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目覚まし時計とガラスの瞳  作者: 石江京子


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1.朝

 今日は、お兄ちゃんと夢の話ができないな。


 リサの心は、起きると同時に重たくなった。

 兄と一緒に、朝食をとりながら今朝見た夢の話をするのが、リサの日課だった。


 リサはよく夢を見る。お兄ちゃんは前ほど面白い夢を見ないようだけど、リサの話をよく聞いてくれる。でも、今日みたいな夢では何も話せない。

 繰り返し見るおかしな夢。怖くてたまらない夢。


 リサは夢をコントロールすることさえできるのに、なぜか時々見るこの夢だけは駄目だった。話さずに忘れるしかなかった。

 気持ちを切り替えようと、リサは朝食のパンとサラダを作り始めた。



 居間の壁に時計が掛かっている。白と金色の縁取りで、少し凝ったデザインの黒い数字が描かれている時計。この国で作られる大半はデジタル表示だが、リサはこっちのほうが断然好きだ。その黒い文字より二つの針の形で、リサは時刻を読んでいた。


 もうすぐ七時。お兄ちゃんが起きる時間だ。


 そう思うと、どうしても身構えてしまう。そのとき必ず兄の部屋の目覚まし時計がベルを鳴らすからだ。大きな音は、居間にいるリサの耳にまで響き渡る。リサは、その音があまり好きではなかった。


 七時になる。リサはいつも通り身をこわばらせる。


 ジリリリリリ。

 想像していた音が鳴るはず。なのに、なぜかしばらくしても、聞こえてこなかった。


 リサは、長い黒髪を耳の後ろへかけると、居間の時計の傍に寄ってみた。コチコチと音がする。七時は数分過ぎていた。


 お兄ちゃんの時計が鳴らないなんて、初めてかも。


 リサは不思議な気分になった。正確にいうと、リサが兄とここに二人で暮らすようになってから、初めてのことだ。

 

 今日は、お兄ちゃんが仕事に行く日ではない。お兄ちゃんはアンドロイド制作会社に勤めている。どんな職場なのかリサはよく知らない。知りたいとも思っていなかった。


 職場に行かず、ほぼ自宅でできる仕事もあるらしいが、兄の場合は週に四日くらいは出社している。休みの日であってもそうでなくても、兄が起きるのは、目覚まし時計の鳴る七時ちょうどだった。

 リサは、毎日ほとんど家にいる。もっと外へ積極的に出なくては、と思うときもあるが、まだ難しいと感じることも多かった。



 シンクの傍に、小麦粉の入った白い袋が見える。牛乳や卵のパックは冷蔵庫に仕舞った。けれど、ボウルや計量スプーンは洗ってもいない。


 リサは、お兄ちゃんが自然に起きてくるのを待とうと思った。実は、二人で一緒に暮らし始めてから、お兄ちゃんは一度も目覚まし時計なしで起きたことがなかった。

 

 片づけを先にすることにした。

 小麦粉の袋の裏に、簡単なレシピがついている。その横に「HKEに記憶する場合は、下のLLIコードをPIRに読み取らせてください」と書かれている。その下に黒い点の並ぶバーがついていた。


 二年も前になるだろうか。リサがこの国で初めて小麦粉を買ったとき、叔母にこの黒いバーの意味を聞いたことがある。


「家事をするアンドロイドに、レシピを記憶させるときに使うコードよ。登録しておくと、手順を見ずにすぐできるから便利なの」


 一般家庭で家事をするアンドロイドは、急速に広まっているらしい。


 人間が料理しないで、おいしいものが作れるのかしら。


 リサはあまりいい気持ちがしない。毎朝小麦粉から簡単なパンを作る習慣は、島で暮らしていた時からのものだ。小さいころ、母さんが教えてくれた作り方。母さんや父さんが朝出かけることが多くなってからは、お兄ちゃんと一緒に作ることもあった。両親が帰ってくるまでに作ったパンをオーブンに入れて、それから夢の話をしたりして待っていた日々。


