最後の時はあなたと
二十年の月日が流れた。
王宮の執務室で、アメリは窓の外を眺めていた。もう四十歳を目前にした彼女の顔には、歳月の重みと、王妃としての威厳が刻まれていた。
金色の髪には、わずかに白いものが混じり始めている。でも、その青い瞳は、昔と変わらず澄んでいた。
「母上」
扉がノックされ、長男のアレクサンドルが入ってきた。二十歳になったばかりの彼は、父親によく似た端正な顔立ちをしていた。
「父上の容態が……」
その言葉に、アメリは素早く立ち上がった。
エドワードの寝室に駆け込むと、彼はベッドに横たわっていた。
わずか四十五歳。まだ若いはずなのに、病に侵された彼の顔は痩せ細り、かつての精悍さは失われていた。
「エドワード……」
アメリが近づくと、エドワードは弱々しく微笑んだ。
「アメリ……来てくれたのですね」
「当たり前です。そばにいます」
アメリは夫の手を取った。その手は、驚くほど冷たかった。
「子供たちは……」
「すぐに呼びます。アレクサンドルはここに。双子の二人も、すぐに」
「いえ……その前に」
エドワードは弱い力で、アメリの手を握った。
「あなたと、二人だけで話したいのです」
アメリは頷き、アレクサンドルに部屋を出るよう目で合図した。息子が出ていくと、静寂が部屋を包んだ。
「アメリ……二十年間、わたしの妻でいてくれて、ありがとう」
「何を言っているんですか。わたしこそ……」
「いいえ、聞いてください」
エドワードは咳き込みながらも、続けた。
「わたしは……自分の立場を利用して、あなたと一緒になりました」
「エドワード……?」
「あなたが、あの使用人の娘に惹かれていることを、わたしは分かっていたんです。ランでしたね」
アメリの目が大きく見開かれた。
「最初から、気づいていました。あなたの目が、彼女を見る時だけ、本当に輝いていることを」
エドワードの目から、一筋の涙が流れた。
「それでも、わたしは……あなたを諦められなかった。王族という立場を使って、あなたを自分のものにしてしまった」
「そんなこと……」
「申し訳ないことをしました、アメリ」
エドワードは苦しそうに息をした。
「でも、後悔はしていません。あなたと過ごした二十年は、わたしの人生で最も幸せな時間でした。三人の素晴らしい子供にも恵まれた」
「わたしも……幸せでした」
アメリは涙を流しながら言った。
「あなたは、本当に優しい夫でした。わたしに、無理を強いることは一度もなかった。子供たちにも、愛情深い父親でした」
「ありがとう……でも、アメリ」
エドワードはアメリの手をさらに強く握った。
「わたしが亡くなった後は、アメリの好きにしてほしい。子供たちももう大きくなった。アレクサンドルは立派な国王になるでしょう」
「エドワード、何を……」
「もう一度、あなたの人生を歩んでほしい。あなたが本当に望む人生を」
エドワードは静かに微笑んだ。
「ランを……探しなさい。まだ遅くはない。あなたには、まだ未来があるのだから」
「エドワード……」
アメリは声を詰まらせて泣いた。
「わたしは……わたしは……」
「愛してくれて、ありがとう」
エドワードは最後にそう言うと、静かに目を閉じた。
その手が、ゆっくりと力を失っていく。
「エドワード! エドワード!」
アメリの叫び声が、部屋に響いた。
でも、彼はもう、答えることはなかった。
エドワード王の葬儀は、王国を挙げての盛大なものとなった。
何千という人々が弔問に訪れ、若き王の死を悼んだ。
アメリは喪服に身を包み、三人の子供たちと共に式に臨んだ。
長男のアレクサンドルは、父の死の翌日に国王として即位した。若いながらも、彼は父の教えを受け継ぎ、立派に責務を果たすことを誓った。
双子の娘たち、エレンとソフィアも、母を支えた。
葬儀が終わり、喪が明けるまでの三ヶ月間、アメリは王宮で静かに過ごした。
でも、心の中では、エドワードの最後の言葉が何度も響いていた。
「ランを探しなさい」
二十年。
あれから、一度も会っていない。
ランは今、どこで何をしているのだろう。
元気でいるだろうか。
幸せだろうか。
そして……まだ、自分のことを覚えているだろうか。
