1.少女
「で、それがチュートリアルにこれだけ時間がかかった理由だって言うのかい?」
「最初から最後まで一切の誇張なく事実だぞ。初めてのゲームだからどこがどこまで違ったのか、体験した俺自身ですらよく分かってない部分も多いけどな」
澄み切った水の流れる大きな噴水の前で、二人の男がひそひそと会話を交わしている。
一人は白と黒の虎縞のような髪の毛をした空色の瞳の男。黒のアンダーに明るい青のハンティングベストを羽織、カーキ色のカーゴパンツに皮のブーツを履いている。
もう一人は漆黒の髪に真紅の瞳を持つ男。上下ともにどこかの学校で採用されていそうな黒い学生服に身を包み、その上から同じく黒のインバネスコートを羽織っている。腰元の学生服の上から巻かれたベルトには複数の小瓶がぶら下がっており、色とりどりの液体が揺らめいていた。
「チュートリアルでセットアップ前に殴り掛かってくるモブがいたらたまらないよ。でもそれ、聞けば聞くほどバグとは違う何かにしか思えないな」
インバネスの男――慎一郎ことオディットがすっと目を細めて訝しんだ表情を作る。
「それは俺もそう思うよ」
応じて、青ベストの男――虎之助ことビャッコはちらりと周囲へ視線を向けた。
今二人がいる場所は、白の陣営『ラクスビア』の首都にある広場だ。綺麗に敷き詰められた石畳の地面と広場を中心に方々へ伸びる道に沿って立ち並ぶ石造りの建物は、欧米の古い街並みを思わせる。
そんな広場では多くの人々が雑談に興じており、中にはカードのトレード希望を示す看板を片手に歩き回る者や床に座り込んでカード露店を開いている者もいる。
基本的には老若男女みな服装はバラバラで、耳の長い者や尻尾を揺らしているもの等々、数え上げたらきりがないほどに雑多な光景だ。
しかしながら、そういった雑多な光景の中に一つだけ共通点を持つ者たちがいる。
それは先の雑多な人々それぞれにつき従う者の存在だ。本人の見た目の違いこそあれ、ほとんどが女性であるその者たちは一様に似たようなデザインのドレスを着用していた。
「まあ、巷で騒がれてたアドキャラ失踪事件の犯人が君の見たって言うその影だとして、なんであの子は追われてたんだい? というか、それ以前にあの子は何者なのかって事の方が問題か。もう一回聞くけど、本当に君のアドキャラじゃないだよね?」
内容が内容だけに、より一層声を潜めたオディットが念を押すようにビャッコに尋ねてくる。
正直しつこいとは思うが、ビャッコ自身逆の立場だったら同じ事をするだろうとも思うので、
「全部が全部じゃないかもしれないが、あいつが言うには取り込まれたアドキャラが何人かいるっていうんだからそうだと思うぞ。それと、あいつの正体は不明だ。もちろん俺のアドキャラでもない」
問いに対して律儀に答えを返し、彼はついとオディットから視線を外した。
代わりに視界に捉えるのは、カード売りが集まって露店を開いている間を嬉々として飛び回っている黒髪ミニポニテのセーラー服少女と、彼女を見守るようについて回るアイスブルーの長髪を持つ統一的なドレスの女性の二人組だ。
「ただ、あいつの弁では俺のアドキャラはあいつに同化しちまってるから、その辺をどう考えるかに寄るけどな」
「うーん。それも訳が分からないところの一つなんだよね。ナタリアさんが言うには自分たちとも僕たちとも違う何かだって事みたいだけど……」
ポリポリと頬をかく慎一郎が身をよじらせ、腰の小瓶がぶつかり合って澄んだ音を奏でる。
「とりあえず今日はもうゲームから出て、これ以上は外で話すべきだろう。あいつがちゃんとゲームから出られるかも試さないと不味いし、俺の登録情報がどうなったかも確認しておかないと後々面倒な事になりそうだ」
「そうだね。ちょっとナタリアさんを呼ぶよ」
それだけ言って、しばしオディットが黙り込む。すると、遠くにいたアイスブルーの髪の女性――ナタリアがビャッコたちの方へ視線を向けて来て、それと分かるように頷いてきた。
彼女はカード露店を開く女性と何やら話している黒髪ミニポニテの少女――鳳華に声を掛け、二人そろって虎之助と慎一郎のいる噴水の方へ歩いてくる。