 もう二度と母さんも父さんも帰ってはこないけれど。



 八時を過ぎた。朝の光もすでに落ち着いたように見える。

 リサは以前のように夜明けとともに起きることはもうなかった。それでも、どちらかというとこの社会では早起きだ。冬の曇った空の広がる今日でさえ、朝食の支度を始めてから一時間以上経っている。

 リサは、兄のいない静かな居間でため息をついた。


 いつ起きてくるのかな。まだ、サラダは冷蔵庫のなかでいいかしら。テーブルに出しておいた方がいいのかしら。


 二人掛けの、小さな木のテーブルにリサは目を向ける。ガラス瓶の中に活けた観葉植物が光を受けている。その横に、リサの携帯電話があった。


 そういえば、昨日の夕方も叔母さんから電話があったんだっけ。


 リサは思い出した。何となく気が進まなくて留守電にしてしまったのだ。こちらから掛け直そうかどうしようか迷ったままだった。

 だいたい叔母が話すことは、いつもほとんど同じなのだ。「元気にしてる?」「何か困ったことない?」それから「三人で一緒に暮らすことは考えてみない?」とくる。

 さらに。


「家事とか暮らしのことは私がやるから、リサちゃん、学校に通ってみない?」


 そう言い出すのだ。


 叔母さんが心配してくれるのは、よく分かる。私がこの国での暮らしに馴染んでいないのは、どうみたって明らかだ。でも、余計なお世話だと思う。お兄ちゃんと二人でこのまま暮らせたら充分なはずだから。


 それでも、何日か前、叔母が話していたことが心の隅で気になっていた。


「少し遠いんだけど、いい学校を聞いたのよ。カウンセラーさんが何人かいて、いつでも話を聞いてくれるシステムがあるんですって。戦争で親を亡くした子も元気に通っているっていう話もあるのよ」


