ハニーレイク1012号
夏の怪談に間に合わなかったクトゥルフ神話。
1
その話を聞いた時、私は思わず喜びで跳び上がりそうになった。
GOODニュースを持ってきてくれたのは、私が懇意にしている不動産業者で、その部門の中でも別荘関連を扱う人物だった。
中国系三世であるマイケル・ワン氏には以前からあることで相談をしていたのだが、正直ここまでいい話を持ってきてくれるとは思わなかった。
彼が私に紹介してくれたのは、サマーシーズンの貸別荘の話だ。
それも、あのハニーレイク保養地での貸別荘だ。
ハニーレイクについてはいちいち説明するまでもないと思うが、自然豊かでサマーキャンプの施設も併設された歴史ある素晴らしい高級保養地だ。近郊はもちろん、遠方から多くの著名人が訪れたことからも、その素晴らしさを伝えることができると思う。
私が子供の頃、このハニーレイクに併設されたサマーキャンプのベースを利用したことがあり、その素晴らしさを体験したことがきっかけで、私は暇さえあれば写真などを眺めて是非ともここに別荘を構えたいと思っていた。
しかし、やはり歴史ある高級な場所であるが故に値段が大きな壁になっていた。
ならばせめて一シーズンでも借りることはできないかと相談していたのがワン氏の会社だった。
しかし、正直に言えばそれでも難しい条件だろうと思っていた。
サマーキャンプのベースもあるとはいえ、高級保養地という区画はそうそう入ることができない。
そもそも、本来は一シーズンだけのレンタルなど受け付けないような場所だ。
私もいくつも管理会社を探してはみたのだが、私にとって都合のいい物件は全く存在しなかった。
売りに出された別荘の値段は、私の年収の数倍もするので諦めるしかない。
そんな状況だったのだが、今年のサマーシーズンが控えた六月の中頃にワン氏は朗報を入れてくれた。
実はハニーレイクの別荘地の中に、一軒だけレンタル用の別荘が存在するというのだ。
ただし、それはオーナー本人が管理しており、普通の会社には情報が下りてこないらしい。オーナーはすでに高齢で別荘に赴くことはできないが、利用する人間がいないのは問題なので、シーズン中の管理やメンテナンスを条件に格安で貸し出している、とのことだった。
今回、その別荘の借り手を探すことを委託された会社が他ならぬワン氏の会社だったのだ。
ワン氏は、そのGOODニュースを私に真っ先に持ってきてくれたのである。
場所や設備の説明を聞いたが、他の施設からやや離れた場所にあり、多少の利便性は欠けるものの車があれば全く問題無いレベルであり、別荘自体は五十年以上経過しているものの毎年のメンテナンスによってこちらも問題無いと伝えられた。もちろん、ワン氏の会社も鍵を預かる以上、確認をしていてプロの目から見ても貸し出すことは問題無いと判断したそうだ。
問題はレンタル料金だったのだが、これも驚くほど安い値段を提示された。
しかも、この料金の内訳は実はワン氏の会社に支払う仲介料が大半であるとのことだった。
こういういい方はアレだが、フロリダの遊園地に行って同じ時間過ごそうとすればこの十倍は支払うことになるだろう。
私は降って湧いたような幸運に舞い上がっていたということもあり、その契約に喜んでサインした。
この素晴らしいサプライズニュースは、きっと妻も喜ぶだろうと、私はこの時確信していた。
2
残念ながら、私の予想は大きく外れてしまった。
最初妻は、夏のバカンスに湖の保養地に行けると聞いて私の望んだとおり喜んでくれた。
しかし、その場所がハニーレイクだと聞いた瞬間、妻の表情は変化した。
その表情ときたら!
