第百八話 葵の告白 中編
一方彰人が葵の場所へ向かってしばらくした頃、学校では香織が保健室のベッドで横になっていた。
(さっきの階段での出来事を誰にも見られてなかったのは、幸いだったわね。)
香織がそんなことを考えていた時、保健室の扉がガラガラと音を立てて開いた。
「朝霧さん。鞄持ってきたよ。」
「ありが...いてて。」
「急に動いたら駄目だって!」
身体を起こしつつ礼を言おうとして顔をしかめる香織に、先間は注意しつつ足早にベッドまで近づいた。
そして香織の鞄をベッドの下に置くと、小さな丸椅子に「よいしょ」と言いながら腰掛けた。
「何座ってるのよ。明日のテストなんだから早く帰りなさいよ。」
香織はさも当然のようにそこに居座ろうとしている先間を横目でじろりと見ながら言った。
しかし、先間は軽く首を振りながらそれに答える。
「友達が階段から落ちて怪我してる時に、テスト勉強なんかできないよ。」
「よく言うわ。どうせ平常時でも勉強してないくせに。」
身体は動かなくても、相変わらず口は切れる。
先間は「ぐっ!」と言いながら胸を押さえたレクチャーをした。
それを見た香織は軽くため息を吐くと、「だから私の事はいいから。別に頭は打ってないみたいだし、もう少ししたら動けるようになるし。」と言った。
しかし、そんないつも通りの口調で話す香織の方を先間は見ると、胸を押さえていた手を降ろし、じっと静かに香織の事を見続けた。
少しだけ時間が流れ、校内の喧騒が空気を揺らした。
そんな空間に耐え切れなくなり香織が口を開こうとした瞬間、先間が言った。
「さっき朝霧さん階段で足を踏み外したって言ってたけど...あれ嘘だよね。」
香織は思わず体を硬直させ、先間を見た。
そこにはいつもの頼りない雰囲気ではなく、静かだけど強い意志の灯った目をしている先間が香織の事をじっと見ていた。
香織は「嘘じゃないわよ。」と言おうとしたが、その口は開かなかった。
そんな香織を見ながら先間は、先ほど床に置いた香織の鞄をゆっくりと持ち上げながら言った。
「先に言っておくんだけど...鞄勝手に見てごめん。」
「なっ!」
衝撃の告白をしながら頭を下げる先間に、香織は絶句した。
それは鞄の中身を見られたことに、ではない。もちろん普段ならそうだ。
問答無用で飛び蹴りをしている。
だけど、今日香織が言葉を失ったのは、鞄の中に入れていたあるノートの存在のせいだった。
「あ、あんた人の鞄の中勝手に見て...!」
「ごめん。...たぶん人に見られたいものじゃないよね。でもどうしてもこのことについて朝霧さんと話したかったんだ。」
そう言いながら先間が鞄の中から一冊のノートを取り出した。
そのノートを見た香織は、何度か口をパクパクさせた後、項垂れるように肩を落とした。
「...読んだの?」
「最初のページを少しだけ。」
「...そっか。」
先間は香織の元にゆっくりとノートを差し出した。
その表紙には【葵から言われた反省メモ】と書かれていた。
香織は横目でそのノートを見ると、口を開いた。
「...馬鹿みたいでしょ。こんなノート作って。」
「ううん。全然そんなことは思わない。」
香織は先間の返答を聞きながらゆっくりと腕を動かすと、先間が手渡してきたノートを手に取った。
そして表紙を撫でながら、喋り始めた。
「私こんな性格だから、昔よく人から恨まれたり陰口を言われたりしてたのよ。」
「うん。」
「固すぎる、口うるさい、真面目ぶりやがって...何度言われたか数えきれないわ。」
「うん。」
「もちろん私は自分が悪いことをしてるとは思ってない。駄目なことをしてる人に対して駄目って言ってるだけだわ。...でも、やっぱり人から嫌われるのって...怖いのよ。」
先間は心の中で(それはそうだよ。)と思いながら、話を聞いていた。
他人から向けられる悪意ほど心が傷つくものはない。それに正しいことをしようとして、その結果返ってきたのが悪意だとなるとそのショックは尚更だろう。
香織は昔の事を思い出したのか、最後の方は少しだけ声を震わせながら喋り続けた。
「でもそんなある日、私が落ち込んでいることを察した葵が言ってくれたの。“香織は真っ直ぐすぎるんだよ。人ってみんなどこか歪だから、その形を認めたうえで、真っ直ぐだとこんないい事があるよって伝えてあげた方がいいんじゃないかな?”って。」
そこまで話すと香織は手に持ったノートをパラパラとめくり始めた。
「それから私が伝え方を間違うたびに、“こう言った方が良かったと思うよ。”“あの人はこういう考えを持ってるから、こっちの伝え方の方が伝わると思うよ。”って葵がアドバイスをくれるようになったの。だから私はそれをメモし続けたのよ。」
そう言いながら香織がめくるページには、真面目な香織らしく色とりどりのペンで葵からのアドバイスや反省点などがびっしりとまとめられていた。
