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第十九話 ある少女の話 後編

熱い。


最初に感じたのは熱だった。灼熱だ。左頬が燃えているようだった。

周りからは、様々な喧噪が聞こえる。でも、どれ一つ聞き取ることはできない。

まるで、全ての音が私の中を素通りしていく様だった。

目は開けられなかった。

体も重い。

闇に引きずりこまれそうな意識の中でも、左頬の熱だけは、ずっと続いていた。


************


(あ...あ...アキトさんだぁあああ)


あの日、窓から私の心を奪った相手が目の前にいる。その事実に私は歓喜に震えた。

しかしそんな私を不審に思ったのか、アキトさんは目を細め、再度問いかけてくる。


「どうした。なぜつけてきたのだ。」


(何か喋らなきゃ...!)


そう思うのだが、口を開いても出てくるのは吐息ばかりで、全く言葉が出てこない。

それもそのはず、そもそも今日外に出たこと自体が久しぶりだ。

この三か月親以外と会話した記憶はなく、さらに近くで見るだけの予定だったアキトさんと、まさかの邂逅。

完全なるパニックだ。私は案山子のように突っ立たまま、あわあわと手をバタつかせた。


「ふむ。随分と挙動不審だが、悪い者ではないようだ。」


そんな私を見てアキトさんは小さな声でつぶやくと、こちらに向かって歩いてきた。

非常事態だった。これ以上近づかれたら、今度こそ本当に私の心臓は口から飛び出てくるんじゃないか。

そんな流血事件を起こす前に、やっとの思いで声を絞り出した。


「こ、こないでくださいぃぃ」


何とか発声できたその声は、とても小さく空中で搔き消えてしまいそうな細さだったが、どうにかアキトさんには届いたようだった。

アキトさんは疑問を抱いたように片方の眉を少し上げたが、その場で立ち止まった。でも、もう手を伸ばせば触れることのできる距離だ。


(どうしよう...)


アキトさんは何か私が喋るのを待っているようだった。

何か言わなくてはと思うのだが、何から伝えればいいのか、考えは錯綜し、焦燥感だけが募っていく。

しかし、そんな最中後ろから自転車のベルの音が聞こえた。私は驚き、無意識に道路の端に寄った。


「危ないぞ。」


アキトさんの声が聞こえるのと、私の背中に衝撃を感じたのは、同時だった。

「すみませーん」と言いながら、自転車に乗った男子中学生が横を通り過ぎていく。どうやら、その男の子が肩にかけていたバックが追い越しざま私に背中に当たったようだった。

しかし、それだけではなかった。当たった衝撃でパーカーのフードが頭からずり落ちるのを感じた。


「きゃあ!」


私は慌ててフードを掴むと、もう一度被り直した。しかし、手遅れだったようだ。

目の前でアキトさんが息を呑んだ感覚があった。

私は目の前が真っ暗になった。


(なんで一番知られたくない人に...)


************


春休みに入って三日後だった。私、倉持美和くらもちみわは、友達との待ち合わせ場所に向かう途中で、事故にあった。

後から聞いた話によると、横から突っ込んできた車とガラスウィンドウの間に挟まれるようにして、事故にあったらしい。

でも、私の中の事故の記憶は、ただ一つだけ。強い左頬の熱だった。


私は、幼いころから両親はもちろん他の人からも容姿を褒められた。

年齢にしては高い長身で、すらっと伸びた手足も大人びた雰囲気を出していたし、小さな顔にアーモンドのように形の良い目、さらに小ぶりの鼻に桜色の整った唇。全てが私の自慢だった。


しかし、包帯が取れたその顔を見たとき、私を絶望が襲った。

目の外側から口元にかけて、左頬に大きな切り傷があった。

病院の先生は「骨や神経には異常はない」などと話していたが、私にとってはそんなことどうでもよかった。

ただ、滂沱の涙を流しながら、私はそれまで自分を自分たらしめていた大切なものが、音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。


そして、病院を退院した日から、私は引きこもりになったのだった。


************


深く被ったフードを手で強く掴み、左頬の裂傷を隠したまま、私は久しぶりの涙を流した。

何がいけなかったんだろうか。一度だけ、直接アキトさんを見てみたい。

アイデンティティーを失った引きこもりが、そんな願いを抱くのは贅沢だったんだろうか。


(今日だけだったのに...せめて一度だけ、そう思っただけだったのに...)


