第八十七話 私のヒーロー 後編
「な、なんで?どうしたの急に。」
葵はそう言うが、目がキョロキョロと動き、彰人の方を見ていない。
「先ほど先間が親の話題を出した時の反応でわかる。」
「べ、別にあれは...。」
「”大丈夫”と告げた時のお主の声は必死に震えるのを我慢していたようだった。それにその後の朝霧の反応も妙だ。親の話題を続ける先間から、何としてでも気を反らしたいように見えた。」
彰人が冷静にそう告げる中、葵はそれでも何かを耐えるように地面を見つめ続けていた。
彰人はそんな葵から目を反らし、窓の外を見る。
そこでは先ほど姿を消していた香織と先間が、再び庭の中央の方へと歩いていく姿が見えた。その手にはバトミントンの道具を一式持っている。
「先ほどの様子だと、お主と親の問題を朝霧は知っておるようだな。」
「...。」
「何事でもそうだが...一人で抱える悩みは辛い。その一端だけでも預けてもらえる振る舞いはしてきたつもりだが...そうではないのか?」
「...その言い方はずるいよ。」
葵はぽつりとつぶやくと、彰人の方を見て少しだけほほ笑んだ。
そして「ここだけの話だよ。」と前置きをした後、自分の境遇について語り始めた。
「この家を見てもらったら分かると思うんだけど、私の家はお金持ちなの。それも世間一般的な感覚で言うと、すごくお金持ち。こんなこと自分から言うのも嫌味だよね。...今まで黙っていてごめんね?」
「別に良い。誰にでも秘密はある。悩みは話してほしいが、秘密は守っておくものだ。」
「ありがとう。...でもね、ただお金持ちをアピールすることが嫌味だからって理由だけで隠してるわけじゃなくて...私が自分の家の事を話さなくなったのも、あるきっかけがあるの。」
それから葵が語ったのは、葵自身がまだ小学生の頃の話だった。
それまで自分の家が金持ちだと知らなかった葵は、多少引っ込み思案な性格ではあったが、毎日を何の気兼ねもなく過ごしていた。確かに1人だけ学校への送り迎えが車だったり、休日に自分以外の友達同士で遊んだ話などを聞くと、少しだけ寂しい気分になることもあったが、学校では友達とも仲良く、運転手のおじいさんはいつもニコニコと葵の話を聞いてくれており、特に気にしていなかった。
それにその頃はまだご飯を食べる時に両親も一緒だった。
そんな中、葵が小学2年生に上がった時に転機が訪れた。
両親の運営する会社が、それまで友人でもあり、そしてビジネスパートナーでもあった1人の社員に裏切られるという事件があったのだ。
しかし一時は傾いた会社ではあったが、葵の両親は非常に優秀だった。それに努力家でもあった。
わき目も振らずに粉骨砕身の頑張りを続けたことで、会社を立て直すことに成功したのだ。
そしてそれだけではなく、裏切られる前の何倍もの規模に会社を拡大させたのだった。
しかし、その一方で両親が家の中にいる時間は、減り続けていた。
最初はまだ父親だけが家を空けることが多く、食事を母親と一緒に食べる時間はまだ多かった。しかしそれまで葵の学校での話を笑顔で聞いてくれていた母親も、どこか険しい顔で気持ちここにあらずといった様子が増えていた。
元々人を案ずる性格の葵自身はそんな母親の様子に気づいてはいたが、元気のない母親を励まさないといけないと考え、今まで以上に頑張って話しかけていた。
それから月日が流れ、ついに母親も家を空けることが多くなった。その頃には、父親はほぼ家にいなかったため、葵は常にお手伝いさんと運転手に囲まれて毎日を過ごしていた。
大好きだった両親と合える時間が極端に短くなった葵は、いつも家でつまらなそうに過ごしていた。そんな中、葵を不憫に思った運転手のおじいさんが一度だけ遊園地に連れていってくれたことがあった。
「明日は、わたくしと遊園地に行きましょう。」
そう言った運転手のおじいさんの笑顔と、そして自身の喜びは今でも覚えている。
次の日、遊園地で久しぶりに思いっきり遊ぶことができた葵は、一日中笑顔で何度も運転手のおじいさんに「ありがとう。」と言っていた。
お礼を言われるたびに運転手のおじいさんはニコニコと優しくほほ笑みながら、ペコリと頭を下げていた。
そうして楽しい一日が終わり、次の日葵が目を覚ました時には、すでに運転手のおじいさんは解雇されており、別の若い運転手に変わっていたのだった。
今では分かる。長年信じていた友人に裏切られた両親は疑心暗鬼になっており、少しでも自分たちの想定外の動きをした人物はすぐさま切り捨てるようになっていたのだ。
しかし、当時の葵はもちろんそんなことはわからず、毎日運転手のおじいさんはどこの言ったのかを考えていた。
しかし、次の若い運転手に聞いても、お手伝いさんに聞いても、誰も教えてくれなかった。
そんな中、ある日久しぶりに両親が揃うタイミングがあった。その頃には両親ともにいつも慌ただしく葵も喋りかけるのを躊躇していたが、その日はどうしても運転手のおじいさんの事が知りたく「聞くならいまだ。」と思い、両親に運転手のことを聞いたのだった。
