第百話 波乱万丈の体育祭 その10
その時、運動場はその日一番の緊張感に包まれていた。
全生徒が顔をこわばらせ、じっとその時を待っていた。その静けさはまさに嵐の前の静けさだった。誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。
次の瞬間、マイクのスイッチを付けたことを知らせる小さなノイズが響いた。
「それではこれから毎年恒例、かつ目玉競技である『騎馬戦』を開始いたします!」
アナウンスが戦いの始まりを告げ、全生徒が呼応するように雄たけびを上げた。
それを聞きながら彰人は横から目線を感じ、そちらを見た。そこには目をぎらつけせ血を滾らせている香織の姿があった。
目があった香織はそのままゆっくりと口を開き(わかっているわよね?)と口パクで告げた。
彰人は軽く頷きそれに答える。そして、この騎馬戦が始まる少し前の出来事を思い返していた。
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「これがどういうことか、答えれる人はいるか?」
場所は【白】チームの全学年の生徒が集まる、大きなテントの中だった。
前方に立つ名前も知らぬ3年生の男子生徒が、ゆっくりと周りの生徒たちを見回しながらそう言った。
その瞬間、彰人右斜め前方辺りで、ピッと手が上がった。
「君。」
3年生の男子生徒から指名を受けた香織は、その場で立ち上がるとすっと息を吸い込み言った。
「男子と女子。ともに勝たないと駄目です!」
「Exactly!」
3年生の男子生徒は完璧な発音でそう答える。
それを聞いた先間が、隣から小声で「どういう意味?」と聞いてきたので、彰人は「あなたの答えは一言一句正しい。という意味だ。」と教えた。
しかし、なるほどと頷く先間には気づかない様子で、3年生の男子生徒は言葉を続ける。
「今、我々【白】チームの点数が260点なのに対して、【紅】チームの点数は300点。40点差だ。しかし、この後に控える騎馬戦。その競技で勝利した時に得られる点数は...君。」
3年生の男子生徒から指名をされた2年生の女子生徒は、一度咳ばらいをするとはっきりと答えた。
「男子、女子。ともに25点です。」
「Exactly!」
また3年生の男子生徒は完璧な発音でそう答える。
隣で先間が「あなたの答えは一言一句正しい。」と呟いたので、彰人も「Exactly。」と返した。
しかし、そんな英語の授業が行われていることなど知る由もない3年生の男子生徒は、徐々にボルテージを上げながら話を続ける。
「つまり!男子と女子が勝利すれば、得られる点数は合計50点。そうすれば互いのチームの点数は【白】チームが310点。【紅】チームが300点。最後の最後で我々【白】チームの大逆転というわけだ!」
段々と上がっていくテンションに呼応するように、周りの生徒も立ち上がり始める。
彰人はチラリと右前方を見た。そこにはいの一番に立ち上がり、気合十分と言った様子の香織がいた。
それを見た彰人は先間と目を合わせ、肩を竦めると2人で立ち上がった。
「条件はそろってる!空には雲一つなく、点差は僅差。そして心通ったチームの仲間たち。」
そこまで喋った3年生の男子生徒は一息をつくと、全員が立ち上がった周りの生徒たちを再度見回した。
そして一度大きく頷くと、拳を突き上げながら叫んだ。
「【白】チーム!勝つのは俺たちだ!」
それに応えるようにみんなの拳も突き上がり、声が重なった。
「「「Exactly!」」」」
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体育祭最終競技であり、目玉競技でもある騎馬戦は、紅白チームの全員、つまり全生徒が参加して行われる。
もちろん、男女が混同していると怪我の危険性もあるため、チーム分けとしてはこうだ。
【紅】チーム内の全男子vs【白】チーム内の全男子
【紅】チーム内の全女子vs【白】チーム内の全女子
これだけだ。つまり各チームで学年は関係なくごちゃ混ぜになっている。
