第百二十二話 守れたもの 前編
辺りで誰かの話す声がする。
ずっと嫌いだった、認めるのが怖かった、そんな嫌な自分が消えたわけじゃない。
それでも、これからはそんな感情も受け入れていこう。そう思った。
すぐに変われるとは思わない。これからも、失望し落ち込むこともあるだろう。
でも、今ならそれらの想いと共に前に進める気がしていた。
それは自分が成長できるからという意味だけじゃない。
周りにいる人が、自分の親友がずっとそばで見てくれてるから。
無駄に気を張らなくても、できない自分をさらけ出すことになっても、大丈夫だと思った。
辺りで話す声は止まない。
少しだけ怖い。それは確かだったけれど、いつまでもここに留まっていてはダメだ。
そんな決意と共に、葵はゆっくりと目を開いた。
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「葵?ねぇ、葵ってば!」
「七瀬さん?聞こえるー?」
香織と先間は、地面に横たわり眠ったように静かに呼吸を繰り返す、葵の名を呼んでいた。
時折香織が体を揺すったりもしていたが、それでも葵が目を覚ます気配はなかった。
「あー、どうしよう。もう外も暗いし、彰人はどこかに消えちゃうし。」
くしゃくしゃと頭を掻きながら先間は倉庫の中を見回した。
それはもちろん葵の体を乗っ取っていた大蛇の化物と一緒にその姿を眩ませた彰人を探すための行為だったが、
「はあー。」
その結果は先間のため息が表していた。
「ちょっと、あいつすぐ戻るって言ってたわよね。どこ行ったのよ。」
香織は葵の隣に座ったまま顔を上げ、先間をじっと見た。
「そんなの僕に言われても知らないよ...。」
そう答えながら先間はもう一度倉庫内を見回した。しかし、やはり彰人の姿はない。
心配かと聞かれれば、否定することは出来ない。
なぜなら、最後に見た敵の姿は、この大きな倉庫を突き破らんばかりの巨躯を持った蛇だ。それに大きさだけでなく、威圧感もこちらが押しつぶされそうになるほど圧倒的なものを発していた。
普通に考えれば、丸呑みにされて終わりだろう。
しかし、先間も香織も彰人が帰ってくることは確信していた。
なぜなら、最後に見た彰人の姿は、いつも通り不敵で飄々として自信に満ちた姿だったからだ。
(もちろん、無事に彰人は帰ってくると思ってる。でも...。)
先間は、香織の隣で目を閉じている葵を見る。
香織が渾身のビンタで吹き飛ばして以来、その目は閉じられたままだった。
(七瀬さんの状態も相談したいのに...彰人、早く帰ってきてよー!)
先間はそう思い、目を閉じて上を向き、天に祈った。
香織はそんな先間を見て、天井に何かあんの?と思い、同じく上を見上げる。
しかし、もちろんそこにあるのは武骨な鉄骨が張り巡らされた倉庫の屋根だけだった。
何を見てんのよ、と先間に声をかけようとし、香織が息を吸った時だった。
「何を...見てるの?」
そんな声が聞こえた。
香織と先間は首がちぎれんばかりの勢いで、その声が聞こえた方向を見た。
そこには、長い眠りから目覚めたばかりのような、少しボーとしてはいるが確かに目を開いている葵の姿があった。
「葵!」
「七瀬さん!」
二人の声は重なり、倉庫内に響く。
「大丈夫なの!体痛い?気分悪かったりする?それから...」
興奮し矢継ぎ早に質問を重ねる香織だったが、葵は対照的に少しだけクスリとほほ笑み言った。
「大丈夫。...すこしほっぺたが痛いだけ。」
「ほっぺ!?大丈夫?なにが...あ。」
葵の頬を確認しようとした香織は葵の言葉の真意に気づき、固まった。
そんな香織の姿を見て、葵はまたクスリと笑う。
「やっぱり...意識あったわよね?」
「そうだね。...いきなりだもん。びっくりした。」
葵はそう言いながらゆっくりと上半身を起こした。
それを手伝うように背中に手を当てていた香織は、葵が上半身を起こしきったのを見届けると、ぎゅっと口を結び覚悟を決めた顔で「ねえ、葵。」と声をかけた。
「ん?」
「何も言わないで。まずは、私をいっぱぶぇっ!」
倉庫内に小気味いい音が響く。
先間は目の前の光景に絶句する。
そこには、まだ喋っていた香織の頬を平手打ちした葵の姿があった。
横に弾けた風景と遅れて襲ってきた頬の熱さに、香織は目を白黒とさせながら葵を見た。
「あれ、少し早かった?」
「なんで。」
「わかるよ。香織、私に自分を一発殴らせようとしてたでしょ。」
頬を押さえながら質問をする香織に、葵はそう返す。
確かにその通りだった。香織は葵に「私を一発殴って。」と言おうとしていたのだ。
