俺の行為に目撃者なんているはずが無い
慰みの行為のためだけに必死になる、というのは、何に情熱を向けているのかと問いたくなるほど、どうしようもない事に聞こえるが、本人は至って真面目なのだ。ちょっとした話題に上る所の、猿が夢中になるっていう話はよく聞くが、クラスメイトが夢中になっているのはあまり聞かないだろう。普通だったら。それとも普通じゃないのかもしれないし、それが普通だと思うのがそもそも間違いかもしれない。
賢者タイムとも呼ばれているらしいその行為は、言ってみれば選ばれた者だけが到達しうる境地というやつだろうか。大層な名称が付いている者である。
とにかく、そんな行為に夢中になっている事を誰が聞いているともかまわずに標榜するバカたれな男子と言うのが、クラスメイトに一人入るかもしれないだろうと仮定して話す事にする。
こんなやつがどこにでもいてたまるか、とは思うが、どこにでもいるよな、と思う事で私は納得したいのだ。
女である私にはその彼、幣原ののたまっているどうしようもない精神論の気持ちは一片たりとも解らなかったが。
と言うか、その時の私には、幣原のやつが一体全体、何の話をしているのだか、皆目見当もつかなかったのが正直なところだ。
「もうさ、最近全然だぜ、ご無沙汰ちゃんとは言うけども自分の息子にさ、ちょっと御挨拶もしてない感じなんだよ。いつ頃からって言うのはちょっと言えないんだけどさ。」
したい、したい、したい、したいのに出来ない。
気軽にそれが出来ない、という環境が、彼、幣原にとっては、とても重要な問題なのだ。何を大げさな事を。しかし、それこそ、生死に関わるほどだと本人は言う。要するにフラストレーションだ、それが容易に解消できないとあれば、余計にストレスだって溜まっていく。何かしら発散する糸口が無ければ、彼はどうにかなってしまうかもしれない。しかしそこにもディレンマが生まれる。
「もうさ、死活問題だよな、ヤバいって思うんだけどさ、そうそうどこでだって出来る事じゃないから安心できる場所でしたい訳だよ、変態じゃあるまいしさ。やっぱり家しかねえわけじゃんそしたらさ」
そもそも、幣原は今どきの高校生としては珍しい事なのかもしれないが、妹と同じ部屋で寝ているのである。お互いの部屋が用意できないのだから仕方が無い。別段それは不思議な事でも何でもない。そこがまた幣原にとっては、厳しい現実なのである。
その部屋と言うのもまた狭いらしく、お互いのベッドの距離が2メーターに満たないのだという。その環境は、果たして苦痛であった。
そんな距離であっては、その彼自身の鬱憤を解消する為には、どうあっても妹に兄の残念な痴態を晒してしまう事になる他は無い状態だった。
いくらなんでも、それではまずい。その点に関しては彼は必死だった。
それ故に、彼がハッピータイムに専念出来るタイミングと言うのが、妹の居ない時間に限られる訳である。
そして何より確実なのは、妹が風呂に入っている間の三十分ということになる。
しかしカンの聡い、とりわけ自身も同じような経験をしている男性諸賢の中には、既にお気付きの者も居るのだろうが、幣原はなぜ確実に自分だけの時間を満喫出来る、風呂の時間を有効活用しないのだろうか。
まず真っ先に思いつく事である。私自身は、風呂場は清潔だと言う信仰もある訳だし、後片付けにも困らないし、一石二鳥だと思うのだけれど。
しかし残念な事に、それは無理な話であったのだ。
何故かと問われれば、まず第一に、やはり幣原家の風呂場も狭いのである。それも、ただ狭いというだけで、したい事ができないというのは、普通に考えれば不相応な理由だと言えるかもしれない。
実際、座るスペースがあれば出来ない事などは無く、男でも女でも、やろうとおもえば無論立っていてでも、雑作も無く行えると、私は、他所から聞いている。
そこで第二の理由なのであるが、彼は寝てする派なのだった。
個人的趣向の問題である。
つまり、彼はベッドに臥せている状態でないと、集中して事に及べないという事らしい。ベッドと言うのが重要なのだろうか。私には全く理解できなかったが、とにかく寝てする派なのだ。
そういう性癖なのである。今さら変える事も出来ない、これは仕方の無い事なのだ。そのため幣原は、風呂での自家発電をするには、その狭さ故に風呂の戸を開け放たなければならないのである。
現に、一度だけ彼はそれを試みてみたものの、結局何の意味もなかったらしい。
したいときにする、それこそ当然だが、その至福は彼にとってはあまりにも遠い。現実の前には、その願いは儚く崩されてしまう。
そこで彼が考える残された道は、一つとなった。他に道はない、ないのである。したいときにする。
――それは、よくある昼休みの光景だった。だが、幣原がそんな話を熱く語っていたからでも有ったのか、常とは少し違っている所があった。
幣原が友人達と揉めていたのだ。
先ほどから言うように、彼の話の内容は、概ね以下の通りのものだった。
彼は自涜行為をしないと生きていられない、そう言い切るほどハマり気味であった。しかし彼のいる環境は、その欲求を満たす為には非常に厳しいものだった。臥せていなければできない癖にとって、実にミスマッチな環境である。
彼は真っ昼間からそんな話を語っていた。もちろん、食事中の女子たちだっている昼休み中なのである。私は何の話だか解らず聞いていたが、周りの女子はどんな気持ちだったのだろう。それを思うと少しいたたまれなくなってくる。
――存外、楽しんで聞いていたのかもしれないが。
なぜ、幣原はそんな話を昼間っからしなければいけなかったのか。何か話したい思いでもあったのか。
それはよくわからない。
だが、フラストレーションとストレスでどうかしていたと言う可能性も考慮すれば、彼も相当昂っていたのは確かだ。
そして彼が欲望を満たす為には、もう、なりふり構っていられなかったのだ。そうやって発散するのが男として生まれた人間の本能なのだろうか。
そして彼は、――
「したくなったときに眠りから覚める」
という境地に至った。選ばれたのみが到達しうる領域。
賢者の至りである。
――それは、夜中であった。
彼の寝床の、2メーターに満たない距離で、妹が寝ている。
まったく恐るべき事に彼はその状況において、恐れもせず右手によって情動の限りを尽くしたのだと言う。結果、彼はすっきりとした。漸く、不満が解消されたのである。
一度行ってしまえば、後はもう、したくなった時に目覚め思うまま振る舞えばそれでよかった。それ以降、何度も彼はベッドの中で一人果てた。
周りの友人達には、彼はひょっとしてどうかしているんじゃないのか、という空気が漂っていた。
彼のそうした話を聞く友人達には、ある一つの思いが浮かんだのである。
――やりたいときに起きる、と彼は言うが、果たしてそれは「確か」な事なのだろうか?