結婚して四年目である私が今まで見た事も無いような、恐怖と嫌悪を練り混ぜたかのような物だったのだ。
妻はこの話を白紙に戻すよう繰り返して私に訴えた。
しかし、どうしてこんないい話を白紙に戻すことができるだろう。
そもそも、この地方に住んでいながらハニーレイクのことを嫌う人間がいるなんて、私は想像したこともなかった。憧れはあっても、嫌悪するようなことはあるのだろうか。
もしかして、私と知り合う以前にハニーレイクで何か酷くマナーの悪い人物に出会ったのだろうか。バカンスシーズンにはそういうことがあっても不思議ではない。
そう訊ねてみると、妻はそうではないと首を横に振った。
しかしハニーレイクに行くことには賛成できない。自分はもちろん、私にも行ってほしくはない、とくりかえすばかりだった。
そのままではその夜に同じベッドを使うこともできそうになかったので、私はその話題を引っ込めることにした。
明くる日、私はワン氏と出会い、契約を解除できるかを訊ねた。
ハニーレイクでのバカンスはもちろん魅力的だが、それには妻と一緒に行くということが大前提だ。妻が反対する以上、私はこの件を諦めるしかなかった。
もちろん契約は解除できる、と彼は答えた。
ただ、その場合はできる限り早くしてもらわないとだめだ、とも教えてくれた。
この物件のオーナーは近隣では結構な不動産関連での人物であり、今回業務を任せてもらった以上、オーナーの希望に応える結果を出さなければ問題になるというのだ。
破格の条件がある代わりに委託された以上、必ず利用者を出さなければならないそうなのだ。
私に声がかかったのも、条件に対して理想的な相手だとワン氏が判断したからだ。
確かに私相手なら、こうしてキャンセルしてくるとは思わなかっただろう。
私に未練ありと見たのか、そこでワン氏は更に提案をしてきた。
貸し出しの期間は今シーズン一杯なのだから、今度の週末に貴方自身がまず貸別荘に出向いて下見をしてみたらどうか、と。なんなら試しに宿泊をしてみてもいいだろう。
キャンセルは月曜でも可能であり、下見をして細君の不安を取り除ければ良し。残念ながらそうではなかったら、僅かではあるけれどキャンセル料を頂くが、この件から手を引いて貰って構わない。
その提案は私にとってとても魅力的に聞こえた。
確かに下見は大事だ。こればかりは人任せにはできない。
何より私は指摘された通り未練を捨てきれていなかったし、妻の不安を取り除くというのも夫の役目である、と私は考えていた。
結局考え込んだのも一分程度で、私はワン氏の提案に乗り、週末に下見に行くことにした。
妻には詳細は打ち明けず、一泊だけ外泊すると伝えた。本格的にバカンスに行くわけではないのだから荷物は手提げ鞄一つだ。中身も、動画を撮影できるデジカメや、携帯食、マグライト程度。もしかしたら修理の為にDIYをするかもしれないが、工具などは備え付けがあるという。
こうして、私はハニーレイク貸別荘の下見旅行をすることになった。
……思い返せば、妻は正しかったのだ。
この時の私は確かに何かに目が眩んでいた。
3
ハニーレイク1012号。
それは確かに素晴らしい場所だった。
いや、そこは正直想像していた以上の素敵な物件だった。
写真や動画を見せてもらったが、それ以上の感動を私に与えてくれた。
ハニーレイクを取り囲む一帯のうち、他と遮断された別荘地の一番奥に位置している。
小高い丘の上に建てられていて、ハニーレイクの湖面を眺めることができるようになっていた。これは麻の空気の中で眺める事ができたら最高だろう。
湖までやや距離があるものの、散歩するには丁度いい距離だ。
当然、隣の別荘まで結構離れているが、これもプライバシーを大事にできると言える。
こういう高級別荘地と言うのは、そういうものだ。
キャンプベースだと集まった若者が騒いだりするが、こちらではそういう無粋なことはしない。
車は離れた駐車場に置く決まりになっている。しかし、電動カーをレンタルできるので荷物の運搬に心配はない。
別荘は丸木造りを基調としたレトロな印象を受ける外見で、二階建て。見た限りでは十人以上が泊まれる大きさだ。三世代でも利用できる。おそらく、建てたオーナーはそれだけの容量を必要とする大家族だったんだろう。湖を眺められる前庭には、景色を阻害しないような位置にバーベキュー設備が設置されている。
一応外を見回り、発電機を確認し、その他問題になりそうな部分を確認してみる。
