第六十八話 動き始める不穏 後編
葵はベンチに腰掛けると一息つき、手に持っていたペットボトルのふたを開けると一口飲んだ。
ここは家から一番近くにある公園で、少し奥まった場所にぽつんと置かれているベンチだった。
少し錆びれているベンチに、隣に淡い光を放つ電灯が立ってるこの場所は、日ごろからあまり人が訪れず閑散としたノスタルジックな雰囲気を醸し出している。
特にこの夕飯時にはさらに人気がなくなり、一人になれるこの空間が葵は好きで、考え事をする際などに度々利用していた。
飲んでいたペットボトルのふたを閉めベンチの上に置くと、バッグの中から用紙を取り出した。
もちろんその用紙の中央には、先ほど家で模写をした謎の数式が描かれている。
葵は隣の電灯の光で明るく照らされるその数式を眺めた。
(これって何を表す記号なんだろ?...それともなにかの文字かな?うーん、どちらにしろ見たことがない形をしてるんだよね...。)
葵は手に持った用紙を逆さにしたり、斜めから見たりしてみるが、やはりどこの部分をとっても今まで見た記憶のない図形で埋め尽くされている。
しかし、こうなったらとことんこの数式の秘密を紐解いてみようと思った葵は、バッグの中からペンと新たな用紙を取り出した。
そして数式の中から何かの法則を見つけようと、似た形の図形や記号を書きだしていく。
(この記号とこの記号はどことなく形が似てるし意味も似てるかも。一度まとめて書いておこう。それにこっちの図形は...)
葵は夢中でカリカリとペンを走らせる。
そしてしばらくして「できたっ!」と小声でつぶやくと、記号を書きだした用紙を手で持ち眺めてみた。
しかし同じタイミングでスマホがメッセージの受信を告げる。
バッグからスマホを取り出しその画面を見た葵の顔に暗い影が落ちた。少し逡巡した後、あきらめたような様子でスマホの画面をタップし、メッセージを開いた。
そして画面に表示されたその文面を見てため息をつく。
(どうせわかってたことだし...今更ショックもないよね。)
葵は【今日も仕事が忙しく帰れません。ご飯は好きなものを食べてください。】と書かれたメッセージを削除し、スマホを再びバッグへと戻した。
そして先ほど書き終えた用紙にもう一度目を向けるが、さっきまでの高揚はすでに失われていた。
(はあ...私こんなところでなにやってんだろ...どうせこの数式の謎は解けないし、こんなことに意味なんてない。本当は自分でも分かってるんだ。今の私はこの数式の謎を心から解明したいわけじゃなくて、嫌なことから逃げるために利用してるだけだってことに。)
そんなことを考える葵は、黒いもやもやが心を覆っている様な感覚だった。
このもやもやは駄目なものだ。早く取っ払わないといけないものなのに、どうしても葵の心について回る。
学校ではせっかく初めて好きな人ができたのに、最近ではことあるごとに劣等感を感じてしまう。家ではいつも一人で、なるべく考えないようにしているがはやり度々寂しさに襲われる。
そしてそのたびに少しづつ少しづつこのもやもやは、葵の心の中で増殖をしているようだった。
(もう...こんなこと辞めて帰ろっかな。)
葵は数式を書き起こした用紙に両手をかけると、破ってしまうために力を入れた。
しかしその瞬間、背後から突如声が聞こえた。
「面白いもの、持ってるね。」
(え!)
葵は心臓が飛び上がるほど驚くと、バッと後ろを振り向いた。
そこには一人の男性が立っていた。
(え?え?いつからいたの?全然気づかなかった。それになんだろう。この感覚...まるで...)
葵は目の前に立っている男性を見ている。確かにそのはずだ。
しかし絶対に手を伸ばした先の距離にいるはずなのに、なぜだか脳みそがそれを認識しないような、一瞬でも目を離したら見失ってしまうような不思議な感覚を味わっていた。
「それ、どうしたの?」
しかし口をつぐむ葵は無視して、目の前の男性は葵が手に持つ用紙を指さした。
葵は「えっと...」と言いながら、用紙を抱きかかえるようにして持つと言った。
「ただの落書きです...。」
しかしそれを聞いた男性は面白そうにクックッと笑った。
「落書きね...随分不思議な落書きだけど、君が書いたの?」
「いや...えっと...」
葵がなんて答えようかと考えまごついていると、男性はぼそっと何かを呟いた。
はっきりとは聞こえなかったが、「そんなわけないか。」と言ったような気がした。
葵はいまだに身体を強張らせながら、ぐるぐると頭をまわしていた。
(この人なんだろう...私に何か用なのかな?それとも危ない人?確かに掴みどころはないけど、そんなに危険な感じはしないけど...もしかしてこれがナンパって奴なのかな?)
