紫苑の花言葉
「行くんですか?」
僕は、夕飯を作るお姉さんの背中に話しかけた。ホテルからこの家に帰ってきてからの今まで、時間にすると約2時間お互いに、不自然に無言だった。空気が重く、口を開くのが怖い。もっと考えたい。お互いに、きっと、そんな気持ちだった。けど、いつまでも黙っているわけにはいかない。黙っていちゃいけない。しゃべらなくちゃいけない。だから……僕は再び声が震えそうになるのを抑えて聞いたのだ。
「……いや……行かないよ。私にはやはりそんな実力があるとは思えないし、それに……英語もできないからな」
お姉さんは苦笑して料理を進める。
「そう……ですか……」
「けど――――同じことを言われたな。……‘心を動かした’……か。うれしかったな……」
お姉さんは元々承認欲求が強いタイプだ。いや、お姉さんだけではない。アーティストになる人間は承認欲求の塊でしかない。しかも、今回は本場で活躍しているアーティストに褒められ、一緒に仕事をしようとまで言われたのだ。それが……嬉しくないはずがない。そうだ、うれしくないわけがないのだ……。
「それに、君一人にするわけにはいかないだろ? 私がいなきゃ、台所が綺麗なままだ」
ああ、そうだ……と、同時に思い出した。この人は、とてもさみしがり屋なんだ……。だから、きっと、今ここに一緒にいる僕が背中を押さないと、この人は行かない。ここにいて欲しい。けど、それはだめだ。お姉さんは、こんなところにいていい人じゃない!
「お姉さん、出て行ってください……」
料理を運んできたお姉さんに、僕は言う。お姉さんは驚き、唐揚げを落としたが、そんなことはどうだっていい。
「え……?」
「僕の両親、実はちょっと有名な音楽家なんです。そして、当然息子である僕もその業界の人たちからは期待させていて……音楽関係の英才教育を受けさせられました。けど……僕には才能は有りませんでした。趣味の作曲も正直逃げだったんです。音楽自体は好きなので」
「待ってくれ、なんで急にそのような話を――――」
訳が分からないと、少し取り乱した様子のお姉さん。けど、僕はしゃべることをやめない。
「だから、才能がある。才能を持っているお姉さんが、近くにいることが、苦痛になったんです。生きづらいんです。昔、演奏会で僕より上の成績をとっている子たちと、明らかにがっかりする両親を思い出して辛いんです。だから……僕はあなたと一緒にいたくないんです。それに――――才能があるならそれを生かすべきです」
半分本当の、半分嘘。僕は確かに子供のころに才能を持つ子供たち。そして、両親の期待にと失望に怯えて生きてきた。しかし、現在は作曲という新たな道を見つけたので、それについてはもう、何も思い返すことはない。いや、両親をがっかりさせてしまったのには申し訳ないし、それで気まずくはなっていたが、今思うと、僕が勝手に後ろめたく思ってしまっただけで、両親は気にしておらず、寧ろ、僕が作曲をしたいと言った時に、気が付いたら一通り道具が揃えられていたのを思い出した。……うちも親ばかだったか……。うん、ほかのことを考えられるくらいには冷静だ。
……いや、こんなものは、ただの逃避だ。その証拠に、お姉さんは僕を抱きしめていた。きっと……また顔に出てた。
「すまない、気を遣わせたみたいだな……けど、私は――――」
「行きたくないなんて言わせません。僕は、お姉さんは行くべきだと思うから」
「どうしてだ……? 私なんて――――」
「‘なんて’だなんて言葉を使わないでください。僕はあの絵にいろいろな物を貰いました。あなたはそんな絵を描いたんです。自信を持ってください」
そうだ、あの絵に出合えたおかげで、僕の縁という物は大きく広がった。お姉さんを含めて。
「……君は。優しいな、本当に……。いや――――それとも、もしかして、君は本当に私を嫌いになってしまったのか? だから――――私を離そうとするのか?」
涙を流しながら、僕を見つめるお姉さんに、首を横に振る。
「好きだから、行って欲しいんです」
これまでにないくらいに驚いた表情をするお姉さん。思わず僕は笑みをこぼした。
「あなたがどうしようもないくらいに好きだから、あなたが本当はどうしたいか、何となくわかります。あなたをとても大切にしたいくらいに好きだから、あなたが好きなことをするのを、全力で応援したい。あなたをめちゃくちゃにして、自分だけのものにしてしまいたい好きだけど、その中でも絵を描いているお姉さんが、僕は一番好きなんです。――――足かせになるなら、自分から離れようと思えるくらいに、僕はあなたが大好きなんです」
お姉さんは、告白の最中に、赤くなった顔を伏せた。
「まいったな、これじゃあ、行かないわけにはいかないじゃないか……」
お姉さんは、僕に手を絡めた。
「本当はね、行きたいんだ」
知っています。
「けど、同時に孤独がすごく怖いんだ……」
わかっています。
「私も……君が好きだよ……。孤独を忘れたいからじゃない、君だから……好きになった……」
それは……すごいうれしいです。
「だから……君が好きなままの私でいるために、私は話を受けるよ。……電話、借りていいかい?」
こうして、お姉さんの旅立ちが決まった。打ち合わせをしたいのと、ここにいたら行きたくなくなるからと、明日には、お姉さんは出ていくことが決まった。お姉さんは、ママさんにもその場で電話をし、別れの挨拶をした。
その夜。僕たちは、手をつなぎながら、眠りについた。
そして、まだ外が暗い時分に、僕は気配を察して目を覚ました。繋がれた手は、解かれていた。背後からは衣服の擦れる音がする。着替えているのだろう。そして、その音がやみ、近づいてくる気配を察して、僕は目を閉じた。
「……世話になったね……ありがとう、少年――――」
そのあとすぐに、僕の唇の付近に触れた柔らかい感触。起き上がり、抱きしめたくなった。けど、それはしない。それは昨日の僕を裏切る行為であり、お姉さんの決意を鈍らせる行為でもある。
そして、そのままお姉さんは、たぶん、僕が狸寝入りをしているのに気が付いたまま、僕を少し見つめていたようだった。
「じゃあ、私は行くよ……さようなら」
遠ざかる小さな足音。まだ、間に合う……。
靴を履く音。まだ、間に合う……。
玄関の開く音。起きてしまえ……。
そして、カギがかけられた。起きたい……。
ポストに入れられた音。起きちまえよ……僕……。
本心に逆らい、僕はずっと、布団を強く握りしめていた。
足音が完全に遠ざかったのを確認してから、僕は起き上がり、布団を殴りつけた。
「これで……よかったんだ……」
お姉さんは、まだ見えるかな、なんて考えながら窓の方に顔を向けると、月明かりに照らされた文机の上に、小さな黒板とそれが抑え込む形で一枚の紙が置いてあった。僕は起き上がり、それを確認する。目を見開き、そして、笑みが浮かんだ。
黒板に描かれていたのは、シオンの花。
そして、紙は、シオンの花言葉と、隅に一言のメッセージ。
――――運命なら、また――――




