第百十六話 HEROES その4
「葵!聞いたわよ。あんた、私に劣等感を抱いてたんですって?」
香織の声がリヴァイアサンの中で眠る葵に向かって投げかけられた。
それを聞いたリヴァイアサンは、苛立つようにグルグルと喉を鳴らすだけで、特に言動に変化は見られない。
しかし、関係ないとばかりに香織は話を続ける。
「生きる目標もない癖に周りからの評価だけを気にしてる自分と比べて、目標に向かって突き進む私が眩しく映ってたんですって?」
香織はそこまで言うと、髪をさっとかき上げながら言い放った。
「葵...あんた、馬っ鹿じゃないの!」
そう言うと同時に、手に持った鞄の中から一枚のノートを取り出した。
それは保健室で先間と見た、香織が葵から受けた助言を書き連ねているノートだった。
香織はそのノートをリヴァイアサンに突き付ける。
「あのね、なんで私が今でも目標に向かって真っすぐ突き進めてると思ってるの。...それは、葵が傍にいてくれたからよ。」
香織は手に持ったノートを開いた。そしてパラパラとページをめくる。
そのノートは、香織の文字でびっしりと埋め尽くされていた。
「私はいつも感情のまま真っ先に行動に移しちゃうタイプよ。そこは確かに葵とは違う。でもね、それって別に良い面とは言えないわ。現に思慮が足りない私は、周りの事を考えずに動いてばかりだった。するとどうなると思う?...疎まれるのよ。」
香織は何かを思い出すように、一つ一つ言葉を選らびながら語る。
「いくら自分の中の正義に沿って動いても、結局他人の事を気づかえない人間の言葉なんて響かないわ。でも、私はそれが苦手だった。いつだって自分が正しいと思った考えに従って動いた。それが周りにもいつか伝わると思って。...でも、世界はそんな綺麗事だけで回るはずがない。多分私一人だと私の人生は全然違うように転がってたでしょうね。」
香織の独白にも近い言葉を聞きながら、彰人も考える。
確かに今香織が語っていることは、この世の真理の中の一つだ。
結局人を動かすのは正しい言葉や行動ではない。その人自身が変わろうと思える、そんなきっかけは、その人の事を知ろうとしない限り、導き出すことなどできない。
しかし、思ったことが口をついて出てしまう香織はそれが苦手だったのだろう。
だが、そんな性格を自覚している香織だからこそ、自分の事も厳しく律している。人に言うからには、自らが間違った言動をしないようにだ。
素晴らしい心意気だと思う。しかし...自分の過ちなど大抵の人は言われる前に理解している。
だからこそ、いつも正しく振る舞う人間から正論で注意をされても反発してしまう。
香織が言った通り世界は綺麗事だけでは回らない。
そんな不条理こそが、この世界を形成する、どうしようもない真理だ。
彰人がそんなことを考えている中、香織は「でも!」と大きな声を上げた。
「いつも傍で葵が私を導いてくれたから。私の考えが足りない部分を時に補い、時に気づかせてくれたから。今ではこんな口うるさい私の周りにも人がいて、楽しい生活を送れてる。」
このアドバイスも、この助言だって、香織はそう言いながらノートをパラパラとめくった。
「全部、葵が私に教えてくれたことじゃない。何度でも言うわ。私が心折れずいつだって突き進めるのは、間違っていたら正してくれる葵が傍にいてくれたからよ。本当に...心の底から感謝してるの。」
「なのに」と香織は歯を食いしばりながら言った。
「いつだって他人の感情の機微には敏感なくせに、なんでそういう自分の良いところには鈍感なのよ。挙句の果てには、私に劣等感を抱くなんて...本当どんだけ馬鹿なのよ。」
そういうと香織はノートをぱちんと閉じた。
そして意を決したように、再びリヴァイアサンの方を見た。
「この際だから、さらに言うわ。私たちの最初の出会いについてよ。...なぜ最初私が葵に声をかけたと思う?」
その言葉を聞いて、彰人はいつか葵が語っていた2人の出会いの話を思い出していた。
確か小学生の時、葵に香織の方から声をかけたのが、2人の最初の出会いだったはずだ。記憶を漁る彰人の前で、香織は次々と話を進めていく。
「まさかとは思うけど、友達がいないあんたに同情してとでも思った?もしそう思ってたなら、葵の馬鹿度は私の想像を超えるわ。もはや天文学的馬鹿よ。」
(なんだそれは。)
聞いたことのない尺度の表し方に首を傾げる彰人だったが、香織は興奮している自分に気づいたのか、何度か深呼吸を繰り返す。
そして、大きく息を吸い込むと、まっすぐリヴァイアサンを見ながら言った。
「私が葵に声をかけたのはね...あなたの事を尊敬してたからよ。」
香織がそう告げた瞬間、変化は訪れた。
今までグルグルと唸っていたリヴァイアサンが突如体を折り曲げ始めたのだ。
さらに、その体を白い髪がグルグルと覆っていく。まるで巨大な繭にでもなろうとしているかのように見えた。
彰人は思わず香織の名を呼びかけた。しかし、顔色一つ変えずにそんなリヴァイアサンを見ている香織を見て、口をつぐむ。
おそらく何が起ころうと香織は話を止めることは無い。そんな覚悟が見てとれた。