しかしまたそんな葵の様子を気にもかけない様子で、男性は手を葵の方へ差し出すと口を開いた。
「まあ、いいや。ちょっと、それ見せてよ。」
「え...」
葵は困ってしまった。
なぜ一見なんの価値もなさそうな私が書いた落書きを見たがるんだろう。どういう意図があるんだろう。そんな疑問が頭の中で絶えず湧き続ける。
しかしまだ相手の正体も分からない。もしこの申し出を拒否した時に相手が怒ったりしたら...そう考えた葵は渋々ながらも数式を書き込んでいる用紙を男性へと差し出した。
「あの...見てもいいですど、返してください。」
「ん?あぁそうだね。もちろん。」
男性は軽い様子でそう告げると、葵から用紙を受け取った。
そしてじろじろと眺める。葵はその様子をチラチラと見ていた。
(こんなにじっと見て何か分かるのかな?でもこの人も日本人だろうし、絶対こんな数式は見たことがないと思うんだけど...。)
そんなことを考えていた葵だったが、突如男性がまたクックッと笑った。
そして愉快気な口調で呟く。
「いいね...。素晴らしい構築式だ。一切の無駄を削ぎ落とし、最小のコストで最大の効果を生み出そうとした形跡が見て取れる。」
「えーと...」
「ただ、惜しいな。ここの部分だけ組み換えが必要だ。何か書くものある?」
ブツブツと喋っていた男性はそう言いながら葵に向かって手を伸ばす。
葵はそんな男性のあまりにも自然な様子に思わず、「あ、一応。」と言いながらバッグの中からペンを取り出し手渡していた。
「ありがとう。」
男性はペンを手に持つと止める間もなく数式の中に何かをさっと書き込んだ。
ペンを渡した後も男性をぼーっと見ていた葵だったが、その瞬間はっと気を取り戻した。
「ちょっと!勝手に...」
「え?...ああ、ついね。不完全なものがあると修正したくなるんだよね。まあでも良いことをしたんだし良くない?」
「良いことって...」
葵は人から借りた用紙に勝手に何かを書き込んでおいて、白々しく「良くない?」と言い切るその男性に、思わず困惑してしまう。
しかしそろそろ本格的に夜になってきたし、これ以上このよくわからない男性に付き合うのも嫌になってきた葵は、手を伸ばすと言った。
「私、もう帰るのでそれ返してください。」
「いいよ。」
男性はそう言ってまずペンを差し出してきた。
そして続けて用紙を差し出し、葵がそれを受け取ろうとした時だった。
「君が内面に抱える闇は、器として上質だよ。」
「え?」
「だから...せっかくならサプライズをプレゼントしたいよね?」
男性が残虐そうな声色でそう言った瞬間、数式が一瞬赤く輝いた。そして、そのまま用紙を首元に押し付けられた。
葵は思わず振り払おうとしたが、手を動かすより先に用紙が押し付けられている首元に急激な熱を感じた。
「あっ熱っ...!」
しかしそれだけではなく、視界が急に揺れた。そして視界が急速に暗くなっていく。
葵は叫び声を上げようとするが、かすれたうめき声しか出なかった。そして遂に体からも力が抜け、どさっとベンチに倒れこんだ。
その様子を黙ってみていた男性は、また残虐性を称えた声色のまま呟いた。
「その数式を書いた子が...君に対して魔法を使った瞬間がトリガーだ。クックッ...その時、その子がどんな顔をするのか、今から楽しみで仕方ないよ。」
(魔法...?なにを...言って...。)
男性が言った言葉の意味が分からず混乱する葵だったが、その言葉を最後に葵の意識は闇に飲まれた。
************
「うん...?」
葵はなになら固い感触に違和感を覚え、目を覚ました。
(あれ?お布団...じゃない?)
いつも目が覚めた時に感じる布団の感触じゃないと思った葵は体を起こし、ゆっくりと辺りを見回した。
そしてハッとする。
(え!私まさか公園のベンチで寝ちゃったの?)
そこはいつも葵が一人で考え事をする際に訪れていた公園のベンチだった。
どうやら今までそのベンチに寝転がって、眠っていたらしい。
(うわーそんな...私ってどれだけ不用心なの...。こんな公共の場で寝ちゃうなんて、ありえないよ。さすがに落ち込む。でも...)
葵は寝起きで少しぼーとする頭を無理やり動かし考える。
(今日なんでここに来たのかが、全然思い出せない...。)
しかしなぜ公園に来たのか、なぜ寝ていたのかは思い出せないが、こうしてばかりもいられない。
葵は自分の隣にバッグが置いてあることにホッとすると、中を漁りスマホを取り出すと、時間を確認した。
(わっ!もうこんな時間。帰ってご飯食べなきゃ。)
そう思い慌てて立ち上がった。その時、一枚の用紙がふわっと足元に落ちた。
葵は(なにこの用紙?)と思いながらも、しゃがみ込みその用紙を拾うと見てみた。
しかし表にも裏にも何も書かれていない。その用紙は白紙だった。
(うーん、謎は深まるばかり。これ私が持ってきたのかな?いやいや、それだったらさすがに覚えてるよね。でも、それじゃあ誰のなんだろう...?まあいっか。)
葵は考えることより帰宅することを優先しようと思い、その白紙の用紙を公園のゴミ箱に捨てた。
そして少し速足で自分の家への帰路につくのだった。