「そんな無駄なことを気にする必要はない。それより、勉強はしてるのか?」
それが両親から返ってきた答えだった。
こちらを一瞥もしないまま、葵の気持ちは考えず、テストの点数のみを気にする両親の返答に、その日葵は心の中にあった両親の笑顔と楽しかった思い出が、色を失っていく感覚を覚えた。
その頃から葵は笑わない子供になった。
その分、毎日学校でも家でも勉強には励んでいた。しかし、葵の毎日はそれだけだった。
朝起きて一人で朝食を食べ、運転手と一言もしゃべらないまま学校に登校し、黙々と授業を受け、また家に帰宅した後も勉強をして、一人で晩御飯を食べて眠る。
以前まで学校で良く遊んでいた友達たちも、笑わず喋る言葉も最小限になった葵から離れていった。
そしてそんな元友人の姿を見ながら、葵の頭の中を巡るのは、いつの日か母親が必死な形相で言っていた「人はいつかあなたの周りから離れる。本当に助けてもらいたい時に、信用できるのは結局自分の能力だけ。」という言葉だった。
葵はその言葉に取りつかれるように、更に無口にそして表情を失っていたのだった。
「あなた、いつも本読んでるのね。好きなの?」
ある日、お昼休みの時間に自分の机で本を読んでいると、ふいにそんな言葉が聞こえてきた。
葵が顔を上げると、そこにはいつも元気で、時にはいたずらをした男子を追い回している同級生の女の子がいた。
葵は興味津々と言った様子で大きな目でこちらを見てくるその女の子から目をそらすと、読んでいる本に目を落としながら言った。
「別に。やることないから。」
「そうなんだ。じゃあ、今からバドミントンやりましょうよ!」
(え?なにこの子。)
葵の突き放すような返答を聞いたはずの女の子は、全くテンションを落とすことなく急に遊びに誘ってきた。
葵はすこし面食らいながらも、本を読みながら言った。
「やらない。」
「あら残念。じゃあ、また誘うわね!」
「え、ちょ。」
なぜか再び遊びに誘う宣言をするその女の子に、葵は思わず顔を上げるが、その時にはすでにその女の子は教室から飛び出していくところだった。
葵はその女の子が飛び出ていった扉を呆然と見つめながら、小声で「いくら誘われてもいかないよ。」と呟いていた。
しかしその言葉はその女の子に向けたものではなく、なぜか自分自身に言い聞かせるようだと、葵はうっすらとそう感じていたのだった。
それからというもの、その女の子は毎日葵に話しかけに来た。
最初のようにバドミントンに誘うこともあれば、ひたすら一人で喋っていることもあった。
その間、葵はいつも本を読み必要最低限の返答しかしなかったが、毎日その女の子は「また来るわ!」と言って葵の元から離れていくのだった。
その度に「もう来ないで。」と葵は言いかけるのだったが、どうしてもその一言が出なかった。そして、その理由は自分でもよく分からなかった。
そんな日々が1年ほど続いたある日。葵が学校で年上の男の子に絡まれるという出来事があった。
どうやら、その中の一人がずっと葵に好意を向けていたらしいのだが、葵のあまりのそっけない態度に逆切れをしているとのことだった。
しかしその頃本当に他人に興味のなかった葵は、何のことなのかさっぱりだった。だが、その態度がさらに空気を悪化させ、ついに昼休みに人気のない廊下に連れていかれたのだった。
「謝れよ!」
そう言いながら周りを取り囲む3人の男の子たち。面倒だな、としか感じていなかった葵は、黙ったまま立っていた。
しかし不意に男の子の中の1人が「おい!」と言いながら、葵の腕を掴んだ。それまで父親以外の男の人から触られたことのなかった葵は、反射的に短い悲鳴を上げ腕を振り払った。
そんか葵の様子を見た男の子たちは、悲鳴にびっくりして目を丸くしていたが、先ほどまで澄ましていた葵の怯えた様子に嗜虐心を刺激されたのか、そのうちニヤリと笑うと再度葵に手を伸ばしたのだった。
(嫌!怖い...。)
そう思った葵だったが、やはりその時も頭にあるのは母親から告げられたあの言葉だった。
こんな状況を招いたのも、そしてこの状況を打破できないのも、全ては自分の能力不足が原因なんだ。そう思った葵は、ギュッと目をつぶり下を向いた。
その時だった。
「こらぁああ!」
そんな声が響いた瞬間、目の前でゴツンという鈍い音と「いて!」という男の子の声が聞こえた。
何が起こったのか分からず目を開いた葵の目の前には、先ほどまで自分を取り囲んでいた男の子たちの後ろ姿があり、その先には掃除道具であるホウキを手に持った1人の女の子が立っていた。
その女の子を見た葵は、出会ってから初めてその名前を呟いたのだった。
「朝霧...さん。」
葵が名前を呼んだことに気づいた香織はおっ!という顔で葵を見た。
そして一度だけニコリと笑うと、再度男の子たちを睨みつけ、手に持ったホウキをビシッと突き付けこう言ったのだった。
「あたしの友達をこんな目に合わせたあんた達を...絶対に許さないんだから!」