それは、先ほど香織が思いっきりビンタしたそのお返しでもある。そして香織がビンタに込めた思いのお返しも込めていた。
今回、その事の発端は確かに葵に原因があるかもしれない。
いくら彰人が言っていた魔方陣の効果がその思いを増長させていたとしても、葵の自己評価の低さから、香織に対して劣等感を抱いていたのは確かだったからだ。
しかし、それは葵だけに問題があったと香織は思っていなかった。
自分の接し方、思いの伝え方、そう言った部分にどこか遠慮があったのではないか。そう言った無駄な気遣いが葵の中に無駄な悩みを増長させる一端になっていたのではないか。
香織はそう考えていた。
だからこそ、葵を叱るために送ったビンタを、自分にもやり返してほしかったのだ。
そして2人でこれまでの事を思い切り反省し、これから前に歩んでいこうと思っていた。
しかし、まさか言っている途中にビンタが飛んでくるとは思わなかった。
けれど、香織は思い返す。
(そうだった。葵はそうだ。いつだって、人の気持ちを察すのは人一倍得意なのよ。)
おそらく、そんな香織の想いを葵は全てわかっているのだ。
そして分かったうえで、香織のビンタを受け入れ、そして今香織にビンタを返した。
絶対に葵は今語りたい言葉が想いがたくさんあるはずだった。それでも、香織の想いをくみ取り、それにまずは応えたのだ。
それは相変わらず自分の想いより、他人への気遣いが先行する、いつもの優しい葵の姿だった。
(そんなに優れた自分の長所に気付けないなんて本当に葵は鈍感ね。...そして、気づけないから大変な思いをしていた親友の悩みに気づけない私も。)
香織はそんなことを思いながら葵を見た。
葵は少しほほ笑んだ顔で香織を見返していたが、その頬を一筋の涙が零れた。
そして、頬を押さえる自分の手も、涙で濡れているのに気づいた。
そんな中、香織は口を開いた。
「葵、あんた馬鹿。」
「それ、もう聞いた。」
「鈍感。」
「それも聞いたよ。」
「それから...私の友達になってくれてありがとう。」
そう言って香織はじっと葵の目を見た。
葵は香織のありがとうという言葉を聞いた瞬間、少し体を揺らすとそれから俯いた。
「...うん。私は...馬鹿で鈍感で、だからたくさん、たくさん迷惑かけてごめんなさい。」
そして、再び顔を上げると香織の目を見ながら告げた。
「それから...これからもよろしくお願いします。」
今交わした言葉は決して多くはない。これからいろいろと話すことも、話さなきゃダメなこともあるだろう。
でも今は、少ない言葉をぽつりぽつりと交わしながら、香織は思っていた。
(今はこれでいい。私たちにとっては...十分よ。)
おそらく、人はみんな自分の事は自分が一番よく知っていると思っているかもしれない。しかし、本当にそう言えるだろうか。
自分が思う自分と、自分以外が思う自分。そこには大きなギャップがあるかもしれない。
もしかすると、自分の駄目な部分ばかりに目が行ってしまい自信が持てなかったとしても、実は誰かのヒーローな可能性は十分にある。
これは自分で自分がヒーローだと気づけていない。
そんな彼女たち2人の物語だった。
(僕の友人は...二人とも馬鹿だよ。)
互いの頬を張り合い、涙を流しあい、そして本当は少ない言葉でこんなにもお互いの想いを共有できるのにすれ違い続けていた友人の姿を見て、先間はグスリと鼻を鳴らした。
その時だった。
「む?...なるほど、あちらと地球では時間の流れが異なるのか。今後あちらのイメージで空間を具現化する際は気を付けねばならぬな。」
不意にそんな声がしんみりとした空間に飛び込んできた。
先間は飛び跳ねながら後ろを振り向き、叫ぶ。
「彰人!」
「すまない。少し遅くなった。」
そこには先ほどまで誰もいなかった空間に立ち、片手を上げる彰人の姿があった。
その姿はどこにも変化が見られず、一瞬大蛇の化物の事を尋ねそうになった先間だったが、その言葉は飲み込んだ。
彰人が何も言ってこず、いつも通りの姿で立っている。
それが答えだと思ったからだ。
彰人はまず先間を見て、それからお互い地べたに座ったまま涙を流しながらこちらを見上げる、香織と葵を見た。
「七瀬、倦怠感などはないか?」
彰人はまず葵にそう尋ねた。
葵は思わずこくりと頷き、返答をする。
そうか、と言った彰人はその後香織に尋ねた。
「朝霧、身体に痛みなどはないか?」
香織はチラリと手で押さえる頬を見たが、結局「ないわ。」と言った。
「そうか。」
再度そう言った彰人は、何かを考えるように顎に手をやった。
そして、少しの沈黙の後、口を開いた。
「少し、よいか。」
彰人は一人一人と目を合わせる。
そして、言った。
「お主たちに...我のことを話そう。」