうちに、涙でぬれた顔を両手で覆ってしまう。リサはそんな叔母の様子をただじっと見つめていた。何もかも、どう考えてよいか分からなかった。
お兄ちゃんがアンドロイドだった。今まで一緒にいたお兄ちゃんが。
叔母のとった行動を、リサは責め立てることができなかった。
もしも、両親の死を知ったすぐ後に、続けてお兄ちゃんが死んだことが分かったら、自分はどう取り乱したか分からない。
リサは思い返してみた。
二年前、事故で両親が亡くなったこと。そして、お兄ちゃんも本当はそのときに亡くなっていたこと。今までお兄ちゃんと生活してきたと思っていたのに、アンドロイドだったということ。
これから、本当に一人になってしまう。そのことが寂しくて、悲しくて怖い。だけど、これまで以上に叔母さんは気を遣ってくれるに違いない。
「叔母さん、私、分かったわ。本当に分かったかどうか自信はないけど、叔母さんが私のためにやってくれたことも分かったと思います。お兄ちゃんのことも、一緒に暮らしていて、不思議に思ったことがいろいろありましたから」
島にいたときと比べて、どこか違和感があったこと。幼いころの記憶で、思い出せないことがたくさんあったこと。それは無論、事故の後遺症であって、今朝目覚めなかったのも、そのせいじゃないかと考えていたのだけれど。
「一番疑問に思ったのは、目覚まし時計です」
リサは、頬の涙を手で振り払う。
「私たち家族は、ファルカ島で自然に近いリズムで過ごすようにしていました。時計はあったけれど、夏に日が長くなればそれだけよく働いて、冬に日が短くなればそれだけよく休んでいました。だから、時計の時刻で起きたことなんてなかったんです」
叔母は、はっとした表情を見せた。リサは続ける。
「それが、二人で暮らすようになってから、お兄ちゃんは毎日目覚まし時計をセットして、これがないと起きられないって言ったんです。それが不思議だなって……」
話すうちに、リサはまた目の前がかすむのが分かった。それでも、涙は止まらない。
「リサちゃん……本当にごめんなさい」
叔母は、静かにリサを抱きしめた。リサはそのままで目を閉じる。静かに流れていく涙を感じとる。少しずつ気持ちが収まってきた。
やがて顔を上げたリサの目を、叔母は見つめた。
「今日、リサちゃんから連絡をもらったとき、すぐに分かったわ」
何が、とリサは問いかけようとしてやめた。叔母はゆっくりと、口を開いた。
「目覚まし時計が動かなくなったに違いないって。お兄さんが目を覚まさないとしたら、それが一番あり得る話だから。私はすぐにお兄さんの通っている会社に連絡したのよ」
兄の職場はアンドロイド制作会社だった。退院した兄が何かのつてで得た職場だと聞いていただけで、仕事がどんなものかさえ、リサは全く分かっていなかった。アンドロイドの制作に携わっているものと思い込んでいたのだ。実際には、メンテナンスに通っていたことになる。
「制作現場は、混乱していたわ。昨夜注意したばかりだって」
そういえば、昨日お兄ちゃんは珍しく夜になって仕事に出かけた。いや、メンテナンスに出かけたのだ。
「そろそろ時計のメンテナンスもした方がいいと、何度か話したって言っていたの。でも、間に合わなかった……って」
兄の目覚まし時計は、かなり精巧なもので、メンテナンスに出すと一日や二日では戻せない。そもそも夢を見る機能を持った特殊なアンドロイドの数自体が少ないのだ。時計の検査をするのも難しいようだった。
「お兄さんは、なるべく時計で起きたいから、もう少ししたらといつも話していたらしいのよ。妹と夢の話ができなくなるのが嫌だって」
リサは息を呑んだ。
「夢の話を……お兄ちゃんもしたいと思っていたの?」
「正確には、そういうプログラムだったということよ、リサちゃん」
「そう、ですよね」
ゆっくりと受け答えつつも、一瞬、リサはお兄ちゃんが、やはり血の通った人間ではなかったのかと思ってしまった。
リサはやっとの思いでその考えを打ち消して、尋ねた。
「アンドロイドのお兄ちゃんは、自分がアンドロイドだと分かっていたんですよね」
「そうよ。リサちゃんの置かれた状況を知っていて、人間のふりをしていたわ。お兄さんのようにしていたのよ。記憶喪失ということではなかったの」
記憶喪失のふりをして、リサが疑問に思うことを避けていたのだと今なら分かる。