2.不穏
十九時過ぎに帰宅して、直後に夕飯の用意が出来た事を告げられた虎之助は、一度部屋に戻って鳳華をパソコンへ移してからすぐまた下へ降りて来ていた。
今日も今日とて家族三人での夕食なのだが――
「……なあ小鳥。お前、何かあったのか?」
「え!? あ、ああうん……ちょっと、ね」
隣に座る小鳥の様子がおかしい。いつもなら学校で何があったとかいろいろどうでもいい事で虎之助に絡んできたりだとか、そういった賑やかな夕食になっているはずだというのに、今日に限ってはやけに大人しいのである。
様子がおかしい事は美雪にも分かっているのだろうが、彼女は心配そうな表情をするだけで何も言ってはこない。
「……ふむ」
そういえばと、虎之助は今日は小鳥の帰りが少し遅かった事と、帰って来た時に美雪と何か話をしていた事を思い出した。
おそらく美雪が何も言わないのはすでに何かしら事情を聞こうとして失敗しているからだろう。悩みの種が分かっているのなら、彼女がそこまで心配そうな顔をするとは思えない。
となれば、虎之助が出掛ける直前のやり取り。なにか言いたそうにしていた小鳥の話はまさにそれに関係するものであった可能性が高いだろう。
だとするのならば、あの場で聞かなかった事は少々問題があったと言わざるを得ない。母親には何も言わず、しかし兄である自分に何かを打ち明けようとしていたのだから、すぐにちゃんと聞いてやるべきだったのだ。
虎之助は夕飯を口に放り込みつつ、後で尋ねてみようと心に決めた。
「……ごちそうさま」
「ん?」
夕食の半分程度を胃に収めた虎之助は、自分よりも早いごちそうさまの言葉に驚いて首を横に向ける。
小鳥の前に並ぶ夕食は、どれも一口程度しか箸を付けられていなかった。
「あら? もういいの?」
「ごめん。ちょっと食欲ないから」
小さくそれだけを言って、彼女はふらりとリビングを出て行ってしまった。
その姿を見送り、トントンと階段を上って行く音を耳で拾いながら、虎之助はひそひそと正面の美雪に話しかけた。
「……やっぱ変だな。なあ母さん。あいつ帰って来た時何か話した?」
「え? ……ううん。帰って来た時に暗い顔をしていたから私も尋ねたんだけど、大丈夫だからって何も話してくれなかったわ。そういう貴方はどうなの? 何か聞いてない?」
先ほどよりも美雪の目に心配の色が濃くなっている。普段から父親不在の家を一人で守っている母親であるだけに、虎之助の中には彼女に対する強い敬愛の念があった。
「いんや。まだ何も聞いてない。けど、気になるから後でちょっと聞いてみるよ」
「そうしてくれる? あの子、貴方には素直だと思うから」
「ん」
美雪の心労を一刻も早く軽くしてやらねばならない。虎之助は残りの夕飯をがっとかき込んで頬袋を満杯にし、素早く咀嚼して飲み下す。
「ごちそうさま。それじゃちょっと行ってくる。まあ、そんなに心配する必要もないと思うけどね。あいつだってもう中学二年なんだしさ」
「……そう、ね。うん。とにかくお願いするわ」
「おう」
食器の片づけはしなくてもいいという美雪の言葉に甘え、虎之助はリビングを後にした。その足ですぐに妹の部屋の前に行き、少し緊張しつつもコンコンとノックをする。
「小鳥。ちょっと話があるんだけど、今いいか?」
しかし、部屋の中から反応がない。もう一度ノックをしてしばらく待ってみるが、やはりうんともすんとも言わなかった。
「……開けるぞ?」
少々不安になった虎之助は一言断ってからゆっくりと、しかし相手に伝わるようにわざと音を立ててドアを開ける。
内開きのドアがすっかり開き、ついこの間見たばかりの部屋の中を恐る恐る覗き込むと、
「……なるほど」
虎之助は小鳥が返事をしなかった理由を理解する。
彼女は椅子に身を預け、完全装備でバーチャルリアリティログイン中であった。この状態では当然ながら現実世界側で声をかけたところで相当に大きな声を出さない限りは聞こえないだろう。
「飯も食わずに落ち込んでるのかと思えば、遊びに行く元気はあるんだな」
何とも拍子抜けではあったが、一応そこまで深刻な状況でもなさそうだという事に彼はやや安堵する。
「っと、いつまでもここにいるわけにもいかないか」
理由があったとはいえ、勝手に部屋の中に入ったとなれば後で何を言われるか分かったものではない。早々に退散するが吉というものだ。