ある日の夜、アメリは長男の部屋を訪れた。
「母上、どうされましたか」
アレクサンドルは書類から顔を上げた。若き国王は、すでに父の死から立ち直り、国政に励んでいた。
「アレクサンドル……相談があるの」
アメリは息子の向かいに座った。
「わたし、しばらく王宮を離れようと思うの」
「え……?」
「心配しないで。あなたはもう立派な国王よ。わたしがいなくても、十分にやっていける」
「でも、母上……」
「お父様がね、最後に言ってくれたの。もう一度、自分の人生を歩めと」
アメリは息子の目を見つめた。
「わたしには、二十年前に会えなくなった人がいるの。もう一度、その人に会いたい。それが、お父様の最後の願いでもあったの」
アレクサンドルは少しの間、黙って母を見つめていた。そして、優しく微笑んだ。
「母上が幸せになれるなら、それでいいです。行ってきてください」
「ありがとう、アレクサンドル」
アメリは息子の手を取った。
「あなたは、本当にお父様によく似ているわ。優しくて、理解があって…あなたたちのことも本当に愛しているわ」
「…母上。私も、貴方の息子として産まれて良かった。愛しています。幸せになってください」
アメリは静かに微笑んだ。
翌朝、アメリは最小限の供を連れて、王宮を出た。
目的地は、かつてランが帰ると言っていた村。馬車で二日の距離にある、小さな村。
馬車が揺れる中、アメリは胸の高鳴りを感じていた。
二十年ぶりに、ランに会える。
でも、不安もあった。
彼女は、まだ独身でいるだろうか。
もう、結婚して家庭を持っているかもしれない。
それでも、せめて一目だけでも会いたい。
そして、伝えたい。
ずっと、あなたのことを忘れたことはなかった、と。
二日後の夕方、馬車は小さな村に到着した。
村は静かで、のどかだった。畑が広がり、小さな家々が点在している。
アメリは馬車を降り、村人に尋ねた。
「すみません、ラン=ルディックという女性を知りませんか?」
村人は少し考えてから、答えた。
「ああ、ランなら知ってますよ。村はずれの丘の上に住んでます。一人で、小さな店を営んでおります」
「一人で……」
アメリの心臓が跳ねた。
「ええ。いい人なんですがね、なぜか結婚もせずに。孤児たちに読み書きを教えたり、病人の世話をしたりしているんです」
村人の言葉に、アメリは礼を言うと、丘に向かって歩き始めた。
供の者たちは、少し離れた場所で待つように言い含めた。
これは、二人だけの再会でなければならない。
丘を登っていくと、確かに小さな家が見えてきた。
庭には花が植えられ、丁寧に手入れされている。
アメリは深呼吸をした。
そして、扉をノックした。
しばらくして、扉が開いた。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
栗色の髪は以前より伸びて三つ編みを一つにまとめていた。顔には歳月の跡が刻まれている。でも、その緑色の瞳は、変わらず輝いていた。
「はい、どなたで……」
ランの言葉が止まった。
目の前に立つ女性を見て、彼女の顔が凍りついた。
「ラン……」
アメリは震える声で名前を呼んだ。
「久しぶり」
ランの目から、一瞬で涙が溢れた。
「アメリ……様?」
「様はいらないわ。二十年前と同じように、アメリと呼んで」
「アメリ……どうして、ここに……」
「あなたに会いに来たの」
アメリも涙を流していた。
「二十年間、ずっと会いたかった」
ランは何も言えずに立ち尽くしていた。そして、ゆっくりと手を伸ばし、アメリの頬に触れた。
「本当に……本当に、あなたなの?」
「ええ、本当よ」
二人は抱き合った。
二十年の時を超えて、再び。
しばらくして、二人は家の中に入った。
小さいが、温かみのある家だった。本棚には本が並び、暖炉には火が灯されている。
「お茶を淹れるわ」
ランは慌てて台所に向かった。アメリはその後ろ姿を見つめながら、涙が止まらなかった。
二十年。
こんなに長い時間が経っていたのに、ランを見た瞬間、すべてが昨日のことのように感じられた。
お茶を持ってランが戻ってきた。二人は向かい合って座った。
