2.リサの思い
リサはしばらく扉を睨むようにして立っていた。
「右手に椅子がありますよ。どうぞお掛けください」
後ろから声が聞こえて、リサははっとする。
振り返ると、若い女性スタッフらしい人がいた。黒っぽいブレザーを羽織っていて、名刺のカードがポケットに刺してある。
「あ、ありがとうございます」
慌ててお礼を言ったとき、彼女と目が合った。
ガラスのような瞳だった。リサはぎくりとした。
この人、アンドロイドだわ。
リサの気持ちを分からないらしく、彼女はにっこり笑って会釈をすると、歩き去った。
リサの心はアンドロイドから、また兄の容態への不安に戻った。
椅子に向かって歩きながらも、診察室の扉が気になっている。
リサは、様子のおかしい兄を、医療センターに連絡して運んでもらったのだ。
兄は、一度も目を覚まさなかった。そのまま診察室に入り、リサは待たされている。どんな病状なのか、まだ全く分からない。
このまま目を覚まさなかったら……。ううん、そんなこと絶対にない。お兄ちゃんは昨日の夜まで普通に仕事に行っていた。調子が悪いとかそんなことも言っていなかった。
だけど。だけど、事故の影響とかはどうなんだろう。
リサはこれまで兄について聞いたことを思い返してみた。
事故に遭った後、兄はしばらく行方不明で、記憶もはっきりしていないこと。怪我がひどかったので、病院に長く入院していたこと。何か後遺症がないとも限らない、と退院の時に言われたこと。
お兄ちゃんが大丈夫でありますように。
思わず膝の上で両手を組み、リサは祈る。
事故で両親を失ったリサには、家族四人でファルカ島で暮らしていた平和な時は戻ってこない。
でも、お兄ちゃんは元気になったのだ。これからも、お兄ちゃんとずっと暮らしていくのだ。
お願い。お兄ちゃんを元に戻して。
この時代、暮らしのほぼすべてはコンピューターで管理され、多くのことを人間ではなく精巧なアンドロイドたちが行なっている。
その前の時代に、国同士の利害対立から核戦争が勃発し、深刻な人口減少が起こった。そして、アンドロイドが、少なくなった人間の代わりを務める社会となったのだ。
一方、少数だがそうしたテクノロジーに疑問を持ち、自然の中で暮らすことを選択した人々もあった。彼らは未開の島々に集まり、独自の生活を営むようになった。ファルカ島はそうした島のひとつであり、リサの両親はそこで生活することを選んだ人間だった。
リサと兄はファルカ島で生まれたため、事故に遭うまでアンドロイドと人間が共に生活する社会を知ることがなかった。
両親のもとで森や海に食物を採りに行き、畑を耕したり牧場の動物たちを飼育したりするのが、当たり前の日常だった。
しかし、ファルカ島近辺には、巨大な原子力発電所があった。島民が豊かに暮らせるのも、この発電所があって周辺の諸国から援助があるおかげだった。
大人たちは、実際にはさまざまなテクノロジーについて見聞きする機会があるため、ファルカ島の暮らしについて、迷うことが多かったらしい。
リサの両親は「集まりに行く」と言って、よく出かけたものだ。
周囲の国々はアンドロイドを量産することで次第に変化していく。それに対して、この島はこのままでいいのか、それとも少しずつ変わっていったほうがいいのか、大人たちはよく議論していたようだ。
どんなに情報を遮断しても、子どもたちはいろんなことを知っていくだろう。適切な時期に適切なことを教えていかなければ。
そう父と母が話し合っているのをリサは聞いていた。
一仕事終えた夕方、両親が「集まりに行く」と、リサは五つ年上のお兄ちゃんと二人きりのことが多かった。だんだん暗くなっていく空を見ながら、二人で一緒に夕食の準備をした。
両親は食材をきちんとそろえ、作り方をしっかり説明して出かけていった。しかし、リサはよく、自分の作りたいものに変えたいと言って、お兄ちゃんを困らせたものだ。
「目玉焼きを作ろうよ」
「えっ、お母さんは鶏肉を照り焼きにしてって言ってたじゃん」
「でも、リサは今日は目玉焼きがいいんだもん」
「しょうがないな。卵ならまだいくつかあるから作ってみるか」
「うん。リサが卵割る」
「ええっ、この間殻がいっぱい入って大変だったよね」
「今度は大丈夫。やってみたいの」
この時点でお兄ちゃんは、リサが卵を割ってみたいがために、目玉焼きを作りたがっていることを見抜いている。それでも、何も言わずに卵を容器の中から出す。
受け取ったリサは、すぐさま、こんと机に叩いて、ぐしゃ。
「あっ、潰れちゃった」
壊れた卵の中身は、机から床に流れていってしまう。
「だから言ったじゃん」
呆れるお兄ちゃんの声に、リサはシクシク泣き出す。
「大丈夫、大丈夫だよ。もう一回やってごらんよ」
お兄ちゃんは、慌てて新しい卵をとり出す。
「力を入れずにそっとやってごらん。見ててあげるから。ボールを近くに置いてね」
「うん」
丁寧に丁寧に教えてくれた。リサが感情的になって騒いだり泣いたりしても、お兄ちゃんがすぐに慰めてくれて、静かな時間を過ごすことができた。
