第五十八話 パン屋での出会い 前編
「葵!今日も行かない?」
「うん。いいよ。」
香織は学校のバッグを手に持ち、椅子から立ち上がりながら葵に尋ねた。葵も笑顔で肯定をする。
大抵放課後にこの会話から始まった場合の行先は一つだ。
「今日はチョココロネの気分ね。」
「私はクリームパンかなー。」
今ではもうすっかり行列店の仲間入りを果たした人気のパン屋。
【パン工房 YUTAKA】への寄り道の合図だった。
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2人は街中をてくてくと並んで歩く。
先ほどまでは様々な食べ物屋が軒を連ねていた通りだったため、いろいろな誘惑が点在していたが、すでに頭の中がパン一色に染まっている2人には少しも響くことはなかった。
「そう言えば今日美和ちゃんは来れないの?」
「うーん、一応誘ってはいるけど無理っぽいわね。ほら。」
そう言って香織がスマホを葵の前に掲げる。
その画面には”今日は忙しいです。”と書かれたメッセージが表示されていた。
「ふーん。」
葵はそのメッセージを読みながら少し考える。
「なんの用事なんだろう...?」
「どうかしらね...あ。もしかして初めてパン屋に行ったときに言ってたあの件じゃない?」
「あー。なるほど。モデル活動ね。」
葵は手のひらをポンッと叩きながら言った。
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それは香織、葵、倉持、島が初めて4人でパン屋に行った時の話だ。
その前日に大きな誤解から島に迷惑をかけていた香織と葵と倉持は、「昨日はごめんなさい。」「別にいいですよ。」を繰り返しながら朝早くから4人でパン屋へと向かった。
そして店舗にたどり着き、お店の前の行列に驚き、それから【パン工房 YUTAKA】のパンに初めて舌鼓を打った。
その衝撃は今でも忘れない。
小気味の良いカリッとした触感、いつまでも噛んでいたいモチッとした触感。そして優しくもあり新しくもある味わい。
心の底から美味しいと思えるパンに出会った4人は、パン屋の中にあるカフェスペースでそれぞれが夢中でパンを頬張っていた。
そんな中、ふいに倉持が言ったのだった。
「そういえば私この前雑誌のモデルにスカウトされました。」
「え!すごいじゃない!」
さらっと告げる倉持に香織が反応する。葵もうんうんと頷いた。
島は口の中にあるパンを飲み込んだ後、「どこでスカウトされたんですか?」と尋ねた。
倉持はまた一口パンを頬張り幸せそうな顔をすると答えた。
「この前隣町まで買い物に行ったんです。その時、たまたま街中でスカウトされて...。」
「へー。まあ隣町そこそこ都会だもんね。スカウトの人もいるんだ。」
葵が少しびっくりしている隣で、香織は「なんの雑誌?」と尋ねた。
倉持は少し逡巡したのち「まあいっか。」と呟くと、大手出版社が手掛けているファッション雑誌の名を上げた。
「えー!すご!」
香織が大きな声で驚く。島も「あら。」と言いながら口に手を当てた。
葵はそわそわしながら「もしかして...」と言ってある事務所の名前を告げた。それに対して倉持は頷き肯定をする。
「てことは小倉アナと同じ事務所になるんだね。」
葵は感嘆したように息を吐いた。それを聞いた香織が意外そうな顔をする。
「あれ?葵って小倉アナ好きなの?」
それを聞いた葵は少し恥ずかしそうに微笑む。
「そうなの。最初はある人が好きって言ってたから興味が湧いた程度だったんだけど、それからテレビで見るたびに気になって調べたりしているうちに...気づいたらファンになってた。」
「そのある人って、豊島でしょ?」
香織はズバッと確信をついた。葵は顔を赤らめ頷く。
島は「あらあら。」と言いながらほほ笑んだ。
「それは私も知ってます。」
そう言った倉持の声には少しとげがあった。
香織はまさかという顔をしながら、倉持の方を見た。
「美和ちゃん、もしかして...小倉アナに妬いてる?」
「それはそうでしょう!」
倉持はその場で勢いよく立ち上がった。
「彰人様から好かれるなんて許せません!だからこそ私このモデルの話受けようと思うんです。そしていつの日か小倉アナに会った時に言ってやるんです。『彰人様は渡しません』って!」
そう言いきった後、倉持は勢いよくパンを噛みちぎった。