 私にもそんなことができるだろうか。


 一瞬そう考えても、結局はやめておこうという気持ちになってしまう。

 リサは携帯電話を机の上に戻す。


 温めなおそうと思っていたパンが、すっかり冷め切っていた。



 九時を過ぎた。リサの心はざわつき始める。

 リサは、兄と一緒に暮らし始めた最初の日に言われたことを思い出した。


「ぼくは、この時計のベルが鳴らないと絶対に起きられないんだよ」


 両親と四人で暮らしていたときは、目覚まし時計なんて使ったことがなかったのに。


「前は時計なしで起きていたじゃない。窓から入ってくる日差しで自然に目が覚めるのが一番いいって言ってたじゃない」


 リサはむきになった。兄は表情一つ変えずに答えた。


「ぼく、事故の後記憶が欠けている部分があるみたいなんだ。時計なしでどうやって起きていたか分からないのも、そうなのかな」


 リサは黙った。


 お兄ちゃんはお兄ちゃんで、あの事故のショックが大きいに違いないんだ。


 リサは、兄が時計をセットする様子を見ることしかできなかった。

 以来、リサの兄は必ず目覚まし時計を七時に鳴らしてから起きる。


 最近のお兄ちゃんは、朝リサが用意するパンとサラダとコーヒー以外は、携帯食料しか食べていないみたいだ。仕事で遅くなることも多く、夕食も家で食べることは少ない。

 ほとんど飲み込むだけの食料なんて、身体に良くないに決まっている。


「ここに来る前は、お兄ちゃんだって森や海で採れたものばかり食べていたじゃない。どうして今はそんなもので平気なの。よくないよ」


 昨夜、リサはつい責めてしまった。

 兄は返事をしなかった。その時、携帯電話が鳴ったからだ。


 この電子音も好きになれない。


 リサは余計に不愉快になってしまった。


 兄はズボンのポケットからすぐに自分の携帯電話をとり出した。そして、二三言何かを答えたかと思うと、リサのほうに向き直った。


「仕事の予定が入っちゃったんだ。遅くなるかもしれないから、先に寝ていていいよ」

「どうしたの」

「何、たいしたことはないよ。明日が休みだから、ちょっと出るだけだよ」


 自分の部屋へ向かう兄を見て、リサは不満だった。


 大事な話をしていたはずなのに。


 兄は支度を終えると、自分の時計を拾い上げた。いつもどおり七時にセットしたようだ。

 リサは、無駄とは思いつつ文句をつけた。


「仕事で遅くなるなら、目覚まし時計なんて掛けないで、朝はゆっくり寝ていればいいのに」

「だめだよ。それが聞こえないと起きられないんだから」


 寂しそうに兄は笑った。リサはそれが気になった。


 兄が出掛けてから、リサは目覚まし時計に手を伸ばした。


 枠の中に数字が表示されるだけの、黒い箱のような時計。上に銀色のボタンが三つついている。いつもお兄ちゃんが指で押しているところ。触れてみると、思ったより冷たかった。

 リサは、時計を兄の部屋のもとの場所に戻した。


 何でもない時計だわ。


 心の中でそう呟きながら。



 昨日の仕事が何だったのか、きちんと聞けばよかったのかな。


 確かお兄ちゃんは二時間ほどで帰ってきた。


「仕事、大丈夫だった?」


 そう聞いてみたけど、お兄ちゃんは、うん、とかああ、とか曖昧な返事をするくらいで、すぐ自分の部屋へ入ってしまったっけ。


 リサは考える。


 とても疲れる仕事だったのかしら。ううん、もしかすると熱でも出たんじゃないかしら。



 時刻は九時半を上回っている。

 急に思いついたことだが、リサは怖くなった。思い切って、兄の部屋のドアをノックする。

 とんとん、と乾いた音がした。そのあとは、静かだった。


 とん、とん。

 もう一度叩く。


「お兄ちゃん、起きてる?」


 返事がない。


「お兄ちゃん、具合が悪いの?」


 返事がない。


「お兄ちゃん、開けるよ」


 リサは扉を押した。


 昨夜と変わりのない部屋だ。昨日着ていたグレーの背広がハンガーに掛かっている。黒い衣装ダンス。パソコンが置いてある木の机。椅子。CDの入ったプラスチックのケースが置いてある。

 ベッドの上に、お兄ちゃんは仰向けに眠っていた。薄明りの中で、少し青ざめて見える。


「お兄ちゃん」


 リサは声を掛けた。


「朝だよ、お兄ちゃん。大丈夫?」


 具合いが悪い感じはしなかった。けれど、これだけ声を掛けても起きないのは変だ。

 兄は全く動かない。

 リサは枕元へ寄った。


「お兄ちゃん、寝坊だよ」 


 一瞬、兄が動いたかに見えた。錯覚だった。リサがベッドに手を触れたからだ。

 リサは兄の肩を揺すってみた。


「ねえ、お兄ちゃん……」


 冷たい。


 リサははっとした。兄の頬は冷たかった。左手に触れると、やはり冷たい。きちんと毛布を掛けているはずなのに。

 取り上げた手を離すと、兄の左腕はだらりとベッドの下に垂れた。その勢いで動いた頭が枕の横へぐらりと落ちる。全く力がない。


 おかしい。


「お兄ちゃん、聞こえてる?」


 耳元でリサは叫んだ。


「しっかりして。目を開けてよ!」


 兄はぐったりしたままだ。


 お兄ちゃん、お兄ちゃんがおかしい。嫌だ。嫌だ。お兄ちゃん。

 お兄ちゃん、いなくなっちゃ、嫌だ。


 リサは突然、真っ暗な穴の中へ落ちていく感覚にとらわれた。


 お兄ちゃんが消えてしまう。


 リサの心の奥から、そんな思いがどんどんと湧き上がっていく。


 今朝見た夢は、お兄ちゃんがいなくなってしまった夢。繰り返しよく見る悪夢だ。

 夢の中では、事故に遭って助かったのは、リサだけなのだ。あとから行方不明のお兄ちゃんが見つかることはない。リサはただ一人取り残されてしまうのだ。


 とてもとても嫌な夢。でも、なぜか夢の中では本当のことだと思ってしまう。


 もしも今、本当になってしまったとしたら。


「嫌だ。お兄ちゃん、起きて。目を開けてよ!」


 リサは叫ぶ。しかし、兄は全く反応しない。


 どうしたの。どうして起きないの。


「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」


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