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2.居候・彼女の御飯




 ピリッとした痛みが全身を貫き、直後に虎之助は周囲の空気が変化した事に気が付く。閉じていた目を開けると、バイザー越しに自分の部屋の中が見えた。

 ちらりと時計を確認すると、時刻は十九時十分を少し過ぎたころである。


「ん」


 現実世界に戻ってきた事を確認した虎之助は真っ先にグローブを外し、次いでバイザーとブーツを外していく。バーチャルリアリティ機器が小型で安価になった事は喜ばしい事だが、着脱の面倒臭さは余り解消されていないのが現状だ。

 もっと先の未来になればこの辺りも徐々に解消されていくのだろうが、今のところ新型の機器が出るという話を虎之助は聞かない。


「ふーん。ここが虎之助の部屋なんだ」

「あんまりじろじろ見るなよな」


 目の前から聞こえてきた声に反応し、虎之助は顔を上げてパソコンのディスプレイを確認した。


 そこにはログアウトについてきた鳳華の姿があって、興味深そうにきょろきょろ視線を巡らせている。

 その動きはディスプレイに内蔵されているカメラ越しに見ているというよりは、画面に映し出されている彼女の闇色の瞳そのもので見ているという感じだった。


「へえ。虎之助結構いいパソコン使ってるんだね。もともと管理してた子の手入れが行き届いているのもあるんだろうけど、すごい居心地がいいよ」

「……そうなのか?」


 鳳華の言葉に虎之助は首を傾げる。仮想世界に行った事はあっても、さすがに自分のパソコンに入った事はない。それ以前に自分のパソコンにバーチャルリアリティログインをするという話自体を聞いた事がなかった。


「まあ、確かにスペック的には悪くないとは思うが、普通の量産品だぞ?」

「量産品でも使っている人と管理している子で全然違った環境になるんだよ。見た目じゃ分からないから虎之助には想像しづらいとは思うけど」

「……ふーん。そんなも――」

「おにい戻ってる?」


 ふいに背を向けていた部屋のドアがノックされ、外から小鳥の声が聞こえてきた。図ったかのようにピッタリのタイミングだが、これは別に不思議でもなんでもなく、単に部屋が隣同士なので物音か何かを聞きつけているだけである。

 以前から彼女は、虎之助が仮想世界へ行っている間に用事が出来た時には、彼の帰還に合わせて部屋をノックする事が多かった。


 ゆえに虎之助は椅子に座ったままくるりと振り返り、いつも通りにドア越しに答えを返す。


「戻ってるぞ。なにか用か?」

「えっと、お母さんが夕飯は二十時くらいになるってさ。それで、少し空きの時間あるからちょっと勉強見てくれないかなって思って。……中に入ってもいい?」

「ああ、いいぞ――っと待ったぁ!!」


 これまたいつも通りに妹の入室を許可しようとして、しかし虎之助は即座に静止の言葉を放った。


「お、おにい?」


 急に大きな声を出されてとっさに手を引いたのだろう。廊下側で押し下げられていたドアの取っ手がガチャリと音を立てて水平に戻り、小鳥の驚きまじりの声が聞こえてくる。


「虎之助? 今の声はだ――むぐ……」


 ちょうど虎之助の陰になっているドアの方を見ようと頑張っている鳳華の口を、彼は神速の動きで後ろ手に指をのばして塞いだ。


「むぐー!」


 当然にして鳳華が避難の目を向けてくるが、虎之助は自分の口にも人差し指を当て、彼女に静かにしてくれとジェスチャーを送る。


「むぐ?」


 それが功を奏したのか、鳳華は一度ちょこんと首を傾げた後にコクリと頷き、つんつんと口を塞いでいる虎之助の指を示してきた。いい加減に離せという事らしい。


 彼がそれに応じてゆっくりと指を離してやると、鳳華は口元に手を添えてちゃんとひそひそ声を殺して話しかけてくる。


「今の声、誰?」

「妹だ。お前が今着てる服の元々の持ち主だよ」

「ああ。そういえば借り物なんだっけこれ」


 ピンピンと鳳華が胸元のリボンを引っ張った。


「それはともかく、お前ちょっとの間黙ってろ。少なくとも妹の前では話しかけられても下手にしゃべるな」

「なんで?」

「お前の事を説明するのがめんどい。それに、この話はあまり広めるべきじゃない気がする」


 謎の影に追われていた云々を別にしていまだに半信半疑だが、鳳華の言っている事が全部真実だと仮定すると、彼女の存在は世界的にも類を見ないものという事になるだろう。

 完全なる自我を持つデータ生命体。疑似ではない本物の感情を持ち、人間と見分けのつかないどころか全く変わらない振る舞いや思考を可能とする。


 それは人の開発している人工知能であれば一つの極致と言えるだろう。彼女はアドキャラたちの様に人間に行動を制限される事がない。己の意思で物事を判断し、己の意思で行動する。完全に独立して自立した一個の生命体として確立しているのだ。