そして、香織はついに恥ずかしさから今まで葵に言っていなかった、当時のエピソードを語り始めた。
香織と葵が出会ったのは、小学生の時だ。
以前彰人が葵から聞いた通り、その頃の葵は親からの教育に加え、信頼していた運転手との別れで傷心しきっており、無口で無表情な子供だった。
ただ親の期待に応えるために、ひたすら勉強だけに励み、それ以外は一切外部との関わりを断った孤独な生活を送っていた。
それが葵から聞いた話で、もちろん彰人の認識もそうだった。
しかし、忘れてはならないことがある。それはいつだってエピソードは主観で語られるということだ。
つまり上記の話はあくまで葵目線での話であり、客観的な印象が一切入っていない。
そして香織が語ったのは、そんな葵のことを同じクラスメイトだった香織の目線から客観的な話だった。
まず、香織が葵の事を意識し始めたのは、ある日の掃除の時間だった。
小学生という年代において、掃除の時間に真面目に掃除に励む酔狂な生徒はそう多くない。御多分に漏れずその時も周りの生徒は、箒で床を掃くよりも友人との話に夢中になっていた。
そしてそれを許さないのが、香織だ。
持ち前の正義感でそんな生徒に次々と注意を飛ばす香織だったが、周りはそんな香織の事を鬱陶しそうに見やり、しぶしぶといった様子で掃除をし始める始末だった。
何度注意してもすぐに話し始める生徒たちに香織は憤った。
しかし鼻息も荒く黒板を一心不乱に雑巾で拭き殴っている中、一人黙々と手を休めず机を拭いている生徒がいることに気付いた。
その生徒は、今年同じクラスになったばかりの女の子で、香織はまだ話したことがなかった。
というのも、その子はいつも無口で暗く、どこか他人を拒絶している空気感を出していた。
いつも勉強ばかりしており、少し苦手意識を持っていたが、確かに思い返すと彼女が掃除をサボっているところを見た記憶はなかった。
(真面目な子もいて良かったわ。)
それが最初の印象だった。
コミュニケーションが苦手なだけで、悪い子じゃないのかな、と。そんな程度だった。
しかし、その生徒の事を意識し始めてからだ。香織は色々なことに気が付くことになる。
例えば、活発な男の子がグランドで遊んでいた際、蹴ったボールが花壇の中に飛び込んだことがあった。
その花壇は誰が世話をしているのか知らなかったが、いつもきれいな花が咲いていた。
男の子は「やべっ」というような顔をすると、ボールを拾い足早にグランドへと帰っていった。
香織はそんな行動が許せず、すぐさま男の子の後を追いかけたが、「知らねぇよ!あんなとこで花を育ててるのが悪いんだろ!」というと、男の子は颯爽と逃げていった。
そんなわけないじゃない!と怒りながらも、踵を返した香織だったが、再び花壇の前に足を運んだ時に気づいた。
誰かが花壇のわきに座り、倒れた花を一本一本手で起こしていたのだ。
香織は思わず校舎の陰に隠れ、そっとその生徒の姿を盗み見て気づいた。それはいつか掃除の時に、一人サボらず黙々と手を動かしていたあの女の子だった。
(あの子...誰も見ていないのにひとりでお花の世話をしてたんだ。)
身を隠しながらそう考える香織だったが、その子は最後に茎から折れてしまった花を大事そうに抱えると、どこかへと去っていった。
そんな光景を香織は何度も何度も目にした。
その度に女の子は、誰にも気づかれない場所で、誰かのためにひっそりと一人で行動していた。
そして、香織は気づく。一見他人に興味がなく、冷たく、勉強だけをしているように見えた女の子は、いつだって誰かのための苦労なら自ら引き受けていた。
誰からも気づかれなくても、評価されなくても、称賛を受けられなくても、誰かの幸せのために振る舞っていた。
そうその女の子は、誰よりも優しかった。
(なんでこんなことができるの?いつだって孤独に、それでも誰かのために行動する。...なんてすごい。)
そんな女の子...七瀬葵の事を、香織は好きになり、いつしか尊敬の念を抱くようになった。
そして、友達になりたいと思ったのだ。
「...人からいいように思われたくて正しい行動をとる人はたくさんいるわ。そして、葵も自分の言動を周りからの評価を得るためって言ってたみたいだけど、嘘ついてんじゃないわよ!」
香織は大声を張り上げる。
「確かに頭の良い葵の事だから、多少は打算で動くこともあったかもしれない。親の会社の名前を傷つけないように、周りへの見え方を気にして良く思われる行動を選択していたこともあったでしょうよ!」
その間も、徐々にリヴァイアサンの体を髪が覆っていく。
まるで自身に投げかけられる言葉から、誰かを遠ざけようとしているように。
しかし、香織は「でもね!」とさらに言葉を続ける。
「他人からの評価のためだけに振る舞っている人が、誰も見ていないところであんなにも優しい行動をとれるわけないじゃない。」
「さっき尊敬していたって言ったけど、正直に言うわ。今でもそう。今でも私は葵の事を尊敬してる。」
「あの時、花壇の中で花を慈しむ姿を見てから今に至るまで、いつだって誰かの為に優しく振る舞う葵は。」
そう言った香織は、最後に長く息を吐き切った。
そして、心を込めて告げた。
「いつだって私の中のヒーローなのよ。」