2.兄妹
午後の授業を滞りなく終え、校門で慎一郎と別れた虎之助は寄り道する事なく自宅へと戻っていた。
自宅は学校から二十分程度の場所にあり、自転車で通学するまでもないと徒歩で通っている。
「ただい――ま」
ドアを開けてすぐに人がいたので、特に予想もしていなかった虎之助は驚いて一度言葉を飲み込みかけてしまった。
玄関先で出会った人物。背中までのばした黒髪をツインテールにまとめ、まだ五月の半ばでそれほど暑くもないというのにタンクトップにホットパンツ姿の少女は、
「あ、おにいお帰り」
ごくごく自然な態度で彼を出迎えた。
「おう。ってか、なんでそんな恰好してるんだよ。まだそこまで夏でもないぞ」
靴を脱いで家に上がりながら、虎之助は妹である白河小鳥(しらかわことり)の姿を再度観察する。
なんというか、非常に肌の露出が多い。加えて服の生地も薄手のものなのか、その名前の通り小柄な割には色々と女性的なメリハリのある身体が強調されていた。
二歳年下の中学二年生にして、彼女は十二分に『女』という存在を体現している。
「にひひ。なになに? そんなにじろじろ見ちゃってさ。おにいもしかして妹のあたしに欲情してる?」
「アホか。俺にそんな性癖はねえよ。顔を隠された状態でならまだしも、妹の顔が乗ってる時点で対象外だ」
ぺちりとちょうどいい高さにある彼女の額を二本指ではたきつつ、虎之助はリビングと廊下の境の戸を開けた。中へ入ろうとする彼の背後から小鳥の声が続く。
「うわひど。それってあたしの身体だけが目当てって事じゃん。やらしー」
「人聞きの悪い事を言うな。っと、あれ母さんは? いないみたいだけど」
のぞいたリビングに人の気配がない。普段であればこの時間、虎之助の母親は故郷の味である辛子明太子をつまみながらテレビを見ているか、台所でお菓子でも作っているのが常のはずだった。
「夕飯の買い物だってさっき出掛けたよ。何か用事でもあったの?」
「ああ。ちょっとアドキャラ用の服を貸してもらおうと思ったんだけどな」
当てが外れた虎之助はまいったなとがりがり頭をかく。
すると、小鳥がそんな彼を非常に訝しんだ表情で眺めてきた。
「アドキャラの服って、おにい急にどうしたの? アドキャラなんてずっとほったらかしにしてたのに」
「慎一郎に誘われてちょっとゲームやる事にしたんだよ。それがアドキャラも参加させないといけないやつだから、ゲームランドに連れてかないといけないわけ」
「ああ……」
虎之助が事情を説明すると、小鳥は得心が行ったというように頷いた後、これ見よがしに溜息を吐いてやれやれと首を左右に振った。
「まったく、そんな事気にするなら普段から気にかけてあげなよ。アドキャラって確かにデータでプログラムだけど、疑似人格を入れたらほとんど人間みたいなものなんだからさあ」
「生憎と俺のアドキャラには疑似人格すらはいってねえよ」
「うっわさらに信じられない。……はあ、いいよおにい。あたしの――というか天鈴(あまり)のだけど、それ貸してあげる」
「え? いいのか?」
突然の申し出に、虎之助はまじまじと妹の顔を見つめてしまった。
すると、彼女はわずかに頬を赤くしたかと思うと慌てて顔をぷいっとそらしてしまう。
「べ、別に減るもんじゃないし、最近あまり着なくなったものとかもあるから有効利用ってやつよ」
「おう。なんでもいいが助かる。十七時に約束してるからちょっと巻きでもいいか?」
「十七時? ……ああ、もうあと四十分しかないのね。分かった。じゃあ自分の端末にアドキャラ入れてあたしの部屋に来て」
トトトっと軽やかに小鳥が階段を上っていく。
虎之助もその後に続き、まずは自分の部屋に荷物を置きつつパソコンを起動。起動と同時に画面に虎之助のアドキャラが出現し、ひどい棒読み加減で虎之助の帰還を出迎えた。
その無表情振りを無視して端末とパソコンを接続し、彼は自分の端末にアドキャラを移した。考えてみればこれが初めてのアドキャラ携帯である。
なんとなく複雑な気持ちのまま虎之助は隣の妹の部屋の前に移動し、ドアをノックをする。すぐに応答があったのでドアを開けると、目の前には実にファンシーな感じの女の子部屋が広がっていた。
「あんまりじろじろ見ない」
「おう。悪い悪い」
物珍しさからついつい観察してしまった事を詫びつつ、虎之助は机の椅子に座る小鳥の背後に立った。
「あ、虎兄様こんにちはーなのです」
「おう」
小鳥のパソコン画面の中から元気な声が聞こえてくる。そこに映し出されているのは、小学五年生くらいの金髪緑眼でおかっぱ頭の幼い少女だ。ナタリアと違って全身が映し出されており、なぜか青色のミニの着物で、足は白のオーバーニーソックスに下駄をはいているという一見して謎以外の何ものでもない出で立ちだった。
