第二十六話 その数式、危険につき
私、三澄華は教師だ。
年齢は28歳。やっと先生としての言動も板につき、数年前から担任を受け持つ機会も増えてきた。
色々と悩みながらも生徒共に成長し、自分を先生と慕ってくれる子にも出会うことができた。
まだまだ半人前だという自覚はあるが、それでも自分なりに己を律し、生徒の模範となる大人でいるよう努めてこれたように思う。
しかし、今まさに現在担任を受け持っている1年生の事で、職員室の自分の席に座り、頭を抱えていた。
「なんなの、これ。」
思わず独り言が漏れる。
隣に座っている教師がチラッとこちらを気にする素振りを見せたので、慌てて口をつぐんだ。
だがもちろん声を出そうが出さまいが、問題は消えることはない。
私はもう一度、手元の書類に目を落とした。
(こんな数式見たことがないわ...)
言い忘れていたが、私は数学の教師でもある。
そしてこの前、授業で小テストを行った。
生徒たちは文句を言いながらも、真面目に取り組んでくれていたように思う。
だが、問題はそのテストの採点中に起きた。
流れ作業で答え合わせをしていく中で、ある1枚のテスト用紙に違和感を感じた。
最初は他と同じように答え合わせをしていたが、最後の問題だけ隣に書いてある数式がおかしい。
(あれ?今回のテストで出した問題ってこんな長い数式で計算しないはずだけど...)
そう思いながら数式を確認した私の手が止まった。
そこには、見たこともない記号で埋め尽くされた数式が書かれていた。
(なに...これ?)
私は何度か目をこすり、見間違いでないことを確認する。
もちろん書かれた数式は変わらず、そのテスト用紙の中に存在していた。
最初は生徒のいたずらかと思った。だが、なぜかその数式からはそう言った気配が一切感じられず、さらにいうと不思議な存在感を放っていた。
(どうしようこれ。こういう場合って校長とかに相談した方がいいのかしら?)
私は頭の中で校長の姿を思い浮かべる。
出てくるのは剥げた頭で面倒ごとをすべて教頭に押し付け、ゴルフ生活を謳歌しているおっさんの姿だ。
私は頭を振って校長のイメージを追い出した。
(無理ね。あの禿には。)
私は再度テスト用紙に目を落とした。だがそんな時、職員室にノックの音が響く。
誰かが「どうぞ」と言う声が聞こえた。
ガラガラと音を立てて、職員室の扉が開かれる。
「失礼します。」
その声を聴いた私は、勢いよく扉の方向を向いた。
なぜなら、その声の主こそが私を悩ませているテスト用紙の生みの親だからだった。
「三澄先生はいますか。」
そう言って職員室の中に入ってきたのは、豊島君だ。
初めて見た時はどこの芸能人かと思うほど整った容姿に、度肝を抜かれたことを覚えている。
すでに入学して2カ月程経つが、未だに時々びっくりしてしまうのは秘密だ。
対応した先生に私の席を教えてもらった豊島君が、こちらを見た。
私と目が合うと、目の前の先生にお礼を言って、こちらに向かって歩いてくる。
私は思わずテスト用紙を後ろ手に隠した。
「先生、お忙しいところすみません。」
「な、何かしら?」
声が上擦る。
豊島君は端正な顔つきのまま言った。
「今日のテストの事なのですが」
「ちょっと待って!」
私は豊島君の言葉を遮り、小声で叫んだ。
隣の先生がギョッとした仕草でこちらを見た。
私は(なんでもありませんよ)の顔でニコッとほほ笑み、豊島君に向き直ると言った。
「ここじゃあれね。空気が悪いわね。向こうに行きましょう。」
言うや否や私はスクっと立ち上がり、職員室の扉に向かってスタスタと歩いた。
そんな私の奇行を見た豊島君は「空気...?」と呟きながらも、後ろから着いてきてくれた。
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「ここがいいわね。」
そういうと私は校内にある空き教室の扉を開けた。
埃っぽい匂いが鼻孔をつく。エホンと咳が出た。
後ろから教室に入ってきた豊島君は「ここの方が明らかに空気は悪いが...」と呟いている。
私は振り返って言った。
「そう?先生はそうは思わな...エホンッ!」
先ほどよりも大きな咳が出た。
豊島君が怪訝そうな顔でこちら見た。
「気管に唾が。」と言っておいた。
後は(はい。この話はお終い。)の顔で豊島君を見る。大人は話題の流し方がうまいのだ。
「まあいいですけど...ところで先ほども言いかけたテストの件なのですが、」
「これかしら?」
私は右手に握りしめていたテスト用紙を前に出した。
「ああ、これです。」
「そうよね...これがなに?」
私はテスト用紙を豊島君に手渡すと声を絞り出した。
豊島君はじっとその数式を見ている。心臓が早鐘のように胸を叩く。
(あの数式はなんなの...ただの数式じゃないことはわかってる。まさか、今までどの数学者も生み出せなかった幻の数式...。)
そして豊島君が口を開いた。
「ふむ。...やっぱり間違ってますね。」
「え?」
私は思わず呆けた声だした。
「ここです。」
そう言って豊島君がある1つの問題を指さす。
私はその問題を見た。そして気づく。
「確かに答えが違うわね...。」
私の反応を見た豊島君は、やれやれと言った様子で首を振った。
「そう思ったんですよ。やっぱり間違えてましたか。残念です。」
でも、と続けた。
「間違っていることに気づけたので良かったです。じゃあ、これで。」
そう言って豊島君は私に背を向けた。
そしてスタスタと歩き、教室から出ていこうとする。私は思わず叫んだ。
「違う違う!そうじゃない!」
豊島君は驚いた様子でこちらを見た。
「これ!この数式!」
私はテスト用紙をバシバシと叩きながら言った。
「この最後の問題に書かれた数式!こんな数式は存在しないから!どうやってこの数式を考え付いたのか教えなさい!」
私はふんすっと気合を込めた目で豊島君を見た。
これがもしも数学界における世紀の発見ならば、教師として、いえ豊島君の担任として彼に正しい道を示してあげなければ。それこそが私の役目だわ!