「葵から言われたことを意識し始めた頃からあまりの反応も変わっていって...。それまではただの口うるさい嫌な奴って認識されてたんだけど、中には“朝霧さんはお前の為を思って言ってんだからちゃんと従えよな。”って言ってくれるような人も出てきて...。」
「うん。」
「私、特に頭が良いわけでもないし感情の機微に敏感なタイプでもないけど、そんな私でも気づくくらいの変化があって。...たぶん葵と出会ってなかったら、私一生嫌われ者だったと思うわ。」
「うん。」
「だから本当に私にとって葵はヒーローなの。...葵にヒーローなんて言ったら“そんなキャラじゃないよ。”って言われそうだけど。」
「そうだね。」
「でも、私を救ってくれたことは本当。葵がいるから今の私がいる。...感謝してるの。」
そう言いながらペラペラとめくっていたノートは最後のページになった。
そこは今までのようにカラフルではないけど、何度も消しゴムで消しながら書き直した跡が見てとれた。
先間がそのページに目をやっていることに気づいた香織は、少しだけ躊躇しながらも言った。
「こんな私だから、多分今回も葵が悩んでるのは私のせいだと思ったから、その原因を全部書き出そうとしたのよ。...でもやっぱり一人じゃ難しくて、何回も書いては消してを繰り返したんだけどね。」
「うん。」
「でも一応自分の中ではまとまったから、今日葵と話そうと思ったんだけど...うまくいかなくて。結果こうなっちゃったのよ。」
香織はそう言いながら、自分の体を見て自虐的に笑った。
しかし先間はそんなことないよ、というように緩やかに首を振ると、そんな香織をまだ静かに見続けていた。
その視線を避けるように香織はノートをパタリと閉じると、無理した明るい声色で言った。
「でも、今回は私役立たずだったけど、豊島にお願いしたし!葵も豊島のこと好きだから、きっとうまく...。」
「それ、七瀬さんにはすべて伝えたの?」
香織の言葉を遮るように先間が言った。
香織は「え?」と呟くと、困惑した顔をした。
「伝えるもなにも豊島にお願いしたのは...」
「違うよ。そっちじゃなくて、七瀬さんに救われた話。ちゃんと感謝してるって伝えた?」
先間の言葉を聞き、香織は狼狽えた。
「え、別にそれっぽいことは言った気がするようなしないような...。」
「よし、言いに行こう!」
「うぇ!?」
もごもごと喋る香織が言い終わらないうちに、先間が急に立ち上がると大きな声で言った。
予想外の宣言に香織はあたふたとする。
「いや、だって私じゃ役に立てないし...たぶん葵も豊島に話を聞いてもらった方が...。」
「朝霧さんってホント見る目無いよね。」
「な、なによ!」
まさかの先間の暴言に思わず香織は声を荒げた。しかし、その振動が体に響き顔をしかめる。
そんな香織を見ながら、先間はやれやれといった様子で首を振りながら言った。
「彰人なんてね、顔が良くて頭が良くて運動神経が良いだけのそれだけの男だよ?...あと、多少ゲームセンスも良い。」
「ゲームセンス...?」
「それは置いておいて...つまりは、七瀬さんを助けるのに力不足ってこと!」
先間はそう言い切ると、香織の目を見た。
そして、力強く言った。
「それはやっぱり、朝霧さんだけの役目だよ。」
「...でも、私なんかじゃ。」
「もう優柔不断だな!じゃあ、二択でいいや。」
そう言うと先間は指を二本立て、香織の目の前に持っていった。
「一つがこのまま彰人に任せて、奇跡的に七瀬さんの悩みが改善するパターン。」
そう言いながら先間が指を一本閉じた。
「もう一つが、もう一度しっかり七瀬さんと話して、今朝霧さんが思っていることをきちんと打ち明けるパターン。」
そう言ってもう一本の指も閉じた。
さあどっち、と言いたげた顔でこちらを見てくる先間に、香織は言う。
「後者のパターンでは、葵の悩みが改善するって言ってないけど?」
「それは朝霧さん次第だから。」
なんてことのない顔でそう言う先間に、香織は思わず苦笑する。
そして大きく息を吸い、そして吐くと言った。
「後者ね。」
その返答を聞いた先間はにやりと笑うと、「決まりだね。」と言った。
そして「善は急げだ。」と言うと、香織の鞄を肩にかけた。
「ただ、少し歩くことになるけど朝霧さん体大丈夫?」
「今更なこと言わないでよ。...別に走ったりしなかったら、問題ないわ。」
そう言いながら上半身を起こし、ベッドから降りかけた香織だったが、そこで動きを止めた。
そして、ふと気づいたように先間に向かって言った。
「でも、さっきしばらくは安静にしておいてって保健室の先生から言われたけど、これ学校から出ようとしたら見つかって連れ戻されるんじゃない?」
それを聞いた先間は振り返ると、どや顔で言った。
「漫画やゲームを見つからなように校内に持ち込んだり、持ち出したりする用の裏ルートがあるんだ。任せといて。」