虎之助はそろりそろりと妹の部屋を出てドアを閉める。その足で美雪に問題なさそうだと伝えに行っても良かったが、勝手な見立てで報告するのはどうだろうかと思い直し、彼は自分の部屋に戻った。
「あ。虎之助お帰り」
「ん。ちゃんと食べたか?」
「うん。今日もごちそうさまでした」
「おう」
最近はもはやいつも通りと言っていい会話をかわし、虎之助は引き出しの中からメモを取り出してさらさらと文字を記していく。
「何をやってるの?」
「ちょっとな」
書き上げたメモを机の端に重石を乗せて固定し、彼は時計を確認した。時刻はちょうど二十時半になりそうというところだ。
「よし。鳳華。ログインの準備をしてくれ」
「あ、うん。分かった」
手早く機器を身につけ、虎之助は仮想世界に身を投じた。
◆
「何か一悶着あったみたいなんだよね」
アルヴァテラにログインし、いつもの様に噴水前で落ち合ったオディットが開口一番にそんな事を言って来た。
その後ろではナタリアが珍しく困ったわねという顔をしている。
「何かってなんだろうね」
くいくいと服を引っ張るホウカがビャッコに尋ねてくるが、当然にしてわかるわけもない。
首を傾げるビャッコに対し、
「ああ。えっと、二週間くらい前にランキング五位の『ルシーニュ』とランキング八位の『バルバロ』が試合していたのを覚えているかい?」
オディットがそんな事を聞いてきた。
「そういやあったなそんな事」
それは初めてオディットと試合をした日の話だ。確かにすぐそこにあるスクリーン一体型のステージ上で二人が何やら言い合いをしていたはずである。
「それとその悶着と何か関係があるのか?」
「うん。まあ僕もさっきちらりと小耳に挟んだだけなんだけど、どうもここ最近、バルバロとその仲間がルシーニュを追い回してるらしいんだよね。執拗に対戦を申し込んだりとかの嫌がらせみたいな事もしてるって話だよ」
「おいおい……」
なんともまあ情けない話である。ゲームなのでリアルがどうかは知らないが、少なくとも見た目は小柄な少女であるルシーニュを大勢で追いかけ回すなど、現実世界だったら通報即お縄になりかねない状況だ。
「それってルシーニュが運営に訴えられないのか?」
ビャッコとしては率直な意見を述べたつもりだったが、オディットの顔は険しい。
「難しいと思うよ。なにせほら、彼女はランキング五位なわけだから、必然的に多くの人目に触れて人より多くの対戦申し込みを受けてもおかしくない立場にあるからね」
目立つ立場になっている以上、降りかかる火の粉の量は多くなるという事だろう。なまじこのゲームが対戦を主眼に置いているため、相手に対戦を申し込む事を規制対象にするのは難しい。
「ストーキング行為に関しては手を打てる可能性はあるけれど、ここでは直接的な暴力行為に制限が入るからあまり重くは見られない可能性もあるよね」
「直接的な暴力に制限?」
オディットの言葉に引っ掛かりを覚えて、ビャッコは隣のホウカをまじまじと見つめた。
確か初めて彼女に会った時、彼は顔面にグーパンをもらっていたはずである。おもいっきり直接的な暴力ではないだろうか。
「ホウカちゃんは僕らとは違うからね。というか、そもそもアドキャラの場合は誰に命じられても人に危害を加える事が出来ないはずだから、今言った規制はあくまでプレイヤーに対してだよ」
「ふむ」
言われてみればその通りである。過去にとあるSF作家が提唱したいわゆるロボット三原則というものがアドキャラにも適用されており、その行動は縛られているのだ。
「腹立たしい事ではあるけれど、一介のプレイヤーに過ぎない僕らには何も出来る事がない。せいぜいそういった場面を見かけたら写真でも撮って、運営に問題提起するくらいだろうね。本人以外からも複数の通報が行けばさすがに何かしら動きはあると思うし」
肩をすくめ、オディットはふうとため息を吐いた。
「ゲームの世界でもそういった連中の腰が重いのは変わらないって事だよな」
「まあね。でも、ここがゲームの世界である以上はやっぱりガチガチの規制をかけるわけにもいかないよ。縛り過ぎたら『つまらない』ってユーザー側に切られちゃうからね」
