第百三話 波乱万丈の体育祭 その13
その攻防は本来なら香織側が圧倒的に有利なはずだった。
それは単純に、香織と葵の身体能力の差だ。
日ごろから活発に動きバドミントン部でも体を酷使している香織と、日ごろからおっとりとした性格で運動部にも所属していない葵との間に存在する差は覆しようのないものだ。
しかし、それもお互いが万全の状態で対峙したらという話だ。
「うわ!」
バランスを崩す香織は、自分に向かって伸ばされた葵の腕を間一髪で躱す。
その原因は、香織を支える3人の生徒の体力が限界を迎えたことにあった。
そもそもで限界が近かったのだが、先ほどの3組との攻防でついに全員の体力が底をついていたのだ。
それに対して、葵のグループは軽快な動きを見せる。
それはもちろん、今の今まで戦闘に参加していないこともある。しかしそれに加え、実は葵のグループは下の生徒へ動き方の指示を出せるよう、事前に決めていたいくつかの合図があった。
それを葵が駆使し、下で自分を支える生徒たちに的確に指示を出すことによって、危なげない陣取りを常に取れていたのだった。
(それでも...ここまで攻撃の手が止まらないのは、流石香織だよ。)
葵が心の中でそう呟く。それほどまでに、本来とてつもなく不利な状態にいるはずの香織だったが、自らの身体能力を活かし、葵に攻撃を仕掛け続けていた。
しかし、その腕は葵にことごとく避けられ、時には振り払われる。
香織は再度攻撃を仕掛けながら、叫んだ。
「葵!あんた隠れて体鍛えたわね!」
「なんかその言い方嫌っ!」
香織の腕を再度叩き落しながら、葵はそう答えた。
実際、夏休みに彰人たちと別荘に遊びに行く予定が入って以来、葵は定期的に運動をしていた。それはもちろん、海に入る時の水着姿を想定してではあったのだが...。
しかし、最初にも告げた通り、香織と葵の運動能力の差は歴然としている。
葵が運動を始めたからといって、簡単に埋められるような差ではないのだ。
では、なぜここまで香織の動きに葵が対応できるのかというと、全ては葵の脳内で高速にはじき出される計算によるものだった。
(さっき、香織は右手に払うように攻撃してきた。だから、次は左手で同じように攻撃してくるはず。でもさっき右手の攻撃は私が叩き落した。だから、同じ防ぎ方をすると、学習能力の高い香織は必ずそれを躱して、攻撃してくる。だから次の攻撃は...体を傾けて躱す!)
葵はそう考えながら、自分に向かって払われるように飛んでくる香織の左腕を躱した。
(でも、香織の運動神経ならここから更に左手を戻すようにして攻撃してくる。だから、先に私が右腕を突き出し攻撃することで、その軌道を防ぐことができる!)
香織は一度振り払った左手を、葵が上半身を戻すのに合わせて再度逆側から振り払うように攻撃を仕掛けようとした。
しかし、葵がその隙間を縫うように右手を伸ばしたのを見て小さく舌打ちをし、攻撃を仕掛けようとしたその手で、葵の右腕を振り払った。
「あぁ!うまくいかないわね!」
香織はなかなか自分の思い通りに攻撃ができない現状に、頭をぶんぶんと振る。
その姿を葵は涼しい顔をしながら見ていたが、内心は焦っていた。
(今のところ帽子に触れられてもいないけど...こんなの長くは続かないよね。特にさっき3組を撃退した香織の動きを見ちゃってるし...。)
今までは葵の想定内で香織が動いているため、対応ができている。
しかし、先ほど香織が【紅】チームの3組を倒したこと自体が想定外だ。つまり、このまま香織が葵の想定内で居続ける保証はどこにもない。
(また覚醒される前に早く帽子を取らなきゃ。)
葵はそう心に決め、仕掛けることにした。
葵は事前に決めていた手による合図で、下の生徒たちにある指示を出す。その指示を受け取った生徒たちは半歩後ろに下がった。
それを見た香織は「前!」と叫び、こちらに詰め寄ってくる。
(そうするよね。)
葵は想定通りの動きをする香織を見て、冷静に判断をする。
そして、更に半歩下がるように指示を出した。
「やぁああ!」
香織がそう叫びながら手を伸ばしてくる。
その腕がまだ伸びきっていないのを見た葵は、冷静にその腕を躱すとさらに下がる指示を出した。
それが何度か繰り返される。
香織が何度も攻撃を仕掛け、それを葵が躱す。
そして4度目だった。香織が攻撃を仕掛けた腕はまっすぐに伸びきっていた。
(今!)
