風、声高らかに時を謳う。
ふと思いつきました。
あともう一本くらい書こうと思っています。
――ねぇ、風が何故吹くか、君は分かるかい?
目に刺さる青空の下、彼女は腰まで届く黒髪を初夏の風に吹き散らしながら言った。
おれたちは本来立ち入り禁止として施錠されている屋上で、貯水タンクの影で座っていた。昼休み、昼食を手早く済ませてここに集まるのが日課だった。いつからこうなったかは覚えていない。
彼女は風のような奴だった。気のまま言い出したかと思えば、おれが答えに窮するうちにその話題への興味を失い、安らかな顔をして何かに耳を傾け始めるのだ。
一つ例外があるとすれば、本名で彼女を呼ぶ時くらいか。『わかりづらくて嫌い』と言って唇を尖らせている時だけは年頃の少女に見えて、それがちょっと面白く、定期的に弄っていたことを覚えている。
でもその時は例外にも当てはまらなかった。じ、とおれの瞳を見つめて答えを待っていたのだ。恒常宇宙論だかリーマン予想だか、中学生のおれにはよく分からないことをうだうだ言うのがいつものことだったから、今回の彼女の行動は意外だった。ただ何も語らず、射した光を逃さない黒曜石の瞳がギラギラと瞬き、おれのなかを覗きこむ。
これは少し真面目に答えよう、と思ったおれは考えて、
地球が回っているからじゃないか?
――どうしてそう思った?
地球の勢いが、空気を引っ張り回すから。
――独特な考え方だね。でも、ある意味正解ではあるのかな。
答えを知っていながら聞いたのか、馬鹿にしたように言いやがって、と毒づいてやりたかったが、ふと彼我の頭の出来を比較すれば、おれは口を閉ざすしかなかった。
彼女は頭がよかった。名前も知らないような賞を幾つも持っているがまるで誇らず、威張らず、ただ空を滑る雲のように笑っていた。それに比べて、おれは数字が苦手だった。
――風のメカニズムは熱、空気摩擦。コリオリ力なんてものも関係すると言われているね。
何だ。真面目な顔をしていたから話に乗ったのに、今日もいつもみたく知識自慢か?
――いいや。今日は少し違うよ。
妙だと思った。林檎が空から落ちる、猫はなぁおと鳴く、彼女はすらすらと物を言う。おれの中では当然のことが、今ばかりは態度ごと違っていた。変に言いよどんで、言葉を先延ばしにしているような感じ。おれの中に渦巻く違和感は、ヒーローが袋叩きに遭っているのを見ている気持ちに似ている気がした。
お前、らしくないぞ。やけに言葉を詰まらせて。恋でもしたか?
――君には言われたくないな。部活ばかりにかまけて、女っ気など皆無じゃないか。
うぐ、……ボールが友達な奴もいるんだ。部活が恋人の奴だっているだろう。
それで、結局さっきの話はどうなったんだ?
――ああ、そうだった。私はそれを伝えに来たというのに、忘れそうだったよ。
それじゃあ君の問いに答えよう。私が予め用意した答えをお披露目しよう。
風はね、過ぎる時間が吹かせるんだ。
そしてそれは目も眩むような遠い過去から、目も霞むような遥かな未来まで、まっすぐ吹き抜けていくんだよ――
そんな話をしたのも、今は昔。
生きる世界が違いすぎたおれたちはそれから自然と疎遠になり、屋上で話すこともまったくなくなった。
そしておれたちは中学を卒業し、彼女は知らない国の知らない街へ越していった。
おれはなんとか入ったそれなりの高校に入学、普通に恋をして(女っ気がないとか言いやがって、とその時は勝利した気分だった。何に対してかは分からない)、卒業。就職し、家庭を持ち、過ぎゆく日々の背中を見送るように、平凡な毎日を過ごしていた。
◆
目覚まし時計が鳴らない幸福感に浸る、朝?杦ソしい午前9時。
瞬き数回、体を起こすと、安らかな顔をして眠るうちの奥さんがいた。
張りのある唇は何かを求めるように小さく震え、一緒に長い睫も揺れている。本当ならぱっちりとした瞳がチャームポイントである彼女は、うちの学校でアイドル扱いされるような高嶺の花だった。しかし神のいたずらか、ドラマティックでファンタスティックなビッグイベントがいくつも起こり、紆余曲折を経て、こうして今はおれの胸の中で無邪気な寝顔を見せている。本当に、人生っていうのは分からないものだとその時はしみじみ思った。ちなみに数日前に挙げられた式のウェディングドレス姿はおれの一生の宝物だ。今後一生、忘れることはないだろう。
それとも、よく分からん奴と過ごしたお駄賃としていいことが起きたか……
「……懐かしい夢を見たからかな。妙に頭に残ってくる」
風が運ぶ彼女の匂いが鼻をくすぐった気がした。
やけにリアルな夢だった。初夏の日差しに当てられて浮かんだ汗はまるごと持ち帰ってきたように、額でこそばゆく存在を示している。
それを拭い、少し感傷に浸る。
彼女は今何をしているんだろうか。
