第九十八話 波乱万丈の体育祭 その8
私、三澄華は教師だ。
そのため、今日も今日とて職場である学校に来ているが、今日に限ってその目的は授業ではない。なぜなら今日は三澄が勤める高校の体育祭の日だからだ。
朝、照り付ける太陽の日差しと共に幕を開けた体育祭も、午前中の競技はすべて終了し、今はお昼休憩になっていた。
「はぁー疲れたわ...。」
三澄は食後に感じる眠気でうまく働かない頭のまま、職員室の自分の席でぼーっと座っていた。
とりあえず午前中は多少のトラブルはあれど(特に障害物競争の時に校内を白色の膜が覆っていたように見えた。でも、周りの先生や生徒には見えていないようで頭を捻っていると、障害物競争が終わる直前くらいになって膜が空中に溶けるように消えた。あれは何だったんだろう...。)、問題なく終わったと言って差し支えないだろう。
しかし、三澄はすでに体力の8割を消耗している感覚だった。
職員室の中に人はまばらにしかおらず、先ほどまで生徒たちが競い合っていた運動場の熱気と比べると、ゆったりとした時間が流れている。
おそらく、周りの先生も午前中は生徒たちが競技に励む姿に一喜一憂していたが、お昼休みになって忘れていた疲れがどっと体に襲い掛かってきているのだろうと、三澄は思った。
しかし、そんな職員室の静かな空気を揺らすように、周りからは生徒たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。
今も職員室の前の廊下を、誰々が格好良かったなどの話題をテンション高く喋りながら、パタパタと小走りで走り去っていく数人の女子生徒の気配を感じながら、三澄は机に頬杖をついた。
(さっきまで、あんなに競技で体を動かしていたのに元気ね...。これが若さかしら。)
今年で28歳になる三澄は、日々の生活の中で時折ちらつくアラサーという言葉から逃れられない年齢になってきている。そんな中最近よく思うことがある。
それはよく言われる“年を取ると1年が早くなる”という現象についてだ。
言わずもがな、時間の流れは常に一定だ。10代の頃は24時間あった1日が、30代になると20時間になるなんてことは無い。
しかしなぜそのような感覚に陥ってしまうのかというと、1年のうちに起きるイベントの数が若いころと比べて劇的に減っているせいだからだろうなということだった。
もちろん三澄も大学を卒業した教師になりたての頃は、毎日分からないことだらけの日々を必死で駆け抜けていた。
色々なトラブルに巻き込まれたこともあれば、生徒からもらった言葉に一喜一憂したこと。自分の不甲斐なさによって枕を濡らしたこともある。
そんな人生で初めての経験が1年のうちに何度も起き、結果年末に振り返った時に「今年は色々と充実した年だったな」と思ったことも覚えていた。
しかしそれから教師として色々なスキルを積み上げていく中で、新人の頃はトラブルだと思っていたことも余裕をもって対応できる術が身につき、生徒からもらう言葉についてももちろん嬉しいのだがどこか俯瞰しているような感覚になってきていた。
それ自体が悪いこととは思わない。教師として一人前になりつつある証拠だとも思う。
しかし、日々の生活で起きることについて、特別三澄自身の生活に変化を与えるほどの事ではなくなってきていたのだった。
(それでも別に日々が楽しくないわけじゃないけど...。ただ人生の起伏は減り続けてるわよね。)
特に最近では恋愛もそうだ。
若いころは三澄もそれなりに恋愛を経験してきている。告白をされた経験だって、人並みにある。しかし...。
(ここ最近男の人から告白されたのって...いつだったかしら。)
思わず口からまたため息が漏れた。
直後、ハッとして少しだけ頭を振る。
(駄目駄目。最近なんかネガティブなことを考える機会が増えてるわ。生徒たちを指導する側の人間がこんなんじゃ駄目ね、しっかりしないと。)
そう思った三澄は思い切って席から立ち上がると、少し日の光でも浴びてリフレッシュをしようと、職員室から出て散歩をすることにした。
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今日は本当に体育祭日和だ。
燦々と降り注ぐ太陽の光が、先ほどまで落ち込みかけていた三澄のネガティブな気持ちを溶かしていく様だった。
(って、暑過ぎよ。本当に溶けちゃうじゃない。)
三澄は慌てて日陰に移動した。
今散歩していたのは校内でも人気が少ない場所だ。先ほどの職員室よりも生徒の声が遠くに聞こえる。
三澄はこの辺りにあまり足を運ぶことがないのだが、以前清掃員と軽い雑談をしたときに、「考え事をするときにおすすめですよ。」と教えてもらっていたのだった。
(確かにこの辺りは授業で使う教室もないし、平日も人が少なそうね。)
辺りを軽く見回した三澄はそんなことを思うと、またゆっくりと歩き出した。
(さっき人生に起伏が少なくなったって思ったけど、それはそうよね。だって学生時代は、体育祭にテストに部活の大会。さらに学園祭だったり定期的にイベントがあるもの。もちろん教師もそれらのイベントに無関係なわけじゃないけど、あくまで主役は生徒たちだし。それでも、間接的にでも彼らのイベントにかかわれる教師っていう役割は恵まれているのかも。)
それから三澄は自分が高校生だった頃の、体育祭を回想しだす。
(今では高校の頃の記憶もどんどんと忘れていってしまっているけど、運動することに特に抵抗のなかった私も体育祭は楽しかった記憶があるわね。当時、運動会の時は足が速い先輩なんかがかっこよく見えて、友達とリレーを見ながらはしゃいでたっけ。)
そんなことを思いながら、まるでさっき職員室の前の廊下を走っていた女子生徒達を思い出し、ふふっと笑みがこぼれた。
時代が変わっても、この学校の中で起こる現象はそう簡単に変わらないらしい。
しかし、そうやって体育祭の頃の記憶を思い返していた時、何かふと引っかかることがあった。三澄は足を止めると、記憶を掘り返してみる。
(あれはたしか...私が2年生だった頃。丁度今と同じような体育祭のお昼休みの時間帯に友達とお昼ご飯を食べた後、なにかのきっかけで少し一人の時間があったのよね。)
かなり記憶はおぼろげで、一人でいた理由は思い出せそうもない。
しかし、確かに一人で渡り廊下を歩いていたのだ。
(そんな時にいつも教室で喋っていた男子生徒から呼ばれて、今みたいな人気の少ないところに案内されたのよ。それで、たわいもない話をしていたのだけど、急に男子生徒が何も喋らなくなって。)
三澄は記憶を思い出すことに没頭する。
(それから...「なあ。」と声をかけられたから横を向くと、顔を真っ赤にした男子生徒がこちらを見ていて。空気が張りつめて、風が一度吹いた後、その男子生徒の口が開いて...。)
「好きなんだ。」
(...っ!)