にこやかな笑みを浮かべている鳳華の姿は、その服装を差し引いたとしても、ビャッコの目にはただの人間にしか見えなかった。
◆
仮想世界でもあるゲームランドには、企業のアトラクションブースの他にも喫茶店のような店がいくつかある。
無事にゲームを終了した虎之助たちは、その足で近場の喫茶店へ場所を移して話し合いを行っていた。
四人掛けの席の座席位置は奥にナタリアと鳳華。その隣に慎一郎と虎之助という具合である。
「ご注文は何に致しますか?」
「ホットコーヒー二つとアイスティー一つと――えっと、鳳華ちゃんだよね? 何にする?」
注文を取りに来たウェイトレスのアドキャラにオーダーを述べつつ、慎一郎が彼から見て左斜め前でメニューとにらめっこをしている鳳華に尋ねた。
彼女は眉をひそめてかぶりつくようにメニューを眺めていたが、ややあってから顔を上げ、
「じゃあ、カルピスソーダを濃いめで!」
元気よくウェイトレスにそう告げた。
「ご注文を繰り返させて頂きます。ホットコーヒーをお二つ。アイスティーとカルピスソーダをお一つずつで宜しいですか?」
「濃いめで!」
ウェイトレスの復唱にその言葉が抜けていた事が気になったのか、そこは譲れないと言わんばかりに虎之助の前に身を乗り出しながら鳳華が強調する。
そのせいでテーブルの上に置いてあった虎之助の腕を彼女の身体が押し潰しているのだが、これっぽっちも色っぽい事になっていないのは、彼女の胸元を飾る大きなリボンが真実を隠しているせいだろう。
そんな彼女の姿を見たウェイトレスは苦笑しながら、
「カルピスソーダ濃いめですね。メニューをお下げします。少々お待ちください」
丁寧にお辞儀をしてその場を辞していった。
ウェイトレスが下がるのに合わせて、鳳華も大人しく自分の位置に戻っていく。
周囲に誰もいなくなったところで、慎一郎がきょろきょろと念押しの再確認をしてから口を開いた。
「で、こうして無事に鳳華ちゃんもゲームの外に出られたし、ビャッコ――だとゲームと紛らわしくなったから虎之助にしようか。君の登録情報も彼女がアドキャラの部分に置き換わってて事無きを得たわけだけど、実際のところなんもないってわけじゃないんだよね」
「そりゃそうだろうな。現実的に俺のアドキャラは消えちまってるし、ゲーム内で体験した事が現実である以上はこいつの存在が今この場においてもイレギュラーって事になる」
「こいつとか言わないでよね。ちゃんと鳳華って名前があるんだから」
むーとフグの様に頬を膨らませた鳳華が、虎之助の肩の辺りをつまんでぐいぐいと引っ張ってくる。
「偽名だって自分で白状してただろうが。それに、俺もまだお前に一度もちゃんと名前を呼ばれた覚えがないぞ」
「あれ? そうだっけ?」
虎之助の言葉に一度きょとんとなった鳳華は、しかしすぐにちょっと俯いたかと思うと、
「えっと、じゃあじゃあ、私も虎之助の事をちゃんと虎之助って呼ぶから、虎之助もわたしの事を鳳華って呼んでくれないと駄目だよ?」
上目使いで彼を見つめながらどこか甘えるような声を出してきた。
「……お前、なんか性格変わってないか?」
虎之助は思いっきり眉をひそめる。会って早々に人の事をののしってくれた少女と同一人物とは思えない言動だった。
「え? なんだい虎之助。君ってついこの間までそっち方面に一切興味なかったのに、この短期間でいきなり目覚めたとか?」
「あらあらうふふ」
鳳華の態度から邪推したのか、慎一郎が目を丸くさせ、ナタリアが上品に口元を手で隠してにこにこしている。
虎之助としてはいちいち訂正するのも面倒なのだが、このまま放置する事の不利益を考え、
「何を勘違いしているのか知らないが、別に何にもないぞ」
念のための釘刺しをしておく。下手に言いふらされるのは御免被りたいところだった。
もう一人の当事者は慎一郎の言葉を理解出来ていないのか、「目覚めるって何にだろう?」と首を傾げている。
「失礼いたします。お飲み物をお持ちいたしました」
先ほどのウェイトレスがトレイに飲み物を乗せて現れた。