それを見ながら香織は呆れ、葵は小声で「私も...負けてられない。」と呟き、島はうふふとほほ笑んでいた。
その日【パン工房 YUTAKA】のパンにすっかり魅了された4人は、連絡先も交換し定期的にお店へと訪れているのだった。
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「まあ、あれだけ可愛ければスカウトされるのも時間の問題だったような気はするわね。」
「そうだね。」
「てか...私が豊島好きだって誤解されたときはあんなに突っかかられて、島ちゃん相手には尾行までして、更にはあの小倉アナにすら負けん気を発揮しているのに、なんで葵には対抗意識を燃やさないんだろう?」
香織はそう言いながら不思議そうに首をかしげる。
葵は苦笑しながら答えた。
「多分...自分と似た部分をどこかしら感じているのかな?」
「まあ確かに美和ちゃんも豊島の事めちゃくちゃ好きだけど...葵もそうだもんね。」
その言葉を聞いた葵は顔を赤らめ下を向いた。
しかし香織にばれないように少し困った顔で笑う。
(本当は似た部分があるからじゃなくて...私に魅力がないからライバルとも思われていないんだろうな。)
葵はそんなことを考えると、好きという感情を前面に押し出しながらも、彰人に振り向いてもらえるように自分磨きを続けている倉持の姿を思い浮かべた。
確かに容姿ではボロ負けだろう。完全に一般人レベルな葵と比べて、倉持は大手芸能事務所からスカウトされるほどの見た目だ。
しかしそれでも、葵はこの恋を諦めたくはなかった。
(私も豊島君の興味を引くためには...何かしなきゃ。)
葵は最近そんな焦燥感を感じていた。
「島ちゃんも来れないらしいわ!」
思考がネガティブになり始めた葵の横で、香織がふいに言った。
葵ははっと顔を上げると、何事もなかったように香織がこちらに向けているスマホに目を向けた。
その画面には”お誘いは非常にありがたいのですが、本日は予定がありまして向かえそうにありません。”とメッセージが表示されていた。
「島ちゃんって絶対社長の娘よね。」
そういうと香織は返信のメッセージを入力し始めた。
「確かに本当に物腰柔らかくてお嬢様って感じだよね。パンの食べ方にも品があったし...。」
「それよね!虫も殺せなそうだわ。」
香織はうんうんと頷きながらスマホをバッグの中にしまった。
そして「油断していると島ちゃんも気がついたらモデルとかになってそうね。」と呟いた。
「そうだね。そうなったらみんなに自慢しようよ。」
葵はそう答えながらも心の中で(島ちゃんが豊島君を好きじゃなくてよかった。)と思ってしまっていた。
そしてそんな自分にまた少しだけ嫌気がさした。
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それから2人は歩き続け、ついにパン屋が近づいてきた。あとは目の前にある十字路を右折すれば左手に見えるはずだ。
2人は胸が高鳴るのを感じた。
「じゃあ今日は2人で楽しむわよ!」
「そうだね!食べ過ぎないようにだけ気を付けないと。」
そんなことを言いながら浮足立つ思いで角を曲がりパン屋の方向に目を向ける。
そこには、いつもいる行列がなく、明かりの消えた店舗があった。
「...あれ?」
香織は一瞬首をかしげたが、改めてお店を見てわなわなと体を震わせた。
「も、もしかして...葵...」
「うん...たぶんこれ...」
そう言いながら店舗の前まで小走りで向かおうとした2人はふと気づいた。
店舗の前で立ちつくしている女性がいた。
しかしその女性に気づいた瞬間、2人は思わず足を止めた。
その原因は女性のしている格好にあった。
白いキャップに頬まで隠れるような大きなサングラス、さらには顔を覆うようなマスクをつけている。
正直どこからどうみても不審者の恰好をしていたのだった。
しかし最初は不審に思ったが、少し見ているうちにまたあることに気づいた。
「葵...あの人...。」
「うん。何か...困ってるね。」
そう、その不審な格好をした女性は何度も店舗に目をやりながら、その場で困ったように立ちつくしていた。
香織と葵は目を合わせると頷き合い、ゆっくりと店舗に向かって、つまりその女性の元に向かって歩き出した。
そして女性との距離が5メートルほどになった瞬間、その女性が香織と葵の気配に気づき、こちらを向いたのだった。