 そんな存在がいる事が公にでもなったら、彼女は即座に捕獲されてモルモットにされるだろう。彼女を研究する事で、アドキャラがAA社にもたらしている莫大な利益をごっそり奪えるかもしれないのだ。

 そんな金の卵の可能性を秘めたものを見逃す手はない。


「俺個人はお前をどうこうするつもりはないが、他の人間もそうとは限らない。だからお前はしばらく俺のアドキャラの振りをしろ。後で慎一郎とナタリアにもその辺りの事はよく言い含めておくから」

「…………うん。分かった」


 画面の中の鳳華はそれでもまだ不服そうではあったが、虎之助の言葉が自分の身を案じてくれているという事は理解したのだろう。しぶしぶながらも頷いて、小さくため息を吐き出していた。


「……おにい? えっと、もう大丈夫?」


 ドアの向こうから恐る恐るといった感じの声が聞こえてくる。

 虎之助は鳳華に元のアドキャラがどういった態度を取っていたか要点を説明し、彼女が小さく頷いたのを確認してから、


「ああ悪い悪い。ちょっと色々あってな。もう入ってきてもいいぞ」


 今度こそ入室の許可を出してやった。

 取っ手がガチャリと押し下げられ、ゆっくりと内開きのドアが開いていく。その向こう側から薄手のタンクトップにホットパンツ姿の小鳥が、胸元を隠すように抱えた勉強道具一式を持って部屋に足を踏み入れてきた。

 彼女の動きに合わせてピコピコツインテールが揺れている。


「んで、何が分からないんだ? ああ、勉強道具はいつも通りそこのテーブルな」


 虎之助はさりげなく自分の身体でパソコンの画面を隠しながら、小鳥と彼との間に置いてあるガラス製のテーブルを示した。

 しかし、なぜか彼女は彼の言葉に曖昧に頷きながらもきょろきょろと何かを探すように部屋の中を見回している。


「小鳥?」

「あ、うん……」


 不思議に思った虎之助が声をかけると、小鳥は少しだけびくりと身体を震わせて、それからやや焦ったように持ってきた勉強道具を大人しくテーブルの上に広げだした。

 その際、ぼそぼそとした声で「変だな。確かに知らない女の子の声がしたのに……」などと呟いていたようだが、


「ん? 何か言ったか?」


 上手く聞き取れなかった虎之助が尋ねると、


「ううん。なんでもない」


 特に焦るでもなくすまし顔で答えていた。彼女は近くに落ちているクッションを一つ下に敷き、姿勢を正して待ちの体勢になる。


 虎之助はそんな妹の姿に内心で首を傾げつつ、椅子から立ち上がってそれをパソコンラックの下部に押し込む。その時に鳳華に対して目で大人しくしていると告げると、分かっているのかいないのか彼女は親指を立てて突き出してきた。

 そんな様子に内心でため息を吐きつつ、虎之助は自分も別のクッションを掴んでテーブルの前にセットし、ちょうど小鳥の対面に腰を下ろす。


「んで、何が分からないんだ?」

「えっと、数学のこれなんだけど」


 小鳥がテーブル越しにぐいと身体をのばして年頃の女の子らしい装飾の施された電子書籍リーダーの画面を示してきた。思いっきり前かがみになっているので魅惑的な胸元が全開なのだが、いい加減見慣れているので虎之助は特に反応を示さずに開かれたページの内容を記憶していく。


「なるほどな。確かにこれは複雑そうに見えるが、公式を三つも暗記すればそう難しくもないぞ?」

「えー。ねえおにい。いつも思うんだけどそんな簡単に言わないでよね。そりゃあたしだってお母さんの子供だからちょっと特殊な事は出来るけど、記憶力はおにいと違ってふつーなんだからさ」


 虎之助の並列思考能力は母親譲りのもので、それは妹である小鳥も同じ能力が備わっている。

 しかし彼女がもつ特別な能力はそれだけで、彼のようなとんでもない記憶力は持ち合わせていなかった。


 その代わりにというか、彼女は人一倍要領がいい性格をしているので、日がな一日中自由を満喫して遊び呆けているようで学校の成績はとても良い。

 加えて分からないものは分からないと人に聞ける素直さもあり、こうして勉強に関して相談に来る事も珍しくはないのだ。


「そりゃそうだが。しかし、この時間に勉強しているなんて珍しいな。いつもなら現実にせよ仮想にせよどこかに出掛けてるってのに」

「え? いや、あ、うん。ほ、ほら、うちの中学って六月の終わり頃にテストあるでしょ?」

「おー。そういえばそうだったな。あの中学は期末の日程がちょっと早いんだよな」


 小鳥の通う中学校は虎之助の母校でもあるのだが、よくある他の学校と違って一学期の中間テストというものが存在しない。代わりに期末の日程が他校よりも早いため、六月に入ったばかりとはいえそろそろテストを意識しなければならない時期ではあった。