土建屋であるおれには結局たいして役に立たなかった、彼女によるホッジ予想への考察をぶつぶつと諳んじながら、寝室の窓を開け、リビングに向かう。
2LDKの埃一つない廊下を伝い、テレビの前にあるソファにどっかと座り込んだ。テレビのリモコンを手に取り、起動する。朝の陽ざしとテレビの光が混ざって、漂う塵が白く映し出された。その向う側で、見覚えのある顔と名前が映っている。
朝のニュース番組。僅かに液晶の乱れた画面の右上のテロップにはこうあった。
『速報 流流子さん(24) 自殺か』
「は……?」
どう読めばいいか分かりづらい名前、ナガレリュウコ。間違いなく彼女のものだった。テレビの角を持ち、画面にかぶりつく。最近発表したらしいナントカ論についての会見映像だ。あの頃から怖いくらいに変わっていない風貌だ。まるで誰かに作られたような整った顔、生気のない肌、身じろぎの度に揺れる黒髪。
「――昨夜未明、イギリスに在住していた流流子さんの遺体が見つかった事件で、捜査当局は、司法解剖によって体内から発見された毒物を流子さん自身が所持していたことから自殺の可能性が強いとして捜査を続けており――」
アナウンサーが淡々と事情を報告し、続けていつも見るパーソナリティがちっとも心のこもっていない顔をして『いやあ残念です』と話していた。それに街中のこれまたテンプレートな反応映像が続き、そしておれはその内容をすぐに忘れた。
自殺? 神に刺されても平然と笑ってそうな、雲みたいな彼女が?
思考が錯綜し、おれの中がぐちゃぐちゃになる。
――聞こえるかい?
おれは声の方向を振り返る。窓の方向。首を痛めて、思わず顔がゆがんだ。
しかし誰もいない。ただいつか見たような、ちぎれた雲がのんびりと空を揺蕩っている光景があるだけ。
そんなおれの事情もおかまいなしに、声は続いた。
――あの屋上で待ってる。
おれはテーブルの上にある車のキーをひったくった。傷が少しついてしまったが、気にならない。導かれるように勝手に動く足が、玄関に続く廊下を急いだ。
◆
街を出ていないおれにとってその道のりは短かった。恐怖も忘れてフルスロットル。エンジンが聞いた事もないような音を上げていた気がするが、もうそれが確かすらおれは覚えていない。
開放されている校門に飛び込み、空いている場所に駐車する。ついこの間建て替えられた校舎は見慣れず、まるでセンチメンタルな気分にはならなかった。
外来者向けの窓口で許可証を貰い――ここのOBであり、建て替えられたと聞いて気になったと説明した。パジャマのままだったおれは相当怪しかっただろう――、真新しい廊下を靴下のまま走る。滑る勢いそのままカーブした時は、何故か懐かしい気分になれた。
1階、2階と駆け上がり、屋上へと繋がる扉の前に立つ。鍵穴が付いていたが、おれは何かを考えることもなく、根拠のない自信を持ってドアノブを捻った。抵抗なく、それは開かれる。
おれは息を呑んだ。
初夏の陽光。照り返す白い床。青空に閉じ込められたちっぽけな街。
似過ぎている。夢で見た、あの光景と。
吹きつける風。近くの林がさざめく音がする。おれは目をつむった。
目を開けるころには、さもそうあることが当然のように、風景画パズルの1ピースのように、彼女は視界に収まっていた。
変わらず、空を漂う雲切れのような顔をして黒髪を揺らしている。服は、何故か中学校の時の制服だった。似合い過ぎている。お前はもう24だろうと突っ込んでやりたかった。
おれが苦笑していると、彼女はトントン、と服を指で叩いた。見ると、いつの間にかおれの姿も変わっている。制服になり、多少付いた筋肉も落ちてやせっぽちになっていた。
「やあ。此岸から彼岸へ……ん、君からすると逆かな? とにかく、君に逢いに来たよ」
彼女は言った。風のように澄んで、純粋で、それだけに人を寄せ付けない声。
「とりあえず、結婚おめでとう。あの時は女っ気がないなんて言って悪かったね。正直意外で、ショックだった。無駄だと分かっていて、それでも抑えられなくて、この運命を責めて喚いたものさ。あと一瞬、早ければってね」
彼女は困ったような笑顔で右のこめかみを掻く。おれは何も言えないままだ。
「私は今、過去から君に語り掛けている。信じられないかもしれないけど、私は君に風のことをたずねた時から、この未来が見えていたんだ。もう変えられない、連綿と続く過去も一緒に。
だから敢えて、未来に続く風に乗せて、過去の私が君に伝えよう」
「私、流流子は、君のことを愛していた」
風が吹き抜けた。同時に彼女は消え、おれは一人ぼっちで屋上に立っていた。
空気が停止している。肌に纏わりつくようで鬱陶しい。似ていると思った風景は、街並は、今は全く違うものに見えた。
こうやって、立ち尽くすおれの姿も、彼女は知っていたのだろうか。
おれは思う。
届かぬ過去を知り、叶わぬ未来を知り、それでも笑ったちっぽけな女の子を。