外側にいる虎之助と慎一郎でトレイの物を全て受け取り、それぞれに隣へ注文の品を送ってやる。
ごゆっくりどうぞと言って下がるウェイトレスに礼を述べ、ひとまずは全員飲み物を口に運んだ。
仮想世界での飲食物は当然にしてすべてがデータであり、腹を満たす事も栄養価を摂取する事も出来ないが、味覚のデジタル化によって味を楽しむ事は出来るようになっている。
甘い物は食べたいが太りたくはないという夢物語は、まさに大昔は夢物語であった世界で実現されているのだ。仮想世界で喫茶店の経営が成り立っている理由は主にこの辺りである。
「さて、と。そんじゃあ改めてになるけど、鳳華ちゃんは人間でもアドキャラでもないんだよね?」
「う?」
ストローでちうちうと濃いめのカルピスソーダを飲んでいた鳳華が、ストローを加えたままでちょこんと首を傾げた。彼女は今少しのカルピスを口に含んで飲み込むと、
「そうだよ。パパとママはわたしを人間だって言ってくれるけど、わたしは純粋な人間じゃない。でも、そっちのお姉さんみたいなアドキャラでもないよ」
一切の躊躇いを見せる事なくそう言ってのけた。
鳳華が人ではない事に関しては確信に近い予測を持っていたため、虎之助は彼女の言葉にそれほどの衝撃を受ける事はなかった。しかしながら、その口から出た言葉に引っ掛かりを覚えなかったわけではない。
それはおそらく慎一郎も同じで、
「パパとママ……?」
「という事は、鳳華ちゃんにはちゃんとしたご両親がいるのかい?」
虎之助の問いに続けて、彼もまたその事に関する質問を口にした。
「うん、いるよ。パパは普通の人間で、ママがデジタルハーフ。だからわたしはデジタルクウォーターってところかな」
またぞろ謎の単語が出てきた。虎之助はちらりと慎一郎に視線を飛ばし、彼は小さく頷きを返してきた。
「デジタルハーフって、言葉の意味だけ聞くと人とデータの間に生まれた子供みたいに聞こえるけど、そういう解釈でいいのかな」
「わたしもママに詳しく聞いたわけじゃないけど、たぶんそれであってると思う」
確定的ではないにせよ肯定で返され、慎一郎がうーんと低く唸った。彼としてもにわかには信じ難いのだろう。
隣のナタリアはにこやかに笑ったままだが、おそらく彼女も何かしら今の会話の内容に関して考えを巡らせているはずだ。
虎之助もまた意識の一部を使って思考中である。
確かに現在のバーチャルリアリティ技術は、人一人を完全にデータ化して再現出来る領域にまで進歩している。当然人間の遺伝子の完全データ化も可能で、そのデータを掛け合わせる事で人工的な配合遺伝子を作り出す事は可能だろう。
しかしそれで作り出せるのはあくまで配合した遺伝子情報だけで、人間を作り出す事が出来るわけではない。
なぜなら仮想世界における人間は、あくまでその人間のある一瞬だけを切り取って再現しているだけに過ぎないからだ。
ゆえに仮想世界における人間は基本的に不変である。データを損傷すれば仮想世界であっても怪我をする事はあるが、それによって現実世界に怪我が持ちこされる事はない。
逆に現実世界での怪我を仮想世界で治癒させたとして、現実世界でも治癒するというわけではないのだ。
不変であるという事は当然にして成長しないという事であり、受精卵が細胞分裂してやがて胎児になる様な変化は起こりえない。
データを人為的に改変し続ける事によって疑似的にそう見せる事は可能だが、結局のところそれはその一瞬一瞬で見た目上全く同一に見えるだけの、全く別のものに変化し続けるという事になるのだ。
「なあ鳳華。お前って何歳なんだ?」
「わたしの年齢? えっと、今年十五の今十四歳だよ。学校には行ってないけど、一応中学三年生って事になるかな」
まさかの一個下である。虎之助としては総合的に見て最大でも妹の小鳥と同じ程度と考えていただけに、それなりの驚きを覚えた。
「虎之助は高校一年生なんだよね? そうすると十六歳でいいのかな? それとも十五?」
くいくいと服を引っ張りながら鳳華が尋ねてくる。どうも近くいる相手の服を引っ張るのが彼女の癖であるようだ。年齢に反して幼い癖を持っているようである。