「俺はつい最近に中間テストやったばっかだからなー」

「そっか。おにいの高校は中間あるんだっけ」

「おう。中学に比べると覚えないといけない事が多いんだよな。さすがに」

「ふうん? そんなに違うんだ」


 あれやこれやと会話を挟みながらも、いつも通りに小鳥が勉強を進め、分からないところを虎之助が説明してやりながら時を刻んでいく。

 そうこうしているうちに時計の針が二十時にさしかかろうとしたところで、


「二人ともー。ご飯出来たわよー」


 階下から母親の大きな声が聞こえてくる。


「うし。ちょうどキリもいいし、先にメシだメシ」

「ふう。そうだね。あ、でももう大丈夫だよおにい。たぶんさっきのとこまでが試験範囲だから、これ以降は試験終わるまで手を出す必要ないんだ」

「ん? って事はこれって復習じゃなくて途中から予習だったのか?」

「うん。おにい教えるの上手いからせっかくだしと思って」


 あははと屈託なく笑う小鳥を見て、虎之助は体よく利用されながらも調子の良い奴めとテーブル越しに手を伸ばして彼女の頭をぐしぐしかき回してやる。


「ん……」


 髪の毛をくしゃくしゃにされているというのに、小鳥は文句を言うでもなく大人しく虎之助にされるがままになっていた。

 ややうつむいた彼女の顔にはわずかに朱をさしているのだが、己の手で死角を作っている彼には分からない。


 ひとしきり撫で回して満足すると、虎之助は小鳥の頭から手を離してぐっと身体をのばした。


「もう。おにいのせいで髪がぐしゃぐしゃだよ。ちょっと直してくる」

「おお。悪い悪い」


 見かけだけの怒り顔を作った小鳥は、持ち込んだ勉強道具を手早くかき集めると、さっさと部屋を出て行ってしまった。去り際に「べー」と舌を出していたのはご愛嬌である。


 そうして妹の姿を見送った虎之助は、ゆっくりと立ち上がって自分も部屋の外へと向かう。


「ちょ、ちょっと待ってよ」

「ん?」


 だがそんな背中に声がかかり、彼は立ち止って振り返った。

 するとそこにはきょとんとした顔の鳳華がおり、まるで引き止めるかのように虎之助に向かって手を伸ばしている。

 その姿に首を傾げつつ、しかしその手が気になった彼は画面の前まで戻って彼女の様子をうかがった。


「どうした?」


 特に何か問題が発生したようには見えない。だが、画面の中の鳳華は呆けたような表情でただ一言――


「私のご飯はどうなるの?」


 そんな事を言いだした。


「…………は?」


 彼女の言葉を理解するのに、今度はたっぷり二十秒の時間がかかった。彼の頭脳をもってしても今の発言を飲み込むためにはそれだけの時間がかかったのである。


 虎之助は一度深呼吸をしてから再度現状の確認を行う。

 家出した少女を家族に内緒で自分の部屋に匿い、時刻は夕餉の時を迎えた。今の状況をひどく簡易に表現すればそのようになるだろう。であれば、今の鳳華の発言におかしいところなど何もない。むしろ至極当然の言葉だ。


 だが、である。しかし、である。問題なのはその簡易さの中からは読み取れない要素。即ち家出少女が人ではなく自称データ生命体であるという点だ。


「いや、ご飯って言われても……」


 そもそも彼女は何を食べるというのだろうか。まかり間違っても今から虎之助が食べようとしている物と同じではあるまい。パソコンの中から出てこれるのであれば別だが、そんな事が出来るはずもないのだから。


「そもそもお前って、ご飯がいるのか?」

「当然でしょ。言ったじゃない。わたしはアドキャラとは違うの。ご飯ないと飢えて死んじゃうの」

「……マジか。あー、まあいい。それで、ご飯って言ってもどうすればいいんだ?」


 なにが必要なのか分からない以上、知っている当人に聞いてみるより仕方がない。


「さっき飲んだカルピスソーダみたいに料理のデータってない? 虎之助たちにとってはただの味覚データだけど、わたしにとっては本物のご飯なんだよ」

「む?」


 それは思っていたよりもずっと普通だった。虎之助としてはもっと無理難題に近いものを要求されるかもしれないと身構えていただけに、肩透かしを食った気分である。


「食べ物のデータか。確かマガジンか何かの付録に新作弁当の味見用データがあったと思ったが……」


 虎之助はマウスを手に取り、記憶をたどってフォルダを開いていく。

 パソコン内のいらないデータや長期に使っていない物の整理は今は亡きアドキャラに任せていたが、彼はその中で勝手に捨てられない様に一時保存フォルダというものを作っていた。件の味見データも確かそこに入れてあるはずだとフォルダを探り、