暑い、トイレ行きたい、喉カワイタ、など理由は様々だろうが、夜中にふと目が覚める事などは、誰にでも起こり得る事象ではなかろうか、と。それの一環である。
その点に関して、誰にでも起こる可能性として、その疑問が導いたもう一つの疑問。
「彼のみが起きていた」という状況「だけしか無かった」と、果たして考えてよいものかという疑問である。
そんなに単純な都合のいい話ではないが、目撃者がいなければ完全犯罪は成り立つだろう。幣原の行為は恐らくそういうものだったはずだ。
しかしそう思っているのは、「彼だけ」だとしたら。
次第に友人達は、夜中に一人自身を慰める行為に一生懸命な兄の姿を、妹が目撃してしまっていたのではないか、という一縷の可能性に、確信的な期待を寄せ始めたのだ。
絶対見られたな、等とみんなは囃し立てる。彼は今まで一度も、妹に見られてしまっていた等とは、考えもしなかったようである。
一度でもその可能性があったと思ってしまっては、不安になってしまう。今まで気にも留めていなかったのが、どれだけ幸福な事であったのか。
今やその平静は、灰燼と化し、先ほどまで淡々と自身の行為を語っていたそれとは全く違っている。
幣原は、話をそらそうと必死になった。
例えば、昨日は妹は部活で帰りが遅かったから、一人で最高の時を過ごした、等と聞いていない事まで、 勝手に話しだす始末であった。
彼の話を聞いているギャラリーは十人を数えるほどになろうとしていた。
――これは、そろそろ潮時ではなかろうか。
妹に、見られた、見られた、皆は最早そうとしか思っていないのだ。誰にも確証などと言うものは微塵も無いが、確信していた。
あたかもそれが真実であると、周りを錯覚させ、感染が広がるほどに。
しかしそれでも彼は、断固として、見られた可能性は一切無い事を信じて疑わなかった。
「絶対に見られたりなんかして無い。俺自身が信じないで、誰が自分を信じるんだ。」と、使いどころが最低ではあるが少し恰好のいい事も言っていた。
彼ら兄妹の寝床、つまりベッドは高床式である。二段ベッドの下の段が無い奴だ。ベッド下のスペースには、勉強机が置いてあるらしい。
それは少し羨ましい環境である、と私は思う。
やはりベッド下のスペースは広くあるべきだと思う。例えば薄い本とか……出版物を隠すばかりのスペースでは、ベッドの存在自体がその隠匿物の存在を示唆しているようで落ち着かないのだ。
そして、彼らのベッドの柵は格子状になっているだという話を聞いたとたん、傍聴者は矢張り口を揃えて、見えるだろ見えるだろ、と賑わうのだ。証拠集めをして追い詰める。
幣原は別に罪を犯した訳ではない。オナンの罪とかいう罪には当たるのだろうが、そんなのは幣原には何の関係もない話だ。
さっさと諦めたほうがいいのではないか。
観念しろ。
認めてしまえ。
満場一致、皆の心は今まさに一つであった。無論、それが真実かなど、彼らにはもはやどうでも良い。
自白こそが、この場に於ける唯一絶対、最大の確証なのだ。
――自白の強要――
実際にそんな事は、絶対にあってはならない事であるが、この場ではそんな倫理も通用しない。
「もういいよ! 親も知ってるよ! こんなこと!」
幣原はうなだれ、静かにしかし力強くそう言った。
私には、彼にかけてやれる言葉はなかった。
彼は集団の圧力に、ついに屈してしまったのである。
さて、今だから言えるのだが、少し考えれば疑問に思える事が一つあるのだ。
そもそもふと起きた真夜中に、暗闇の部屋ベッドでもぞもぞしている兄の姿を、妹は果たして判別出来たのかどうか、という事。暗闇に目が慣れるには時間がかかる。
誰もその事を言わなかったのだ。誰も全く疑問にも思わなかったのか。
もしくは、――解っていて敢て言わずに、焦ってる彼を見て楽しんでいたのか。
何もかも想像の域を出ないが、結果的に彼は真夜中にお楽しみを安心して行う事は、もはやできなくなってしまったのではないだろうか。
そしてそれこそ、彼が望んでいた事だったのではないだろうか。
自分を戒めるために。