もう一度ふんすっと気合を入れ直した。
だが私の興奮とは対照的に豊島君は静かな目で数式を見ていた。
教室の中に静寂が流れる。
そしてぽつりと豊島君の口から、呟きが漏れた。
「やってしまったか」と。
(あれ?なんか空気が...)
それと同時に私は周りの空気の異変に気づく。
さっきまで埃ぽかった空気が、何か妙に重い。
そして心なしかその圧迫感は目の前の豊島君からあふれ出ているような気がしていた。
「と、豊島君...?」
テスト用紙に顔を落としたままの豊島君に声をかける。
前髪が顔を隠しており、表情は見えない。
しかし、不意に豊島君が言った。
「記憶力は良い方か?」
私は不思議とそれが自分にかけられた言葉だと気づく。
私はぶんぶんと頭を振った。
「そうか。」
そう豊島君が呟いた瞬間、それまでの重たい空気が霧散した。
そして豊島君も顔を上げた。
その顔は...いつも通りの端正な顔つきをしていた。
「自分のミスを帳消しにするためだけに人の記憶を操るのは、重罪だからな。それに我のプライドも許さん。」
そう言った豊島君の手にはいつの間にかテスト用紙が握られていた。
「あれ?それ...」
「だから今回は我にも反省するところがある。戒めとして残そう。」
そう言って豊島君はテスト用紙を私に手渡した。
受け取ったテスト用紙に思わず目を向ける。そして驚愕した。
先ほどまで書かれていた謎の数式が、跡形もなく消え去っていた。
「なんで...これ!」
そう言って勢いよく前を向いた私の目と、豊島君の目がばっちりと合った。
豊島君は私の目を覗き込んだまま、一言一句確かめるようにゆっくりと言葉を発した。
「三澄先生。あなたは数式など見ていない。たとえ見ていたとしてもすでに記憶にはない。そうですよね?」
言葉に詰まる私を豊島君は見続ける。
その目は全てを見通すような不思議な光を湛えていた。
私はゆっくりと頷いた。
そして顔が丁度下を向いた瞬間「良かったです。」と声が響く。
そして次に前を向いたとき、すでに豊島君の姿はそこになかった。
「なんだったの...今の。」
私は最後の問題が空白になったテスト様子を手に握ったまま、呆然と呟いた。
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彰人は学校から帰りながら、猛省をしていた。
(あの式は元の世界で幼いころに我が研究していた、下級悪魔の召喚式だ。誰にも言わないままひっそりと研究を繰り返し一度も成功しないまま、悪魔の危険性に気づき封印していた式だったのだが...なぜこのタイミングで...。)
「おーい、彰人!」
ふいに聞こえた声に前を向くと、こちらに向かって歩いてくる先間が目に入った。
「どうだったの?テスト。」
「ああ、やはり間違えていた。」
「ドンマイ!」
そう言って先間は彰人の肩を叩いた。
「でも1問だけでしょ?じゃあ大丈夫だよ。なんせ三澄先生、可愛い顔して赤点をとった生徒に鬼の補修をさせるからねー。僕も昨日ゲームしてて徹夜してたからヤバいかなと思ったけど、なんかテスト中は逆に頭が冴えたっていうの?すらすら問題が解けたよね!」
「良かったな。先間よ。」
「じゃあテストも無事乗り越えたし、今日もゲームしよっと!」
そう言って前を歩く先間の後姿を見ながら、彰人は思った。
(職員室で目に入った点数が一ケタのテスト用紙。先間の名前が書かれていた気がするのだが...これは黙っておくか。)
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「この数式、何なんだろう?」
私はさっき撮った写メを見て呟いた。
今日の数学の授業中。最後、テスト用紙を回収した際に、思わず彼の結果が気になりちらっと見てしまった。
きちんと答えが埋められた用紙に(すごいなぁ)と感嘆したが、最後の問題に見たこともない数式が書き込まれていた。
(彼、どんな問題の解き方をしようとしたんだろう。)
気になった私は、他の生徒が集めた用紙を地面に落とし、みんなの気がそちらに向いた瞬間に、その数式を咄嗟に写メっていた。
しかし、後からじっくり見ても、何を計算しようとしているかすらわからない。
なかには見たこともない記号まで書かれていた。
(うーん。わかんない。)
だが、スマホとにらめっこする私を呼ぶ声が聞こえた。
「葵!なにしてんの?」
「あっ香織!ううん、何でもないよ。」
そう言って私はもう一度画面をちらっと見ると、スマホをポケットに入れ立ち上がった。