「あったあった」


 目当てのものを発見。それをコピーしてデスクトップに張り付け、


「これなんかどうだ?」


 鳳華の近くまでドラッグしてやる。


「お弁当のデータ? ふーん……」


 画面の中でホウカがデータを手に取ると、ただのアイコン表示だったそれが本物のようなお弁当に変化した。どうやら彼女が触れる事でそのような形になるらしい。

 鳳華はすんすんとそのお弁当の匂いを嗅ぐと、付属していた割り箸をぱきりと割っておかずの鶏のから揚げをつまみ上げる。品定めするようにじろじろと眺めた後でぱくりとそれを口に入れて――すぐに吐き出した。


「うええ……」

「え? あ、おいどうしたんだ?」


 画面の中で顔をしかめた鳳華が手に持っていた弁当を放り出してぺっぺと口に入れたものを吐き出していた。その仕草に合わせて、デスクトップ上に謎のデータが散乱し始める。


「なんだこれ?」


 虎之助が増え続ける謎のデータを調べてみると、散らかるそれは破損したデータ扱いになっていてバイト数も極めて少ないという事が分かった。

 そのうちの一つ、鳳華が放りだした弁当もいつの間にか同じアイコンの壊れたデータ扱いになっていて、それだけは他のものよりバイト数が多くなっているようである。


 その事から、虎之助は散乱するものが弁当データの残骸である事に気が付いた。

 つまりは鳳華が吐き出した物は弁当データの一部を咀嚼して細かく砕いたものという事になるのだろう。そのせいで壊れたデータ扱いになっているというわけだ。


「もう。ひどいよ虎之助! このお弁当のデータこのパソコンの中で複製したでしょ!」


 ぷくーっと頬を膨らませた鳳華が噛みつかんばかりの勢いで虎之助を睨み付けてきた。

 彼女の言う通り渡した弁当のデータはフォルダからコピーで引っ張ってきたものだが、それでなぜ責められなければならないのかが虎之助には分からない。


「家庭用のパソコンの中で複製した物なんか食べれるわけないよ。虎之助には分からないだろうけど、オリジナルから複製するだけでものすごい味が劣化するんだから」

「そういうものなのか?」


 虎之助にとってはオリジナルデータも複製データも見分けがつかないが、どうやら鳳華にとっては全く違ったものという認識があるらしい。


「そういうものなの。……ねえ虎之助。今持ってきたお弁当データの元はどこにあるの?」

「おう。ちょっと待て」


 鳳華に尋ねられ、虎之助は閉じてしまったフォルダを再度開いて、今度は複製しないでそのままデータをデスクトップに持ち出した。

 それをもう一度そばまで持って行ってやると、彼女はすぐには手を付けずに何やら調べる様な仕草をして、盛大な溜息を吐き出した。


「……うーん。そっか。このお弁当自体が今の時点で二次複製品なんだね。そういえば電子マガジンの付録データなんだっけ?」

「ああ。なんでとっといたのかよく分からんけどな」

「むー。ギリギリ食べれなくはないと思うけど、いきなりだったしあまりわがままも言えないよね」


 鳳華はぶちぶちと何やら愚痴をこぼしながら心の中で葛藤していたようだが、どうも覚悟を決めたらしい。いただきますとちゃんと手を合わせてから彼女は弁当を食べ始めた。

 それは空いた腹を満たすための作業か何かのようで、彼女は黙々と弁当を口にしていた。


 正直な話、虎之助から見てもあまり美味しそうに食べている様には見えない。そこまで気を使う必要もないはずなのだが、彼はどうにも自分が悪い事をしているような錯覚に陥っていた。


「あれ? 虎之助もご飯呼ばれたんでしょ?」


 早く行かなくていいのかと鳳華に言われ、


「あ、ああ。じゃあちょっと行ってくる」


 虎之助は曖昧な返事を返しながら彼女に背を向ける。


「早く戻ってきてね」

「……おう」


 背後から掛けられた声に、彼は肩越しに振り返りつつ片手を上げて応えた。


「大人しくしてろよ」

「うん」


 元気の良い返事に背中を押され、虎之助は自分の部屋出た。





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