「ほら天鈴。クローゼットからもうあまり着てないのをまずは一着持ってきて。おにいに貸さないといけないんだから」
「はいなのです。すぐ持ってくるのです」
小鳥の命令に従い、画面の中の天鈴がからころと下駄の軽快な音を立てながらどこかへ消え、しかし五秒も経たぬうちにクリーム色のワンピースを手に抱えて画面に戻ってきた。
両肩の位置で結ぶもののようで、すでにリボンのような結び目が二つ見えている。
「これなんかがいいと思うのです。ボク的には髪の毛の色と同じ感じであんまり似合わなかったのです」
「あれ? ねえ天鈴。それって遠回しにあたしのセンス批判してるの? ねえ?」
「はう! 失言なのです! ほんはふほひへはははっはほへふう!」
小鳥が画面に指をのばし、むにーっと天鈴の頬を引っ張っている。
合わせて金髪少女の口調が自動でそれらしく変化しているので、まるで本当に頬を引っ張られているかのような光景だった。
なんというか、実に微笑ましいと虎之助は思った。
「まったくもう。そんな事言うならもう服を買ってあげないよ?」
「はう! それは駄目なのです。後生だから許して欲しいのですぅ」
頬を開放された天鈴が、神にでも祈るかのように膝をついて両手を上げた状態でぺこぺこ頭を下げている。
そんな様子は、まるで仲の良い友達か姉妹のようだった。そこには慎一郎とナタリアとはまた別の形での絆が確かに存在している。
「ふう。まあいいわ。ともかくは服ね。おにい」
くるりと椅子ごと振り返ってきた小鳥が、すっと虎之助に手を差し出してきた。何のつもりかと彼が視線で問う。
「端末貸してって言ってるの。接続しないとパソコンから送れないでしょ」
「そりゃそうだ」
虎之助は納得して端末を小鳥の手に置いた。彼女は受け取るとすぐにくるりと椅子を元に戻し、机の上に転がっていたコードを接続して何やら操作を始め、
「あ、いらっしゃいなのです」
「入室しました」
なぜかパソコンの画面上に虎之助のアドキャラが現れた。
「おい。なんでそっちに移ってるんだ?」
「なんでって、やっぱり実際に着せてみないと似合うかどうかわかんないじゃん。初期状態なんてもう覚えてないもん」
「いやそうじゃなくてだな」
「では早速お着替えでおめかしなのです。虎兄様はあっちを向いているのですよ。のぞくのはやらしーなのです」
「だから――」
「ほらおにい。反転反転」
取りつく島もなく回れ右をさせられ、虎之助は釈然としない気持ちのまま時が経つのを待った。
その間、振り向けない背後からはあーでもないこーでもないと服装やら髪型やらの談議が展開されていたが、直接見れない虎之助にはほとんど分からなかった。
そうして時計の針が十六時四十五分を回った頃になって、
「おっけー。完っ璧」
「会心作なのですよ」
そんな達成感溢れる声を上げた二人の許可を受け、虎之助はくるりと振り返った。
すると、そこにはむふーと満足げに鼻から息を吐き出す妹とそのアドキャラ。そして――
「お……」
そこにいるのは虎之助のアドキャラのはずだった。いや、その無表情な顔は間違いなく彼のアドキャラだ。
しかし、その姿はかなり変化している。ボブカットの髪形はセミロングのミニポニーテールになり、病院着のような薄青い前合わせはどこぞのセーラー服になって、胸元の特徴的な赤いネクタイリボンが良く映えていた。
スカートは変に短過ぎず、しかし黒タイツに覆われた足を惜しげもなく晒している。
なんというか、アドキャラであっても服装と髪型でここまで変わるのかと虎之助は素直に驚いた。
「どうよあにい。コンセプトは『初めての制服デートにどっきどき!』なんだけど」
「ポイントは胸元の激レアな赤いリボンと黒タイツなのです。ただのセーラー服少女ではないのですよ」
「いや、別にここまでせんでもなあ……」
確かにこれがさっきまで初期状態の外観だったと言われても、その無表情加減以外に原型が残っていない。服を借りに来たつもりが、ずいぶんと手を加えられてしまっていた。
「というか、服はまだしも髪型変更って金かかるんじゃなかったか? それとも、何かそれ用の物持ってたのか?」
「ふっふーん。あたしの天鈴を甘く見てもらっちゃ困るよあにい」
「なのです。ボクは厳しい修行に耐え、つい最近ようやくアドキャラ用の美容師資格を獲得したのですよ」
言って、画面の中で天鈴がどこからともなくハサミとクシを取り出し、背景に「ドドド」というオノマトペが見えそうなポージングを取った。
「売り物のカツラと違って二か月くらいでボサ髪になるのが玉に傷なのですが、気楽に安価にいつでも髪型変更が出来るのですよ。小鳥姉さまの学校でも引く手数多のぼろ儲けなのです」
どうだ参ったかと言わんばかりに画面の中の金髪少女が胸を反らし、