1グループは4人。つまり下で3人が、上の1人を支えている最も一般的な組み方だ。
このグループ自体は誰と組んでもいい。同じ学年同士でも良ければ、学年が混ざっててもいい。しかし、やはり例年息もあっている同じ学年同士で組むことの方が多かった。
ただし、そうなってくると体格に大きな差が出る、高校1年生のグループと3年生のグループでは、その戦闘力にも大きな差が出てしまう。
そのため、基本騎馬戦が始まって最初の方は同じ学年同士のグループで戦いが勃発する。
その中で勝ち残ってきたグループが、最後学年関係なしに帽子を取り合い、最後まで残ったグループ側のチームが勝利という流れが毎年の恒例となっていた。
しかし、もちろんそれはただ恒例というだけの話だ。ルールではない。
つまり、年齢というアドバンテージを覆す存在がいれば、イレギュラーな事態は起こりえるということだった。
「君、豊島君だよね?」
「む?」
騎馬戦が始まり人でごった返す中、後方からかけられた声に彰人は振り向いた。
そこでは3年生のグループが1組、じっとこちらを見ていた。その頭には赤い帽子を被っている。
「そうだ。」
彰人は敵ということを認識した後、頷き答えた。
それを聞いた相手グループの上に乗っている生徒は、彰人の目を見ると喋り始めた。
「セオリーで言えば、俺ら3年が急に1年を狙うのは大人げないと言われても仕方ない。しかし、入学した当初からまことしやかに囁かれている噂があった。...『今年入学した1年の中に一人とんでもない逸材がいる。』というものだ。...その生徒の名前は『豊島』。」
彰人は腕を組み、じっとその話を聞いていた。
相手の生徒も彰人がなんの反応も示さないことを見て、更に話を続ける。
「もちろん俺だって最初は気にしていなかった。たかが噂だ。噂というものは少なからず誇張されて伝わるものだ。『まあ、少し変わった子が入学してきたのかな。』それくらいに思っていた。...しかし!」
そこで急に相手の生徒は声を張り合上げると、キッと眉を上げた。
「この体育祭を見ていて、俺の認識が甘かったことを知った。豊島、君は早々に倒しておくべきだ。そこには学年や体格と言った要素は関係ない。純粋に危険性の問題があるだけだ。だから...」
「もう良い。」
熱弁を振るう相手の生徒だったが、その流れを叩き切るように彰人が鋭く口をはさんだ。
その言葉が持つ圧のようなものに、相手の口は思わず止まる。
それを見て腕を組んだままの彰人は告げた。
「冗長だ。戦いの最中にそう長く話すものではない。...しかし、そのようなことお主たちもわかっているはずだ。今のお主の話はあまりにも長すぎる。そうだろう?」
彰人の言葉は騒がしい騎馬戦の最中、不自然な程静かに響く。
「...まるで我の気を引きたいようだ。」
彰人が片方の眉を上げながらそう告げた時、相手の生徒の顔に動揺が走った。
そして目線が軽く揺れた。
その瞬間、彰人の後方から足音とともに「もらった!」という声が響いた。
そう、これは奇襲攻撃だった。
今彰人の目の前で喋っているグループが囮役。その囮役のグループが彰人に話しかけ気を引いている最中に、後方から攻撃役のグループが静かに近づき、ここぞというタイミングで帽子を掠めとる。
そのような作戦だった。
本来なら3年生のグループが1年生のグループを倒すのに、こんな卑怯な手を用いることは無い。
しかしこの体育祭でひと際目立つ活躍を見せる彰人を見て、急きょ練り上げた対彰人用の作戦だった。
しかし、実際は途中で彰人に口を挟まれ、囮役の生徒の話は中断された。
しかし、その時後方から近付いていた攻撃役のグループはかなり近くまで寄れていたのだ。だからこそ、本来よりも少し早いタイミングではあったが、囮役のグループから目くばせで攻撃の合図が出た瞬間、思い切って攻撃役の生徒は手を伸ばしたのだった。
そしてその手は彰人が被る帽子の方に一直線に伸び、その瞬間まで彰人は振り返らなかった。
だからこそ攻撃役の生徒は勝利を確信し「もらった!」と叫んだのだ。
「くだらぬ。」
しかし、返ってきたのはその言葉と、目の前から彰人の姿が掻き消えた光景だった。
「え?」