三澄は思わず声を上げかけた。
まさか記憶の中の声がこれほどはっきりと聞こえるなんて、ついに私も末期か!?と一瞬思ったが、すぐにその考えを振り払う。
先ほどの声は確かに聞こえた。
(どこから...。)
三澄は息を殺したまま、辺りをきょろきょろと見回す。人の気配は感じないが、絶対に今のは人の声だ。
三澄は耳を澄ました。すると、自分が今立っている校舎の角の方から人の話す声が微かに聞こえた気がした。
こんな人気のない場所で、先ほど聞こえた言葉。そんなシチュエーションが示すのは1つしかない。
(私は生徒の恋愛は応援するタイプよ。)
三澄は野暮ではない。そのため、一目散にその場から離れようと足を動かしかけた。
その時だった。自分が向かおうとした先に、体育を担当している男性教諭の姿が見えた。
どうやら三澄と同じく散歩目的なのか、日の光を浴びながらうーんと伸びをしている。
(タイミングが悪い!)
三澄は思わず心の中で舌打ちをした。
その男性教諭は悪い人ではないのだが、とにかく元気でなおかつ声が大きい。今そちらに向かえば必ず相手は三澄の事を見つけ、挨拶をするだろう。
もちろん、校舎裏まで響く大きな声で。
(ど、ど、どうしよう。)
三澄はとりあえず男性教諭から見つからないよう、その場でゆっくりとしゃがみ込むと、頭を悩ませた。
とにかく今はそれほど生徒たちの声が聞こえる訳ではないからギリギリセーフかと三澄が思った瞬間、先ほどまでと風向きが変わったのか、話している生徒たちの声が先ほどよりもクリアに聞こえてきた。
「ずっと友達だと思ってた。でも、最近やっと気づいたんだこの思いに。」
(ひえー!若い!)
風に乗って聞こえてくる男子生徒の熱量のすごい言葉に、思わず三澄まで顔が火照ってくる。
それと同時に三澄は決意する。
(これは絶対に見つかちゃ駄目な奴ね。)
しかし先ほどまで思い返していた自分の体育祭の頃の記憶とあまりに酷似した状況に、三澄は思わず興味を持ってしまい、つい聞き耳を立ててしまう。
どうやら2人は同じ学年の様だ。今までは友達同士だと思っていたけど、男子生徒の方が相手に対して恋心を抱いていることに気づいたと熱弁を振るっている。
(まさに青春ね。はあー、でも今の今まで忘れてたけど、私もこんな頃があったのよね。それが最近はすっかり胸がときめくことも減って...そりゃあ1年が短く感じる訳ね。...それで、この後どうなるのかしら。)
すっかり生徒たちの恋愛の行方に興味津々な三澄は、そんなことを思いながらじりじりと声の聞こえる方向へ進んでいく。
そして丁度校舎の角にたどり着き、(さすがに現場を除くのは...教師失格よね。)と考えていた時、突如別の声が聞こえた。
「待ってくれ!」
(え!誰!?)
急に聞こえてきた第三者の声に三澄は驚く。
驚きすぎて、つい校舎の陰から少しだけ顔を覗かせ、状況を確認した。
「俺もお前の事が好きだ!」
「先輩!」
(なにこのドラマみたいな状況!)
三澄がのぞいた校舎裏では、三人の生徒が立っていた。
こちら側に先ほどまで話していたであろう女子生徒と男子生徒。
そして向こう側の校舎の陰から走ってきたように見えるもう一人の男子生徒。
三澄は生徒の姿と、喋った内容から瞬時に状況を理解した。
(わかったわ!手前の2人が同じ2年生の友達同士。そして、向こうに立っている男子生徒が「先輩」と呼ばれていることから3年生ね。これは1人の女子生徒を2人の男子生徒が取り合うと言う展開ね!)
それと同時に、こうも思った。
(...つまり、この瞬間から私の時とは大きく状況が異なったわけだわ。少なくとも私の28年間の人生の中で、2人から同時に告白された経験は皆無だもの。)




