第百七話 葵の告白 前編
聞こえたのは連続したくぐもった衝撃音と、その直後に響いた悲鳴だった。
隣にいた先間が目を大きく見開き、彰人の方へと顔を向けた。そんな先間に彰人も頷き返すと音が聞こえた階段の方へと急いだ。
そして、慌てふためく生徒の隙間から階段の踊り場を見上げた時、その目に飛び込んできたのは香織がぐったりと倒れている姿だった。
「朝霧さん!」
「朝霧!」
彰人と先間は名前を叫ぶと、生徒をかき分け走った。
彰人はその長い脚で、階段を数段飛ばししながら駆けつける。そして香織の横にしゃがみ込むと、魔法を目に纏わせ容態を確認した。
そのすぐ後から彰人を追ってきた先間が踊り場にたどり着くと、息を整えながら彰人に声をかけた。
「あ、朝霧さんはっ!」
「大丈夫だ。幸い頭など重要な部分を強く打ち付けて無いようだ。」
彰人は冷静に返答をする。
それと同時に香織の頭がピクリと動き、小さな声で「痛ったぁ...。」と呟いた。
「朝霧さん!だ、大丈夫!?」
「...足が痛いわ。」
動転しながら話しかける先間に、香織は小さな声で返答をする。
しかし彰人が言った通り、頭は打ってないのだろう。意識はしっかりしているようだった。
「ふむ。足は捻挫だな。軽くはないが、安静にしていれば問題はない。あとは数か所の打撲か。」
「ふん...なによそれ...。医者の真似事?」
彰人の冷静な診断を聞きながら、香織はそう返した。
いつも通りの返答に、それを聞いた先間もようやくホッと安心をする。
「ちょっと今保健室の先生を呼んでくるね。階段を踏み外しちゃったの?」
「まあ、そうね。」
先間の問いに香織は軽く頷きながら言った。
それを聞いた先間は心配そうな顔をしたまま「わかったよ。」と頷くと、小走りで保健室へと向かった。
それを見送った彰人と香織だったが、香織はその直後、彰人が今自分の背を支えていることに気が付くと焦ったような素振りを見せた。
「ちょっとやめて。手を離して。」
「何を言っておる。」
「いいからセクハラで大きな声出すわよ。」
「はあ...今以上に声を張れないくせに、嘘を吐くな。」
呆れたような声で彰人はそう言うが、それでも香織は身を捩らせ、彰人の手から逃れようとする。
魔法による診察で頭にダメージがないことはわかっているが、それでも怪我人には変わりない。
流石にその場に寝かせる訳にもいかず、彰人は「少し待て。」というと香織を抱き上げた。
「ちょっ!」
思わず大きな声を出してしまった香織は、その振動が打撲した個所に響き、顔をしかめた。
彰人はそんな香織の様子も意に介さず、抱えたまま壁際まで歩くと、壁に背を付け座れるようにして、香織をその場に降ろした。
「これで良いか?」
「...いいわ。」
そう言いながらふて腐れたような顔をする香織に、彰人は少し間をあけた後、尋ねた。
「何があった?」
「...だから階段を踏み外して。」
「そのような嘘を吐くな。...七瀬か?」
チラリと目を見ながら彰人が告げた言葉に、香織は大きく息を呑んだ。
そして頭を振りかけ、諦めたように項垂れる。
「...なんでよ。なんでこんな。」
「すまなかった。お主たちの間に何かが起こっていることは分かっていた。しかし、それを放置した。当人たちの問題は、当人たちで解決するのが良いと判断したからだ。」
すこで彰人は一度言葉を切り、目の前で座る香織を見た。
強がってはいるが、身体の節々が痛いはずだ、更に捻挫している足首は、赤く腫れあがってきている。
彰人は一瞬目を閉じると、深く後悔したような声色で言った。
「しかし結果...怪我人が出た。これは我にも非がある。」
それを聞いた香織は思わず「違う。」と言いかけ、彰人を見上げた。
確かに葵が何に苦しんでいるのか、分からなかった。
でも、私と葵の仲なら絶対きちんと話し合えば解決できる自信があった。
だから、他の人が責任を感じる必要はない。
そんなことを思いながら彰人と目があった瞬間、先ほど葵が言った言葉が頭をよぎった。
“豊島君に勉強教えてもらえば?”