攻撃役の生徒は突如見失った彰人の姿に、伸ばしていた手が空中を掴んだ。
そして下で支える生徒たちも思わずたたらを踏んだ。
(ど、どうなって...。)
攻撃役の生徒が混乱しかけた時、その後ろから彰人の声が聞こえた。
「ありきたりな奇襲だ。奇をてらったものでもなければ、美しくもない。この程度の策であれば、100回仕掛けられようが、我には届かぬ。」
散々な言われようだった。
攻撃役の生徒は、悔しさに歯を食いしばると、下で自分を支えている同じグループの生徒に向かって指示を飛ばす。
「反転だ!真っ正面から帽子を奪うぞ!」
「おう!」
下の生徒たちはその声に答え、勢いよく体の向きを変えた。
そして攻撃役の生徒は、後ろに立つ彰人を再び視界にいれることができた。しかし...なぜか彰人はこちらを見ていなかった。
その様子を見た攻撃役の生徒は、思わず叫ぶ。
「なによそ見してやがる!」
「ま、待て。」
しかしその声にストップをかけたのは、まさかの仲間だった。
先ほどまで囮役をしていた生徒だ。
「なんだ!奇襲攻撃はミスったが、別に普通にしかければいいだろう!」
「ちがう...違うんだ。もう駄目なんだ。」
なぜか弱気な言葉を繰り返す囮役の生徒に、攻撃役の生徒は憤りを感じ、振り向きながら叫んだ。
「何が駄目なんだよ!」
しかし振り返った先で攻撃役の生徒が見たのは、震える手でこちらの頭を指さす囮役の生徒の姿だった。
「だって...帽子が。」
「え?」
その声に攻撃役の生徒は思わず自分の頭に手をやる。
(そんなはずは...だってなんの感触も。俺が手を伸ばして、相手の姿が消えただけだ。俺の帽子に相手が手を伸ばすタイミングなんてなかったはず...。)
しかしそんな考えも虚しく、攻撃役の生徒の手が触れたのは帽子ではなく、確かに自身の髪の毛だった。
「そんな...!」
攻撃役の生徒は絶句し、再度彰人の方を見た。その手には確かに帽子が一つ握られていた。
それを見て肩を落とす攻撃役の生徒だったが、その隣に囮役の生徒が並ぶと、彰人に指を突き付け喋り始めた。
「確かに俺たちの奇襲作戦は気づかれてたようだ!さすがと言わざるを得ない!しかし、俺らだって3年生。最後の体育祭だ。ここで簡単にあきらめるわけには...。」
「だから、もう良い。」
再度、彰人が告げた。
「同じことを何度も言わすでない。この作戦は奇をてらったものでもなければ、美しくもない。それは先ほどの奇襲だけを指すのではない。」
彰人のその言葉を聞いた囮役の生徒は、今度こそ顔が青ざめた。
しかし彰人はそんなことを気にもせず、周りの何か所かを指で指しながら言った。
「奇襲攻撃が不発に終わった場合、次は数で攻める作戦だろう?だからそのあたりにいるグループは、タイミングを合わせて我の元に突っ込めるように待ち構えておる。...ふん、稚拙だ。」
そしてそこまで言った彰人は「もう一度言う。」と声を張り上げた。
「どうせこのような作戦は100回やろうが我には届かぬ。...だからこそ、潔く散れ。」
その瞬間、囮役の生徒を含む、4グループ。先ほど彰人に指摘された通り、人ごみに紛れて彰人を狙っていた1~3年生のグループが4つ。一斉に彰人に向かって駆け出した。
それらの生徒は口々に「うぉぉおお」とか、「豊島食らえぇぇええ」とか、「俺の好きな女子がお前に気があるらしいんだ、イケメンには死を!」とか。
個人的な恨みも含んでいるようだったが、それぞれがあるものに導かれるように一斉に駆け出していた。
それはもちろん作戦などではない。その突撃に理性的な要素は何もなかった。
ただ純粋に目の前の脅威を排除する。そうような原始的な、根源的な本能が体を突き動かしていたのだった。
(そうだ。つまらぬ作戦など立てるだけ無駄だ。そのように本能のまま立ち向かう姿こそ美しい。)
自身に向かって四方八方から突っ込んでくるグループを見て、彰人はゆっくりと口角を上げた。
しかし、その時点でもこれから行われる“それ”は、もはや戦いとは呼べなくなっていた。
「さてと...仕方ないな。すぐに終わらせるとしよう。」
そう。これから行われる“それ”を、人は一方的な蹂躙と呼ぶのだった。