オディットの言う事はもっともだった。しかし、自分で言っておきながら今回の件に関しては彼も思うところがあるようだ。苦虫を嚙潰した様な表情になっている。
「まあ、この話はこれまでにしよう。先にカード屋に寄るんだよね?」
「ん。通常パックを買えるだけと、プレミアを三つ程な」
「うーん。もう完全にドハマリしてるよねビャッコ」
「引っ張り込んだのはお前だがな」
時間と実費を天秤にかけた場合、どう考えてもプレミアを買う方が効率がいい。確定でアンコモン一枚とレア二枚が入っているため、レアで欲しいカードを揃えやすいのだ。
当然残り二枚はランダムだが、ほとんどの場合がレア以上のカードであるため、ビャッコの所持カードも随分といろんなものが増えてきた。
「けど結局、アルティメットレア以上は一枚きりなんだよな」
「ああ。あのチュートリアルでコックピットにあったっていうカードでしょ?」
「おう」
「うーん。やっぱりキャンペーン中だったからなのかな」
ビャッコが唯一持っているアルティメットレアカードは、初めて操奏機神を操作した時にデッキリーダーから飛び出してきたカードだ。
オディットによると、もうその時点でおかしいという事らしい。
「前の時も言ったけど、普通コックピットで手に入る初期デッキの最後のカードはスーパーレアのキーカードのはずなんだよね。その辺りもバグの影響なのかもしれないけど」
「確かにプレイし始めてから初期に手に入るにはとんでもないカードだって事は分かったけど、今のところ一回も使えてないんだよな。コストが重過ぎてゲージブースト系のカードを入れないとまず運用出来ねえし」
ビャッコがプレミアムパックに手を出した理由の一つがまさにそれである。ゲージブースト系のカードは初期デッキに含まれる物以外はほとんど軒並みレアリティがレア以上であるため、プレミアムパックでも買わないといつ揃えられるか分かったものではなかったのだ。
「今回のパックであと一枚欲しいのが出れば、作りたいデッキの雛型が出来るんだけどな」
「じゃあじゃあ、早くカードを買いに行こうよ」
ビャッコの手を取って、ホウカがぐいぐいと引っ張ってくる。実家に連絡を入れた事で少しは気が晴れたのだろう。なんだかんだで両親と連絡が取れるかもしれない事が嬉しいに違いない。
「あらあら。うふふ」
「そうだね。さくっとカードを買って、また試合をしようか」
「お、おう」
ホウカに急かされるままに移動を始め、四人はカード屋の看板が見えるところまでやってきた。
ショーウィンドウにずらりとレアカードが並んでいる様を眺めるのが最近のホウカのお気に入りなので、こらえきれなくなった彼女はビャッコの手を離し、一足先にカード屋へ突撃しようとして、
「きゃっ」
「あっ」
裏路地から飛び出してきた誰かと盛大にぶつかり、ともに地面に転がってしまった。
「ホウカ!」
ビャッコは慌てて倒れたホウカに駆け寄り、状態を確かめる。
「いたた……。うー……」
身体を起こした彼女は不満そうな声を漏らしてはいたものの、特に問題はないようだった。
その事に安堵し、次いでビャッコは路地から飛び出してきた誰かの方へ目を向ける。
そこにいたのは銀色の髪をした少女で、彼女もまたむくりと身体を起こしており、そばでは彼女のアドキャラがおろおろとした様子で路地の方を振り返ったり周囲を見回したりしていた。
「あれ?」
大丈夫ですかと相手に声をかけようとして、ビャッコは少女がどこかで見た事のある相手だという事に気が付いた。
長い銀髪のストレートに黒のブラウスと赤チェックのキュロットスカートとくれば、それは間違いなくランキング五位にその名を連ねるプレイヤー『ルシーニュ』である。
また妙なところで遭遇するものだとビャッコが驚いていると、
「ちょっと危ないじゃない。どこに目を――つけ、て……」
彼女は黒縁のアンダーリムを通した銀色の目できっと睨み付けてきて、しかし突然はっと目を見張ったかと思うと変なところで言葉を切り、それ以降はごにょごにょと一気に声が小さくなってしまった。
一体何がどうしたんだとビャッコが首を傾げると、ルシーニュは若干頬を赤く染めながらツーンと顔を反らしてしまい、ますます持ってわけの分からない状態になる。
「はう。これは不味いので――」
「ん?」