設備に関しては、新しい物に交換している物もあるようだった。
壁も脆くなっている部分はないように見えた。
一つ、少しだけ気になったのは蜂蜜のような甘い香りが一瞬したことだ。
ミツバチが近くに巣を作っているのだろうか。ホーネットでなければ危険性は低いが、少なくとも建物の周囲や倉庫に蜂が巣を作っている形跡はなかった。蜂蜜の香りも散ってしまったのかすることはなかった。
気のせいだったのだろうか。
それとも、どこかに蜜蝋でも使った形跡があるのだろうか。
周囲を見て回った私は、燃料を入れて発電機を動かした後、いよいよ別荘の中に入ってみた。
預かった鍵で入り口を開けて中に入る。定期的な手入れがされているのだろう。こんな年季の入った建物なのにカビのような嫌な臭いはほとんどしない。それでも手近な窓を開けて換気をすることにした。
こちらも設備は新しい物に替えてあるようだった。
しかし、年季物、もしかしたらヴィンテージかもしれない暖炉があるなど、雰囲気はいい。
暖炉の煙突も大丈夫だ。この暖炉、昔は料理にも使っていたのではないかという部分が付属している。
暖炉の他にも石で組まれた壁など、歴史を感じさせる部分がある。
今は空っぽだがパントリーも大きく、長期滞在も十分可能だ。
きっと相当な資産家が建てたんだろう。築数十年。あるいはもっと昔からあったのではないかという感じさえ覚える。
基本寝室は吹き抜けの階段を上って二階にあるが、一階にも使用人用と思われる小さな寝室があった。
つまり、かつての利用者はここにお手伝いさんを連れて来ていたのだ。
今回は私たち夫婦だけという契約だったので、使用できる寝室は一つだけ。二階の一番いい部屋が用意されていた。他の寝室の寝具はベッドだけがあって使うことはできない。
もちろんこういう自然豊かな場所だ。間違って動物が入ってくることもあるかもしれない。その為、寝室は基本二階になっているのだろう。自衛用の銃器に関しても借りることは可能だし、申請すれば自前の物を持ち込める。所有証明等の手続きは必要だが。
電気に関しても問題は無かった。
ただ、TVは駄目だった。電波が悪いのか、置かれていたTVには何故か映らないのだ。どうやら楽しみにしていたTVドラマは諦めるしかない。
懸念するようなことは何もなかった。思いつくような部分には問題が無かったのだ。
妻があれほど嫌がったのは、きっと問題ある人物と出会ったためだろう。
夕食は持ち込んだ即席食品で済ませる。
私は帰ったら妻をもう一度説得してみようと思い、夜を迎えた。
4
酷い臭いに目が覚めた。
濁った甘い香りが漂う寝室。時間はまだ深夜一時を過ぎた頃だ。
外は夜だというのに明るい。月が出ているのだろうか。
とにかく私は部屋に電気を点けようと思ったが、電気が点かない。
発電機が止まっているのだ。十分に入れたはずのなのに燃料漏れでもあったのだろうか。
鞄からマグライトを取り出して部屋の外から漂う香の出所を探ることにした。
とてもではないが、こんな匂いの中朝まで寝られるとは思わなかったし、何よりもこの香りは異常、いや、異様だった。
マグライトの明かりを頼りに二階の廊下に出る。香りは一層強く、そして階下から流れていることに気が付いた。
まず私は窓を開けた。それからドアも開けた。換気扇が使えないので開けられる場所はすべて開けた。
光が差し込む。外はおかしなくらい明るい。
夜気を纏う涼しい空気が入り、籠っていた空気が徐々に入れ替わる。
なんということだろう。
この甘い臭いはやはり建物の中から発生している。
一体どこからなのか。この甘い臭いならば、やはりパントリーだろうか。
パントリーへの扉を開けた瞬間、私はまるで空気の塊にぶん殴られたかのような錯覚を覚えた。それほどまでにそこに籠っていた甘い濁った香りは強烈だった。
ここは空っぽだったはずだ。間違いなく確認した。
だが、もう一度確認しなくてはならない。
どうしてこんな喉を焼くような蜜の香りが漏れ出しているのか。
その理由を、私はすぐに知ることができた。
出入りする部屋以外に道がない筈のパントリーの奥。棚だと思っていた場所が僅かに動いていた。
そこには隠し部屋があった。
その先にあったのは、部屋と言うより洞穴のような壁。
穴倉は深く、降りる程、進む程に匂いはますます強烈になっていた。それは、まるで地上の空気がこの濃密な香りに入れ替わってしまったかと思う程息苦しい。
不思議な事に、湿気はほとんどない。湖の側の地下なら、もっと水気があってもおかしくないだろうに。