そんな事を考えつつ、虎之助は質問に答えようと口を開きかけたのだが、
「虎之助は二月の早生まれだから十五歳だよ。ちなみに僕は四月生まれの十六歳ね」
なぜか聞かれてもいない自分の情報を付け加えつつ、慎一郎が説明してしまった。
鳳華はふんふんと興味深そうに頷き、その後でちらりとにこやかな笑みを浮かべたままのナタリアへ視線を向けた。
その視線の言わんとしている事に気が付いた慎一郎が「ナタリアさんは永遠の二十七歳です」とわけの分からない事を言い、当のナタリアは「あらあらうふふ」と相変わらずのにこにこ顔で応えていた。いつも通りのやり取りである。
その後も互いにあれこれと自己紹介の延長のような話を続け、時計の針が十九時を回ったところで慎一郎が一度話を区切った。
「っと、そろそろ夕飯の時間だね。これ以上は親もうるさいし、僕は一度落ちるね。夜もやるなら付き合うけど、虎之助はどうする?」
「あー……、やるようであれば八時半までに連絡する」
「了解。あ、悪いけど会計まとめてお願いするね。今度は僕がおごるからさ」
「ん」
悪いねと言って慎一郎が席を立ち、ナタリアもごちそうさまと言って席を立つ。
「じゃあね。鳳華ちゃんもまた会う機会があればその時はよろしく」
「それじゃあ失礼するわね。二人もあまり長居しちゃだめよ」
ひらひらと手を振って、二人は喫茶店から出て行った。
残された虎之助は残っているコーヒーを一息に飲み干し、
「さて、それじゃあ俺も落ちるか」
ぐいと身体をのばしながらそう言った。
「え? 虎之助帰っちゃうの?」
途端、隣に座る鳳華がぎゅっと服の裾を掴んできた。全身から帰っちゃ駄目という感情が滲み出ている。
しかしながらそれに屈するわけにもいかないので、
「そりゃずっとこっちにいるわけにもいかねえだろ。ってか、お前どうするんだ? 両親いるんだったら家に帰らなくていいのか?」
虎之助は相手にも家に帰るように進める事にした。三日も影から逃げ続けていたと言っていたので、当然両親が心配しているはずだという至極真っ当な考えからである。
「……帰りたくない」
だが予想に反し、鳳華は虎之助を服を話してあからさまに拗ね始めてしまった。
先ほど両親の話をしていた時は何でもなかったというのに、家に帰れと言った途端の事だった。
「もしかして、お前家出中とか?」
「…………むー」
鳳華の顔が今まで見た中で最大に膨らむ。どうやら図星のようだった。
考えてみれば、三日逃げ回る内に家へ帰っていないのは不自然な話である。しかし家出中という事であればまま納得はいった。
「気持ちは分からないでもないけど、またあの影みたいなのに追っかけられたらどうするんだ? 今度もうまく逃げられたり撃退出来るとは限らないぞ」
あの影の正体が分からない以上、またどこかで出くわす可能性は捨てきれない。その時に今回の様に上手く行く保証などはどこにもないのだ。
帰る場所があるのであれば、帰るべきだった。
「うー……」
しかし鳳華は首を縦には降らなかった。低く唸って何かを悩んでいるようだったが、
「あ、そうだ」
ふいに何かを思いついたというようにポンと手を叩き、
「ねえ虎之助。虎之助って今アドキャラ持ってないんだよね?」
ものすごい期待の感情を込めた目で虎之助を見てくる。
何を期待しているのか虎之助には分からなかったが、
「そりゃお前に吸収されちまったからな。いるわけがないだろう」
彼はひとまず問いに答えた。
謎のデータ生命体にアドキャラを吸収されるなど前代未聞だが、現に起こってしまったものはどうしようもない。
さしあたってどうしたものかと途方に暮れる虎之助に対し、
「じゃあじゃあ、わたしこのまま虎之助の家に行く」
鳳華が突然そんな事を言いだした。
「…………ん?」
彼女のその言葉を飲み込むのに、彼はたっぷり十秒の時間を要した。
飲み込んだ後も何度となくその言葉の意味を考え、首をひねったり傾げたりと繰り返した挙句、ようやく彼女の言葉がただそれだけの意味を持っている事を理解する。
「は?」
間の抜けた声を出す虎之助に対し、鳳華はえへへとどこか嬉しそうな笑みを浮かべていた。