「うん。ちょっと黙ろうか」
「ひふへんはほへふ!」
額に青筋を浮かべた小鳥が再びむにーと天鈴の頬を引っ張り始めた。
最近妙に妹の金回りが良くなったと感じていた虎之助だったが、どうもそんな稼ぎ方をしていたらしい。学校で小銭を稼ぐという行為の共通点を見て、彼はああ自分たちは確かに兄妹なんだなと改めて納得してしまった。
「別に隠す事はないだろ。自分の実力で手に入れたものをどう使おうが自分の勝手だからな。俺だって定期テスト前に授業ノートのデータを慎一郎に売ってもらってるんだぜ?」
「え? おにいもそういう事してるの?」
「ああ。見た感じお前の稼ぎには到底届かないだろうけど、慎一郎と山分けしても一か月くらいは購買とか学食に困らないくらいは稼げるな」
そういえばと、虎之助は慎一郎が今度からデータの売却価格を上げると言っていた事を思いだす。
高校に入ると内容も増えるし、同じ中学出身の連中は中学時代に虎之助のノートデータに頼る事に慣れてしまい、たとえ値段が上がっても絶対に買うという事らしい。もはや麻薬か何かを売る時の商法である。
締めくくりはそんな彼らが呼び水になって顧客が増えるはずだという話だったと記憶していた。
「うわー……。慎一郎さんならやりかねないなぁ。でも、ナタリアさん怒らないのかな?」
「ナタリア姉さまはああ見えてお金には黒いのです。以前に一時間だけ借りた一万円が返す時には一万千円になってたのです。もう二度と借りないと心に決めたのですよ。トイチどころではなかったのですぅ」
「うっわ全然知りたくなかったぞその情報。ってか、あの人が止めない理由それかよ」
脱線話でわいのわいのと騒ぐ中、ただ一人だけそんな輪に加わらない者がいた。
彼女はゆったりとした動作で何かを確認し、再びゆったりとした動作で姿勢を正した。
「マスター。もうすぐ十七時になります。お約束はよろしいのですか?」
棒読み全開の声が冷や水のように浴びせかけられ、虎之助は神速の勢いで時計を確認した。時刻は十六時五十五分。約束の時間まであと五分だった。
「やっべ」
慎一郎は時間にうるさい方ではないが、虎之助の考えとして出来る限り遅刻は避けたかった。
「小鳥ありがとな。今度なにかおごる」
「あ、うん。って、そういえばあにいどんなゲーム始めるの?」
再びアドキャラを移した端末を差し出しながら訪ねてくる小鳥に、
「機奏戦記なんとかってゲーム」
虎之助は受け取りつつ口早に答えた。
「え?」
「え?」
その答えに小鳥と天鈴の言葉がハモったが、急いでいた虎之助はそれを不思議に思う事もなく部屋を後にする。
残された一人と一体は互いに顔を見合わせ、
「マジ?」
「なのです?」
そろって目をぱちくりとさせていた。
◆
部屋に戻った虎之助は端末から再びアドキャラをパソコンに移し、バーチャルリアリティログインの準備をするように命令を飛ばす。
その間に彼は机横の引き出しにしまってあるバーチャルリアリティ機器を引っ張り出した。二十年ほど前は全身を包み込むカプセルサイズの大きさが必要だったバーチャルリアリティ機器だが、今はバイザーとグローブにブーツの三点セットにまで縮小されている。
眼鏡の上からでも装着出来るバイザーをあて、グローブとブーツを素早く身に着けた虎之助は、椅子の角度を調節して長時間座っていても疲れ難い角度で体重を預けてからアドキャラにログイン指示を出す。
「了解いたしました。これより白河虎之助様のバーチャルリアリティログインを開始いたします。アストラルトランスポーター機動。座標設定……完了。固定……完了。転送位置周辺のスキャン…………完了。異常なし。システムオールグリーン。よろしければ最終選択をどうぞ」
アドキャラの言葉尻に合わせて、虎之助の視界に『YES/NO』の選択肢が表示される。彼は迷いなくYESを選択し、
「ログインの承認を確認。バーチャルリアリティログイン、開始します」
「……くっ」
ピリッとした痛みが全身を貫き、虎之助の視界は闇に包まれた。
しかしその闇は次の瞬間にはどこかへ消え去り、椅子に座っていたはずの虎之助はいつの間にかどこかの煉瓦積みの壁を背にして立っていた。
「お加減はいかがですか?」
左手から聞こえてきた声に反応して顔を向けると、そこには自分のアドキャラがいて、相変わらずの無表情で佇んでいた。
「いや、問題ないな」
「そうですか。それでは参りましょう。ゲームランドへの入り口はすぐそこです」
すっとのばされた指が示す方向。虎之助がそちらに顔を向けると、待ち合わせの時間前にきっちりと来ていたと見える慎一郎の姿と、その隣にナタリアの姿があった。
時刻を確認すると、ギリギリ十七時二分前だ。
「よし。行くか」
「了解です。マスター」