3.待合室
リサは、携帯電話を取り出した。
ためらう暇はなかった。リサは登録してあるボタンを押す。
コール音が鳴った。一回、二回、三回。ガチャッと唐突に音がして、心臓がびくりとした。
「はい」
明るい声に、更にどきりとする。
「あの……リサです」
「リサちゃん? まあ、よく掛けてくれたわね」
叔母さんの微かに笑った顔が思い浮かぶ声だった。ゆっくりとした調子に、リサは突然不安が高まった。
何も知らない叔母さん。
「叔母さん、大変なんです。お兄ちゃんが、お兄ちゃんが大変なんです」
なぜか声が上ずってしまう。言葉が上手く出てこない。
「お兄さん、どうしたの」
叔母さんの声の調子が変わった。リサは固唾を飲み込んだ。
「お兄ちゃんが大変なんです」
なのに、出てくる言葉はこればかりだ。
「今、どこにいるの」
「病院。アルデ医療センターです」
「病院……」
叔母さんの声がか細くなった。途端にリサは声が出る。
「お兄ちゃんが、朝、目を覚まさなかったんです。おかしいと思って見たときにはぐったりしていたんです。お兄ちゃん、最近頭痛がするとか何も言ってなかったんです。でも、本当は具合いが悪かったんでしょうか。もう心配で、心配で……」
「リサちゃん、すぐ行くわ。待ってて」
突然電話は切れた。
「叔母さん!」
リサの叫び声は届かない。もっと何か言ってほしかった。大丈夫、とか心配ない、とか。
急に途切れてしまった叔母とのつながりに、リサはどうしていいか分からなくなってしまった。
気がつくと、歩き出していた。
診察室の扉の前に来た。そこからまた引き返す。叔母さんが来るのだから、落ち着かなくては、と思う。しかし、体はうまくとどまってくれない。
そのとき、何かカタカタと物音が始まった。
カタカタ。カタカタ、カタカタ。
リサは、音のしたほうを振り返った。随分と細かく素早い音だ。
左後ろに会計室と表示された窓口があった。ガラス越しに人の姿がある。女性が一人、パソコンの画面に向かって、何かデータを打ち込んでいるらしい。
ものすごい速さなんだろうなとリサにも見当がついた。
島に住んでいた時、周辺諸国について映像で学ぶ機会があった。そのときちょっとだけ教わった。キーボードの打ち方。映像の中では、いろんな人がキーボードに向かっていた。だが、そんな速さではない。
リサは会計に座っている女性を見つめる。アンドロイドだろうと予測がついた。
不思議と怖い気はしなかった。これまで何となく人間に交じっているロボットというのが、不快に感じていたのに。この場に、あのアンドロイドは合っている気がした。
リサは待合室の椅子の向こうに、もう一人のアンドロイドの後姿を見つけた。先程椅子を勧めてくれた人だ。こちらも、ここから見るとごく普通に見える。
ほとんど椅子を勧めたり、場所を案内したりしているだけのようだが、あのガラスの瞳の持ち主が何も考えていないとははっきり言えなかった。
人間の代わりとしてつくられたアンドロイドたちは、外見をよく似せて作られ、中には人と区別がつかないほど精巧なこともあるという。更に、多くのアンドロイドたちは人工知能を持っており、自身で物事を考えるようにできているとのことだ。
リサには、椅子を勧めるアンドロイドが、どこか手持ち無沙汰に見えた。そして、アンドロイドに同情しているような気がして、おかしな気分になった。
リサは、これまであまり外に出ず、アンドロイドのことも島で聞いたことばかりで、実際に見ることはほとんどなかった。今まで人間そっくりで人間でない機械だと恐れていたのに、今日見たアンドロイドたちには、そんな気持ちを持てなかった。
それなりに、社会の一部なのかな。
リサは、もう一度診察室の扉を見つめてから、待合室の椅子に戻った。
それにしても、随分時間が経っている。一体医者はどう診たんだろう。
リサの不安な気持ちは時々どうしようもなく高ぶった。
待合室の顔ぶれはあまり変わったようには見えない。四十代と見える女の人が、ずっと手にした携帯電話の画面を覗き込んでいる。その斜め後ろには、白髪の男性がぼんやりと座っている。その右横には、中年の男性が病院のパンフレットを眺めたり畳んだりしている。
そのとき、病院の入り口にさっと人影がよぎった。紺色のコートを羽織った小柄な人。叔母さんだ、とリサはすぐ分かった。
叔母へ向かって手を振ろうとする。だが、叔母は入り口には入らず、通り過ぎてしまったらしい。
こっちなのに。
リサは叔母を呼びに行こうかどうしようか迷った。すぐにでも、お兄ちゃんのことをもう一度話したいと思った。だが、捜している間に医者から呼ばれるかもしれない。一瞬だったから、見間違いの可能性もある。
本当に叔母さんだったら、そのうちここに私がいることが分かるはず。
リサは座りなおそうとした。そのとき、入り口の自動ドアが開き、三つか四つくらいの年の女の子が飛び込んできた。女の子は勢い余って、そのまま転んでしまう。
地面に身体がぶつかる派手な音がした。
リサは思わず目をつぶる。女の子の泣き声が響くのではないかと身構えた。
しかし、次にリサが目を開いたときには、女の子は何事もなかったかのように、起き上がっていた。
女の子は乱れた栗色の髪を後ろにかき上げて、照れたように笑った。転んで痛いはずだと思っていたリサには、ひどく不自然な反応だった。
後ろからやってきた女性が声を掛けた。
「どこも故障していないわよね」
故障? 怪我じゃないの?