いきなりどこかで聞いたような声が聞こえてきた気がしたのでビャッコがそちらへ視線を向けると、バイザーを付けた彼女の歌奏姫が必死に口を両手で塞いで声を抑え込んでいるところだった。
そしてそれを顔をそらしていたはずのルシーニュがすごい目で睨み付けていて、完全無欠に理解不能な事態に陥っている。
だが、そんなおかしな二人はやや遠くから聞こえてきた誰かの怒声によって急に険しい表情になり、
「ごめんなさい。急いでるから」
早口にそれだけ言って、ルシーニュは歌奏姫の手を引きながらどこかへ走り去ってしまった。
ビャッコはそれを呆然と見送り、同じく何も言わずにいたホウカへ視線を移すが、彼女もまた地面に座り込んだ状態で首を傾げていた。
その場の誰一人として今の邂逅に首を傾げている中、ビャッコはとりあえずホウカに手を差し伸べて立ち上がる手助けをしてやる。
「おいそこのやつら」
「ん?」
ホウカを立ちあがらせたところで、先ほどルシーニュが飛び出してきた路地の方からなにやらぞんざいな声が聞こえてきた。
何事かと視線を向けると、路地の向こうから三人ばかりのプレイヤーが走ってきているのが視界に入る。彼らは全員がバラバラの服装なのだが、何かの証のように同じ赤いスカーフを左肩に巻いていた。
「こっちに小柄で長い銀髪の女プレイヤーが来ただろう? どっちに行ったか教えろ」
三人組はすぐにビャッコたちの前までやってくると、いきなりそんな事を聞いてきた。早く答えろと言外に含ませた感じであり、どう考えても人に物を頼む態度ではない。
そのぞんざいな物言いにカチンときたビャッコは、何か言い返してやらなければ気が済まないと口を開けようとしたところで、
「彼女ならあっちへ行きましたよ?」
にこやかな笑みを浮かべながらまったく見当違いな方向を示すオディットに先を越され、言おうとしていた言葉を飲み込んでしまった。
「あっちか。おいそこをどけ」
「きゃっ」
礼の一つも言わず、彼らは進行方向上にいたホウカを乱暴に押しやりつつ走り去ってしまった。なんともはや乱暴かつ腹の立つ連中である。
押されたホウカはバランスを崩して再び倒れかけたものの、ビャッコが助けるよりも早くいつの間にか移動していたナタリアが優しく受け止めた事で転倒を免れる。
「どうやら今のがバルバロのグループ構成員たちみたいだね」
走り去る三人組を見送りながら、オディットが他人事のような感じの声を出す。
ビャッコもまた行く先の人を押しのけながら進んでいく彼らの背中にちらりと視線を向け、しかしすぐに友人へとそれを移した。
「みたいだな。ってか、とっさにあんな嘘ついて大丈夫なのか?」
「別に大丈夫だと思うよ。見間違いは誰にだってあり得るわけだし」
ひょうひょうと言ってのけるあたりはさすがである。ビャッコは呆れ半分、感心半分のため息を吐いた。
「うー……。なんか今日は踏んだり蹴ったりだよ」
「災難だったわね」
衣服に付いたホコリを払いながらテンションを下げているホウカに付き添い、ナタリアが後ろのホコリを払ってやっている。
確かに先ほどの彼女はやや災難だったと言えたが、それよりもルシーニュというプレイヤーの方が災難だろう。ついさっき耳に入れたばかりだったが、状況は思ってた以上に危険な雰囲気である。
「……それはそれとして、なんか変な感じなんだよな」
連続した出来事が終わった事で余裕を取り戻したビャッコは、先ほどのルシーニュとの遭遇で感じた違和感を思い出していた。
それは彼女が人の顔を見ていきなり驚いた事もそうだが、バイザーの歌奏姫も声を聞かれまいとして口を塞いだように見えた事にも影響する。
二人の反応を総合すると、まるでビャッコの事を知っているような感じに思えたのだ。しかし、ゲームを始めてわずか二週間程度の彼とトップランク五位のプレイヤーとに接点などあるはずもない。
「うん? ビャッコどうかしたのかい?」
「……いや、今のところは何でもない」
「なんだいそれ? 近々何かあるって感じにも聞こえるけど」
「かもしれないな」
正直なところはビャッコにも分からない。ただ、なんとなくだがルシーニュとはすぐにまた再会する事になるような気がしていた。
それは曖昧な直感のようなものだ。普通に考えれば何かの思い過ごしで済まされそうなものだが、不思議な事にそれからずっと、ビャッコは彼女の事を忘れる事が出来なかった。