(あんな葵の顔...初めて見たわ。もし私自身が葵の負担になってるなら...。)
そう考えた香織は少しだけ逡巡したのち、未だに何かを考えるように口を閉ざしている彰人に向かって声をかけた。
「ねえ、豊島。」
「なんだ?」
彰人の返答を聞いた香織は、一度ギュッと口を結び、それから言った。
「葵の元に行ってあげて。」
「...それはどういう。」
「言葉通りよ。...葵の悩みはいつだって私が解決しようと思ってた。でも、もし私自身が悩む原因なら、行っても駄目じゃない。だから、あんたが行ってあげて。」
そう言いながら香織はずっと目をそらさず彰人を見続けていた。彰人もそんな香織を冷静な目で見返した。
今の香織の言葉は、消して軽いものではない。
おそらく自分の心を痛めながらも、苦渋の決断の末、彰人に託した言葉だ。
彰人はしばらく考えていたが、やがて小さく頷いた。
それを見た香織の瞳が、少しだけ揺れた。しかしそれを悟られないよう、口の中だけで「頼んだわよ。」と呟くと俯き、地面に目を向けた。
「先生呼んできた!」
その時、後ろからそう言いながら先間が戻ってきた。そのすぐ後ろには保健室の先生もいた。
先生は「ちょっとごめんね。」と言いながら、彰人と場所を変わるとその場にしゃがみ込み、香織に何かを話し始めた。
その様子を心配そうに見つめる先間の方を向くと、彰人は言った。
「先間は朝霧に付いてやっていてくれ。」
「それはいいけど...彰人は?」
先間は一度頷いた後、彰人を見た。
彰人はその場で一度目を閉じると「そこか。」と呟いた。それから、ゆっくりと目を開いたのち、ある一点の方向を見ながら言った。
「我は行くところがある。」
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そこはいつの日か、彰人と先間が共にヤクザの手から逃れるため逃げ込んだ倉庫街だった。
その一角、現在どの業者も使用しておらず、昼間でも閑散としている倉庫の中で葵は膝を抱えて座り込んでいた。
倉庫の扉も締め切られ、辺りは暗闇だった。遠くからは働く人の声が微かに聞こえてはいたが、今の葵の耳には入っていなかった。
まるで自分の中にある黒いもやもやが具現化したようなこの場所で、葵は暗澹とした気持ちに呑まれるようにじっと座っていた。
「七瀬。」
その声は暗い倉庫の中に反響して響いた。
葵はその声は驚くのではなく、どちらかといえば(やっぱりそうか。)という気分であった。
「七瀬。」
再び自分を呼ぶ声に、葵は顔を上げた。
そこでは倉庫の側面にある扉を開き、こちらへと目を向けている彰人の姿があった。
「...豊島君。」
葵が小さな声で名を呼ぶと、彰人は扉を開いたまま、葵の方へ足を進めた。
そして隣まで来るとその場にしゃがみ込んだ。
「朝霧は無事だ。」
彰人の言った言葉に、張り詰めていたようだった葵の表情が少しだけ和らいだ。
そして「良かった。」と呟いた後、また地面に目を向けた。
「...香織から聞いた?」
「階段から落ちた原因か?」
「そう。」
地面を見たまま淡々と話す葵に、彰人も特に葵の方を見るわけではなく、正面を向いたまま会話を続ける。
「詳しくは聞いておらぬ。だが、お主と何かがあったのだろう?それは分かった。」
「わざとじゃなかったの。掴まれた腕を咄嗟に振りほどこうとしただけ。...本当なの。」
俯いたままぽつりぽつりと語る話を聞いて、彰人は階段で何が起こったのかを察した。
もちろんこれは事故だ。お互いの想いがすれ違った結果起きてしまった事故。
しかし、もちろん葵自身へかかる重圧は、事故という言葉だけで済ませられるものではなかった。
「私、最近変で...毎日うまく考えがまとまらなくて...。周りに対してネガティブなことばかり考えちゃうから、一人になろうとしたの。でもその結果、大事な友達を傷つけて。」
葵は手を顔に持っていくと、小さな声で「こんなはずじゃなかったのに。」と呟いた。
その後、葵の方から嗚咽が聞こえ始めた。
「今回の事故は朝霧と七瀬もが、互いを守ろうとした結果だ。誰が悪いわけでもない。その証拠に、朝霧は今でもお主と仲直りしたがっておる。」
彰人がそう言った瞬間、葵の方から聞こえていた嗚咽が止まった。
しかし、それは決して良い意味ではなかった。なぜなら、直後聞こえた葵の声はその前よりも暗く沈んでいたからだ。
「知ってる。香織の事は私が一番知ってるもん。階段から突き落とされたことを怒ってもないし、なんなら自分の事より私の事を心配してるんでしょ?」
「...そうだ。」
「でも、私は私を許せない。」
彰人の言葉を遮るようにして言った葵の言葉に、思わず彰人は口を閉ざした。
そして事故とはいえ香織を傷つけてしまった葵は、ついに今まで抑え続けていた心の声を吐露し始めた。
「自分の中の想いを、自分のした行いを、私は許せない。でも、そんな醜い矛先を向けた先の相手は怒ってないんでしょ?なんなら、それを向けられた原因が自分にあると思っている...じゃあ、私はどうすればいいの?」
「だって罪がなければ、罰も生まれないでしょ。でも罪を罪だと認める人がいないと、私の中にある耐えがたい罪の意識は誰が裁いてくれるの。」
「誰が...私の罪を認めてくれるの。」
堰を知ったように喋る葵のその声は、何かに怯えるように小さく震えていた。