女性は母親くらいの年齢に見えたが、ボランティアスタッフ、と書かれた名札をつけていた。一方、女の子は自分の手足をあちこち眺めたり、動かしたりしている。
「うん。メンテナンスはいらないよ」
その言葉を聞いて、リサはこの女の子もアンドロイドだと確信した。外見上は、どこをどう見てもアンドロイドには見えないのだが。
女の子とボランティアスタッフは、リサの近くの椅子に腰かけた。リサも慌てて椅子に座る。二人はそのまま話し続ける。
どうやら、ここに入院しているおじいさんのお見舞いに来たらしい。
「お土産のお饅頭は、あなたも一緒に食べていいからね」
「うん、そうする」
「おじいちゃんに会ったら、まずはおじいちゃんの目を見て、こんにちはって挨拶するのよ」
「分かった」
ひとつひとつ確認している。
一見、娘と孫が入院している祖父を見舞いに来る場面だ。しかし、実際にはお年寄りを孫のような子どものアンドロイドが見舞うというボランティアなのだろうか。
ボランティアスタッフは更に「人間だって思ってもらえるように、くれぐれも気をつけてね」と、女の子に念を押すと立ち上がった。
「それじゃ、おじいちゃんのところへ行きましょうか。4117号室よ」
二人は手をつなぐと、エレベーターの方へ向かっていく。
女の子もボランティアスタッフも、もう転んだことなどとうに忘れているに違いなかった。
リサは、小さいころ、よく木の根に躓いたことを思い出した。山奥の木の実を取りに行ったり、タケノコやキノコなどを収穫したり。そのたびに、よく転んだ。
転んだ拍子に持っていた物を落としたり、水筒の水をこぼしたりして、母さんに「もう少し気をつけて歩くのよ」と何度も注意された。それでも、うっかりして膝を擦りむいてしまったものだ。痛くて泣いたときもあれば、悔しくて泣いたこともある。
そのたびに、お兄ちゃんがやってきて「痛かった? 荷物持とうか。手を貸してあげるよ」と、必要以上にかばってくれたものだ。
リサは少し大きくなると、そんなお兄ちゃんの気持ちが煩わしくなり「平気。何でもない」と、必要以上に突っぱねてしまったけれども。
そんな小さな日常も、ここではどのくらいありえるのだろうか。
大きな山などない、延々と続くビル群。工場で管理されて作られている食べ物。そして、少なくなってしまった人間。
島にいる頃、アンドロイドのいる社会は、労働人口が保てなくなったから、と習った。でも、実は小さな女の子さえ足りていないのかもしれない。この待合室で待っている他の人の中にもアンドロイドがいる可能性がある。島で映像や書物で習っていたのと違う事実もあるのだろう。
リサは、急にそのことに気がついた。
息をついて、入り口の方をもう一度眺める。すると、白いものがぱらぱらと落ちていくのが見えた。目を凝らして分かった。
雪だった。
サイラン共和国でも南に位置するここでは、年に数回しか雪は降らない。
この頃ようやく暖かくなってきて、冬も終わりかと思っていたところだった。朝から曇っていたし、いつになく寒いと感じてはいた。リサは思わず、雪に見とれる。
多分、この冬最後の雪なんだろうな。
ふと、名前を呼ばれたような気がした。
振り向くと、看護師がもう一度、リサの名前を告げた。
リサは立ち上がった。