その瞬間、葵は軽く上半身を後ろに傾けながらも、香織に向かって腕を伸ばす。
そう、運動能力では大きな差がある香織と葵だが、この騎馬戦にいて大きなアドバンテージを葵は持っていた。
それは、すでに言ったが1つ目がグループの疲労の差。2つ目が事前に決めていた指示の差。
そして最後、決定的な違いがあった。
それは...リーチの差。
身長が異なる香織と葵では、もちろんその腕の長さも差が出る。
そのため、香織の腕が一直線に伸びる範囲は、つまり葵が一方的に攻撃を仕掛けることのできる範囲なのだった。
先ほどまで後退を続けていた葵から、急に伸ばされた手を見て、香織の目が見開かれる。
しかし、互いの手と頭の距離を葵は目測で冷静に図る。
(香織の手は私に届かない。でも、私の手はギリギリ香織の帽子に届く!)
しかし次の瞬間、交差する腕を見た香織が伸ばしていた手を折り曲げた。
その時香織の腕の外側にいた葵の手は、香織の折り曲げた肘に押し出されるようにして腕が開いていく。
これで先ほどまで勝負を決定づけるかに見えていた、腕と頭までの直線距離の差は意味を持たなくなった。
もちろんそんなことに香織が気づいていたわけではない。
ただ、本能で腕を折り曲げ、葵の攻撃を防いだのだった。
(この距離は不味いわ!いったん下がって...。)
瞬時にそう考えた香織は、葵の姿を目に入れながら撤退をしようとした。
しかし何度も言うが、意図のない撤退は敗北の証なのだ。
「計算通り。」
葵がそう呟く。
その声は香織には届かない。なぜなら香織の意識はある一点に集中していたからだ。
(なんで...葵の左手が視界に入らないの。)
そう、まっすぐに葵を見る香織の視界の中から、葵の左手が消えていた。
つまり今、葵の左手は香織の視界の外にあるというわけだ。
(これで終わり!)
大きく伸ばした左手を香織の帽子に向かって振り払うように動かしながら、葵は心の中で叫ぶ。
先ほど、手を伸ばしあっていたのは葵の最後のブラフ。
つまり、リーチの差を活かし直線的な攻撃を仕掛けたのは、あえて香織の意識をその攻撃に向けるためだった。
そして葵は想定していた。この攻撃すら香織は何かしらの動きで防いでくるだろうと。
だからこそ、本命は右手を伸ばすと同時に横に広げたこの左腕。
持ち前の運動神経を活かし、右手の攻撃を防ぐ香織であっても、その瞬間だけは必ず葵の右手に全神経を集中しているはずだ。
その瞬間、香織の視覚外にいる左手を振り払い、認識の外から帽子を奪い取る。
それが葵の作戦だった。
(私の...勝ち!)
自分の右手が香織の帽子に向かって進んでいく。
しかし、香織は目を見開いたまま葵を見ており、完全に葵の左手は認識できていない。
葵は勝利を確認した。
その時だった。
「朝霧。勝て。」
極度の集中の中、今まで雑音が一切聞こえていなかった葵の耳に、その声は飛び込んできた。
心臓が、大きく跳ねた。