おそらく今後、もう二度と外には出れないだろう。そんな気がしていた。

久しぶりに頬を濡らす涙は、堰を切ったように次々とあふれ出てくる。

せめて最後の意地で、その涙も隠れるようにフードを強く引っ張った。


「お主、顔を上げよ。」


ふいにアキトさんの声が聞こえた。

私ははっとしたが、いや、いや、とかぶりを振った。


「大丈夫だ。」


もう一度アキトさんの声が聞こえた。その声はそれまで絶望の最中にあった私に手を差し伸べてくれるような、不思議な優しさを持っていた。

私は思わずゆっくりと顔を上げた。最初に見えたのはアキトさんの柔らかく微笑む顔だった。

次に、こちらに向かって不意に伸ばされたアキトさんの手が、私の顔に触れた。


(っ!)


驚くと同時に思わず手を振り払ってしまいそうになった。

しかし、アキトさんが何か小声でつぶやいた瞬間、その手からも不思議な温もりが伝わってきた。

今、アキトさんが触っているのはあの時まさに灼熱を感じた左頬だったが、今感じる熱はその時とは比べ物にならないほど優しく、体の奥深くまでじわりと広がっていった。

ただその時間は長くは続かず、アキトさんの手は私の顔から離れた。


私はまだ夢の中にいるような気持ちで、ぽーっとアキトさんを見ていた。しかし、アキトさんもこちらをじっと見てくる。

私はその視線に耐え切れず、さっと地面に目を伏せた。


「ふむ、とりあえずは良し...だが、今回のは少し大掛かりになるな。」


アキトさんはそんな風にブツブツと呟くと、私の頭の上に手を置いた。


「辛かったな。だが、お主なら大丈夫だ。」


正鵠を射るようなその言葉に驚き、再び顔を上げかけた。しかし、またアキトさんが何かを呟いた瞬間、急速な眠気が私を襲った。

私は微睡む意識の中でも、せっかくアキトさんと会えたのに、まだ何一つ伝えれてないことを強く後悔した。

絶望に飲み込まれ、自堕落な生活を送っていた私にアキトさんがどれだけのことを与えてくれたか。それをどうしても伝えたい。


私は最後の気合を振り絞ると、その思いを一番シンプルに伝えることのできる二文字を呟き、意識はそこで途切れた。


************


「お母さん、お父さん、私、今日から学校行く。」


そう言った瞬間、まず両親は「大丈夫か?」と心配をしてくれたが、私が一度頷くと安堵したようにほほ笑んでくれた。

私は、引きこもりだ。きっかけは三か月前の事故だった。

奇跡的に()()()()()()()()()()()()が、その時の恐怖が忘れられず、外出が出来なくなっていた。

でも今日の朝、設定した覚えもない目覚ましがなぜか朝早く鳴り響き、それを止めた瞬間、なんとなく学校に行ける気がした。


私は、急いで学校に行く支度をすると、洗面所の鏡で日課のチェックをした。もちろん、顔のチェックだ。

なぜか自室にたくさん置いていたはずの鏡が1枚も見当たらず、探しても見つからなかったので今日は洗面所にきた。

小さな顔にアーモンド形の形の良い目、さらに小ぶりの鼻に桜色の整った唇。いつも通りの私の自慢の顔だ。いつも通りのはずなのだが、なぜか一筋の涙が頬を伝った。

私はびっくりして、涙を拭う。なんで、いつも通りの顔が、今日は懐かしく感じたんだろう。


お顔のチェックを終えた私は、自室に戻ると学校の鞄を持ち、出ていこうとした。


(あれ?)


しかし、妙に窓が気になる。私は窓に近づくと、外の風景を眺めた。

特に変わったことはない。いつも見ていた風景だ。


(まあ、いっか。)


そう思い窓に背を向けた瞬間、外から「アキト」と誰かが誰かを呼ぶ声が聞こえた。

私は反射的に振り向く。理由はわからなかったが、必死にその声が聞こえた方向を探している自分がいた。

そして、遠くで2人並んで歩く、男子高校生を見つけた。

遠すぎて顔はわからないが、なぜか胸がドキドキする。


(まさか名前だけで惹かれるなんて...ね)


長いこと引きこもってたから、いろんな感情が多感になっているのかな?

そう自分の中で結論づけ、再び窓に背を向け、今度こそ自室を出た。

でも、その間もずっと胸の高鳴りは続いていた。


「じゃあ、行ってきます。」


私は親に挨拶をして、玄関の扉に手をかけた。

久しぶりの外の世界だ。いろいろやりたいことがある。

まずは友達に久しぶりの挨拶をして、休んでいた期間のノートを見せてもらって、一緒に笑いながら昼食を食べて、そして放課後にはさっきの男子高校生とすれ違うことができたらいいな。


そんなことを思いながら、扉を大きくあけ放った。

ちなみに後日、しっかり放課後に彰人とすれ違った美和は、またしっかり一目ぼれをするのであった。

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