壁面を見ても乾いているようだった。
その時、何かを踏んだ。
それは、封筒入れだった。古く、色褪せている。湿気が無いので乾いていて、保存状態はそれなりに良さそうだった。
……なぜここにこんな物が落ちているのだろうか。
それは少なくとも数年前の物だった。封筒に数年前の日付が入っている。ちょうど今の時期の日付だ。
封筒の中には小さな手帳が入っていた。
中は気になったが、ここで読むのは難しいと思い、私は洞穴を下って行った。
そうして数分後。私はついに匂いの元に辿り着いた。
その場所は、地底湖だった。いや、おそらく湖の水が入り込んだ場所だ。
直径五メートル程度の水溜まり。臭いはそこから漂っていた。
そして、その前に人影があった。
……人ではない。確かに直立してはいたが、人の形ではなかった。
昆虫。人ほどの大きさのある昆虫のような外見の、冗談のような生き物がそこに数匹存在した。
日本の特撮ドラマに登場するかのような、しかし中に人が入っているようには見えない生き物。
連中はその水溜まりに何か壺のような物から液体を注いでいた。
その液体と、水溜まりから甘い濁った蜂蜜のような臭いが漂っているのだ。
窒息しそうなほど、の。
実際、私は息もできなかった。
悍ましい生き物を見てしまった私は、悲鳴をこらえて洞窟を駆け戻った。
パントリーに戻った私は、とにかく逃げようと扉を開けようとした。
……扉は開かなかった。
パントリーの扉は外から鍵をかける。
おそらく動物に入られないようにだろう。しかし、それは今私をこの場所に閉じ込める絶望の鍵になっていた。
……誰が? ここにいるのは私だけだ。隣の別荘まで距離があるし、そもそも今は夜だ。
誰かがここに来ることなんてあるのだろうか。
パントリーの中で何時間が経過しただろう。あと何日かすれば、きっと助けが来る。
幸い、怪物はこちらに来なかった。
妻は私がいなくなったことに慌てるだろうし、ワン氏はこの異変に気付いてここを探しに来るはずだ。
だが。それまで私は生き続けることが可能だろうか。
……私は持っていた封筒から手帳を取り出して、マグライトの明かりを頼りに中を開いて文字を必死に読む。
驚きべきことに、それは私と全く同じ体験をしてここに来た誰かの手記だった。
彼は何かを調べる為にここを訪れ、私と同じようにここに閉じ込められた。
この別荘が遥か古い時代に建てられたものであり、それはかつてこのハニーレイクを聖地として崇めていた人々がその祭壇を隠すためのものだったという。
もっとも夜の短い日。即ち夏至の日の夜に行われた蜜の儀式によって、彼らは神を崇める儀式を執り行った。
この手記の人物は、最後に一か八か、池から外に脱出すると記していた。
そして、もしここに閉じ込められた者がいるなら、その助けになるかもしれないと手帳を残していったらしい。
……私も決断しなければならなかった。
体力が残っている内に、ここから脱出する唯一の道を抜ける。
それは本当に酷く分の悪い賭けだった。
それでも私は決断した。池に飛び込み、湖まで抜ける。距離的にはそこまでではない。後は私の息が続くか、息継ぎができるかということだった。
私は池の場所まで戻った。幸い、そこにはもう連中は存在しなかった。何処に行ったのか。やはりここを抜けて外に出たのか。
先人同様に封筒を残し、私は池に飛び込んだ。
訓練している訳ではないが、それでも私の息はそれなりに続き、希望通りの水面に出た。
明るく開けた湖の湖面。
……いや、夜が明けたのではない。
湖を照らしているのは、有り得ないことに星だ。夜空よりも手前に輝く巨大な星だ。蜂の巣を思わせるような
私は見た。
蜜の匂いを漂わせる湖の湖面。その水面を飛び回る、あの昆虫人間たちの影を。
それはまるでその星、その神を称える祭日の踊りのようにも見えた。
5
妻は幼い日にハニーレイクで私と同じように、湖面を飛ぶ昆虫人間を見たのだという。
その光景がトラウマになり、しかしそんな悪夢じみたことを誰にも信じてもらえず、妻はハニーレイクを嫌悪するようになったらしい。
さて。
目下私は準備をしている。
もちろん、妻と共にハニーレイクに行くためだ。
すでに妻を車に乗せる準備は整っている。
あとは、彼女を乗せて儀式の夜に向かうだけだ。
先日のことは、あくまでも前夜祭。本当の祭日は、あの神の元に渡る為の儀式になる。
ハニーレイクは古からあの偉大な星、ハリ湖へと渡る為の祭壇なのだ。
私は、妻と共に神の元に還るのである。




