第五十九話 パン屋での出会い 中編
その女性は香織たちの存在に気づいた後、少しその場であたふたとした。
香織たちも思わずその場で足を止める。そしてそのまま5秒ほどが過ぎた。
女性はその間一度だけ後ろを振り返り逃げ出しそうな素振りを見せたが、一瞬パン屋を一瞥すると観念したように肩を落とした。
その姿があまりに哀愁的だったため、香織は意を決して声をかけた。
「あの」
「あの」
香織が声をかけた瞬間に、女性も顔を上げながら声をかけてきた。
第一声が被ったお互いは、僅かにたじろぐ。しかし立ち直りは向こうの女性の方が早かった。
「急にすみません。一点お伺いしたいのですが、本日こちらのパン屋さんはお休みなのでしょうか?」
不審な格好からは想像がつかないほどの丁寧な物言いだった。それにそこはかとなく上品な雰囲気も漂わせている。
なにか困っているなら少し助けてあげようかしら、という軽い気持ちで女性に近付いていた香織は、格好と言葉のギャップに驚いた。
(駄目よ!この人は困って尋ねてきているんだから...格好に対して抱いた先入観を捨てなきゃ!)
香織は一度咳払いをして心を落ち着かせると、言った。
「えっと、いつもはいるはずの行列もなくて、お店の明かりも消えているのでおそらくは...。」
その言葉を聞いた女性はガーンとショックを受けたような仕草を見せた。
しかし頭を振ると再度こちらに尋ねてくる。
「何度もすみません。ちなみにいつまでお休みとかって...分かりますでしょうか?」
「えーと...」
香織は困った。自分も今日この場にきてパン屋が閉まっていることに気づいた一人だ。
もちろん今日が本当に休みなのか、もし休みならいつまで休むのか、そんな情報は知る由もなかった。
しかし香織は正義感が強い。このように困っている人を見ると助けてあげたい気持ちが働く。
そして、自分に向けて尋ねてきている相手に、このまま何も情報を差し出せないのは香織の中の矜持が許さなかった。
「ちょっと待ってくださいね!」
香織は女性に向かってそう言うと、葵の方に振り返った。
そして小声で告げた。
「葵、私たちの学校にこのパン屋の事を知っている子っていたかしら?」
「え?うーん、どうだろう...」
葵は首をかしげながら考える。
「たしか...少し前に数人パン屋の噂話をしてた子はいたような...。」
「よし!その子たちの連絡先ってわかる?」
「確か入学した当初、連絡先を交換したような覚えがあるからわかると思うよ。」
「じゃあ葵はその子たちにこのパン屋の事情を聴いてみて!私は風紀委員メンバーと部活のメンバーを当たってみるわ!」
香織はそう言うや否やスマホを操作し、誰かに電話をかけ始めた。
(全く、本当に香織は人助けになるとなりふり構わないんだから...まあ、そう言うところが好きなんだけど。)
葵は目の前で必死に電話をかけている香織を見てほほ笑むと、何をしているのか気になっている様子でこちらの様子をうかがっている女性に(少しだけ待っててくださいと)ジェスチャーをして、自分もバッグからスマホを取り出したのだった。
****************
「駄目だわ!」
スマホの通話終了ボタンをタップしながら香織が嘆いた。
そして今通話を終えようとしている葵の方を見た。
「うん、わかった。ありがとう。」
葵はそう言って通話を切る。
その瞬間、食い気味に香織の確認が入った。
「こっちは駄目だったわ!そもそもまだこのパン屋の存在を認識している生徒が少なかったわね。部活の顧問はこのお店によく通っているらしいんだけど、今日お店が閉まっていることは知らなかったみたい。今聞いてショックを受けてたわ。葵の方はどうだった?」
しかし葵は首を振って答えた。
「こっちも駄目。美味しいパン屋があるって噂は聞いたことがあるけど、まだ行ったことないって子がほとんど。1人だけ来たことあるって子がいたけど、あまりの行列にその日は食べずに帰ったんだって。」
「あぁ...収穫なしね...。」
香織は両手で頭を抱え込んだ。
しかしその瞬間、後方から声がかかった。
「ごめんなさい。もしかしてお店の事を調べてくれていたの?」
ハッとした香織が振り向くと、さっきまで少し先にいた女性が近づいてきていた。
おそらく香織たちが自分のために奮闘してくれていることに気づいて近寄ってきたのだろう。