そのあと帰ってきた両親から「どうして卵が減っているの。鶏肉を焼いてって言ったでしょ」と小言を聞かされるのは、お兄ちゃんだった。
「リサがやりたいって言ったから……」
理由を告げるものの、両親から注意を受けて謝ったりするのはいつもお兄ちゃんの役目だった。それでも、お兄ちゃんは何一つ文句を言わずに、リサに笑顔を向けていてくれた。両親がいなくて寂しい時も、お兄ちゃんがいたからリサは安心だったのだ。
数年後、島の子どもたちは十五歳になると、テクノロジーの発達した国々へ研修旅行に行くことに決まった。大人たちは、他の世界があることを少しずつ子どもたちに教えるようになっていった。
リサの母は、この決まりについてこう語った。
「子どもであっても、いろんな現実を知った上で、選択する権利がある」と。
お兄ちゃんが研修旅行のときには、リサは心に穴がぽっかり開いたような気分になったものだ。ほんの数日間なのに、寂しくてたまらなかった。
そして、リサが十五歳になって研修旅行に出かけた翌日、原子力発電所で事故が起こった。
リサはもちろん、誰も事故が起こるとは思いもしなかったらしい。些細な人為的ミスではないかと言われたが、本当のことは知る由もない。
巨大な原子炉からの放射能漏れで、ファルカ島や周辺の島々は、あっという間に汚染されてしまったのだ。
リサが旅行から帰るところは、もうなかった。
ファルカ島は人の住めない地帯になってしまった。両親と兄の生存も最初から絶望的だった。リサやリサと同じように研修旅行に来ていた子どもたちは、一瞬のうちに住まいも一緒に住んでいた肉親も失ってしまった。
リサは、母の妹にあたる叔母に引き取られた。叔母は独身で、ファルカ島から遠く離れたサイラン共和国に住んでいた。リサは叔母と暮らすうちに、ファルカ島の状況を知っていった。
希望のない情報ばかりだった。しかしながら、リサの兄は行方不明者のリストからいつまでも外れなかった。遠くの海に出て漁をしていたらしい。
放射能汚染がどんなもので、どの程度の規模だったのか、リサにはよく分からなかった。ただ、二度と島には戻れず両親は帰ってこない。そんななかで、たったひとつお兄ちゃんの存在だけが頼りだった。
どうか無事でいてほしい。見つかったら、これまでのようなわがままな妹じゃなくなって、もっと仲良く暮らせるように頑張りたい。
リサは切実な思いでいた。
そして、リサの望みが叶う日がやってきた。お兄ちゃんが見つかったのだ。
兄は大怪我をしていて、サイラン共和国とは島を挟んで反対側に位置するレイルス諸島にある国に保護されているという。事故の時、海辺に出ていて助かったというが、奇跡に近い話だった。
遠くの国だったので、叔母がまず兄の様子を見に行った。兄は深い傷を負っていて、しばらくは向こうで治療に専念しなければならなかった。
リサは一日も早くお兄ちゃんのところに行きたかったが、戻ってきた叔母にサイラン共和国で一緒に待機することを勧められ、辛抱強く待った。
そうして、やっとお兄ちゃんと再会したのだ。
事故から数カ月が経っていた。リサ自身も大きな心の打撃を受け、生活も何もかも変わっていた。が、リサからするとお兄ちゃんはどこか大きく違うように感じられた。
その理由を叔母が説明してくれた。
「お兄さんは、事故で頭に怪我をしていたのよ。まだ記憶が戻っていないところもあるし、身体も完全ではないのよ」
リサには、叔母のその言葉がずっと気がかりだった。
そして、今。もしかすると、その後遺症が出ているのではないかと不安で不安でたまらなかったのだ。
医者にうまく説明できたかどうかも分からない。ただただお兄ちゃんを助けてほしいと訴えたような気もする。診察室の扉は固く閉ざされたまま十分以上が経過していた。
リサは椅子から身を持ち上げた。何かしないでは落ち着かない。そこで、ふと思いついた。
叔母さんに連絡しておかなくては。
リサは、兄が戻ってくると、二人だけで一緒に暮らしたいと叔母に話した。叔母は三人で暮らす方が安心だと話したが、結局はリサの気持ちを受け止めてくれた。リサは一日でも早く、少しでも島の暮らしに近い生活をしたかった。
ところが、兄は病院のつてで会社に勤務して、リハビリをすることになった。リサは昔のように二人で一緒に料理をしたかったが、そういうわけにはいかなかった。結局家にいるリサ一人の役目になっていた。
お兄ちゃんとの二人暮らしが始まって半年。リサは以前のような生活をまだ取り戻せないままだが、それでも二人での毎日に慣れてきたところだ。
半年の間には、心配する叔母から幾度となく連絡をもらっていたが、リサはいつでも元気で二人で生活していることを強調した。最近では、叔母から電話があっても、居留守を使うことが増えていた。言うことはいつも一緒で、リサにはおせっかいに感じられていたからだ。
自分から連絡をとる気になったのは、全く初めてだった。だが、思いついたら、今お兄ちゃんのことを本気で心配してくれるのは叔母だけだと気がついた。