「あ、その...そうなんですけど...でも...」
香織は結局女性に対して答えることのできる情報が何一つ手に入らなかったことから、うまく返答が出来なかった。
しかし香織たちの様子からなんとなく結果は予想出来ていたのだろう。
女性はふるふると首を振ると言った。
「いえ、お店の事が分からなかったとしても特に気に病むことはないですよ。むしろさっき会ったばかりの私のために、こんなに頑張って調べてくれてありがとうございます。」
そう言って女性は深くお辞儀をした。
香織は少し焦り「そ、そんな、こちらこそ...」と言いながら、思わず女性と同じくお辞儀をした。
つられて葵もお辞儀をしそうだったが、何かが心の隅にひっかかった。
(なんだろう...この心のざわめき...パンが食べれないショックかな?...いや、そうじゃないな。どちらかというと、目の前の女性から...。)
そうやって悶々と悩む葵の前で女性は下げていた頭を上げると、ほほ笑んだような声で言った。
「どうやら困らせてしまったみたいで申し訳ありません。実は私なかなかこのお店に来れる機会がなくて...今日は本当にたまたま寄れたものだったので、お店が閉まっていてショックを受けていたんです。」
「そうだったんですね...。それは、何というか、残念ですね。」
「ふふふ、そうですね。久しぶりにYUTAKAさんのカレーパンが食べれると思っていたのですが...。」
「あ!私もあのカレーパン好きです!特にチーズの味が濃厚で...」
「そうよね!あのチーズがたまらないわよね。」
女性は相変わらずの不審者スタイルではあったが、その物腰柔らかな雰囲気からすっかり警戒心はなくなっていた香織は、カレーパンの話題で女性と意気投合し、お店の前で話し始めた。
しかし葵はその会話を聞きながらも、心の中のもやもやが大きくなっていくのを感じていた。
(やっぱりこの女性の声...どこかで聞いたことがある様な気がする...。どこだろう...それによく見ると足も長くて顔も小さくてすごいスタイル...まるで芸能人みたい。)
葵は思わず喋っている女性の姿をまじまじと見てしまった。
そんな目線に気づいてのか、女子は不意に葵の方を向いた。目があったような気がした葵は動揺し、心の中で思ったことが口をついて出た。
「そう言えば...熱くないんですか?」
「え?...あぁ、この格好ね。」
女性は片手で自分のマスクに触れると言った。
「正直...すごく熱いわ。」
その言葉を聞いた思わず香織は噴き出す。
「私さっき初めてお店の前に立つあなたの姿を見た時は...ここだけの話不審者なのかなって思ってしまいました。」
「ふふ、まあそう思われても仕方ないわよね。なにせ顔が見えないもの。」
女性は軽く肩をすくめながら言う。
香織はそんな女性の完全防備された姿を上から下まで見た後、不思議そうな顔をして言った。
「あの...なんでそんな恰好をしているんですか?」
「うーん...もちろん私も好きでやっているわけじゃないのよ?ただ...。」
「もし熱いならマスクだけでも取れば楽になるんじゃないかと思って...。」
「そうなんだけどね...うーん...」
女性はかなり深く悩んでいるようだった。
その姿を香織は純粋に見ており、一方の葵は心の中で(マスクだけでも取ってくれたら...誰か思い出せるかも。)と思いながら、女性の次の動作を待っていた。
そのまま十数秒立った時、女性がゆっくりと手をマスクにかけた。
そしてこちらを見たまま言った。
「2人は口が堅い方?」
香織と葵はその問いにキョトンとした。
しかし真面目な口調だったので、2人は同時に頷くと言った。
「私は堅いと思います。」
「私も秘密と言われれば、ばらしたりはしません。」
それを聞いた女性は頷くと言った。
「じゃあ、一つお願い。私の事は周りにばらさないで。2人だけの秘密にしてね。」
香織と葵は再度キョトンとしたが、しっかりと頷いた。
その姿を見た女性は「じゃあ...」というとマスクにかけた手を下に動かし始めた。マスクの端から形の良い鼻筋が現れ始めたその瞬間...ふいにパン屋の方から声が聞こえた。
「お主たち、そんなところで何をしておる。」
聞き覚えのある声に香織と葵はハッとしてそちらを見た。
そこにはパン屋の入り口から顔をのぞかせる彰人の姿があった。