「……アメリは、どうしてここに? 王宮は? 国王陛下は?」
「エドワードは……三ヶ月前に亡くなったわ」
ランの顔が悲しみに歪んだ。
「そう……お悔やみ申し上げます」
「ありがとう。彼は、最後まで優しい人だった」
アメリはお茶を一口飲んだ。
「でもね、最後に言ってくれたの。もう一度、自分の人生を歩めと。あなたを探せと」
「殿下が……?」
「ええ。彼は知っていたの。わたしが、あなたを愛していたことを」
ランは驚いて目を見開いた。
「そして、わたしに自由をくれた。子供たちも大きくなったから、もう母親としての責任は果たしたと」
アメリはランの目を見つめた。
「だから、来たの。あなたに会いに」
「アメリ……」
ランの目から、また涙が流れた。
「わたし、ずっと……ずっとあなたのことを忘れられなかった」
「わたしも」
アメリは手を伸ばし、ランの手を握った。
「二十年間、一日たりともあなたのことを忘れた日はなかったわ」
「でも、あなたは王妃で……」
「もう違うわ。わたしは今、ただのアメリ。一人の女性として、あなたに会いに来た」
アメリは立ち上がり、ランの前に膝をついた。
「ラン、聞いて。わたしたちはもう、若くない。失った時間も大きい。でも……」
アメリの声が震えた。
「それでも、わたしはあなたと一緒にいたい。残りの人生を、あなたと過ごしたい」
「アメリ……」
「わたしと、一緒にいてくれる?」
ランは泣きながら、アメリを抱きしめた。
「ずっと、ずっと待ってた。いつか、またあなたに会える日を」
「ごめんなさい、こんなに待たせて」
「謝らないで。あなたは、あなたの運命を生きたんだから」
ランはアメリの顔を両手で包んだ。
「でも、今は……今は、もう離れない?」
「ええ、もう離れないわ」
二人は唇を重ねた。
二十年ぶりの、キス。
時間は止まったかのようだった。
その夜、二人は遅くまで語り合った。
この二十年間のこと。アメリの子供たちのこと。ランが村で過ごした日々のこと。
すべてを、分かち合った。
「あなた、結婚はしなかったの?」
アメリが尋ねると、ランは首を横に振った。
「できなかった。だって、わたしの心には、ずっとあなたがいたから」
「ラン……」
「村の人たちは不思議がったわ。なぜ結婚しないのかって。でも、わたしには分かっていた。どんな人と一緒になっても、幸せにはなれないって」
ランは微笑んだ。
「でも、後悔はしてない。あなたを待ち続けられて、よかった」
「これから、二人で新しい人生を始めましょう」
アメリはランの手を握った。
「この村で、二人で静かに暮らすの。誰にも邪魔されずに」
「本当に、いいの? あなたは元王妃よ。もっと立派な暮らしが……」
「あなたがいれば、それだけで十分。他に何もいらないわ」
ランは泣きながら笑った。
「じゃあ、一緒に暮らしましょう。この小さな家で」
「ええ」
窓の外では、星が瞬いていた。
二十年前と同じ、星空。
でも、今は違う。
二人は、もう引き裂かれることはない。
もう、誰にも邪魔されない。
残りの人生を、二人で歩んでいける。
それから数日後、アメリは正式に村に移り住むことを決めた。
王宮には手紙を送り、子供たちに事情を説明した。
アレクサンドルからは、温かい返事が届いた。
「母上の幸せを、心から願っています。どうか、穏やかな日々を」
双子の娘たちからも、祝福の言葉が届いた。
アメリとランは、丘の上の小さな家で暮らし始めた。
朝は一緒に庭の手入れをし、午後は本を読み、夜は暖炉の前で語り合う。
時には村の子供たちに勉強を教え、時には病人の世話をする。
質素だが、幸せな日々。
二人には、それで十分だった。
ある日の夕方、二人は庭のベンチに座って、夕日を眺めていた。
「ねえ、アメリ」
「何?」
「幸せ?」
「もちろん。あなたは?」
「わたしも」
ランはアメリの肩に頭を預けた。
「二十年、長かったけど……でも、今こうしてあなたの隣にいられるなら、あの時間も無駄じゃなかったと思える」
「わたしもよ」
アメリはランの手を握った。
「あの時間があったから、今のこの幸せがどれだけ大切か、分かるのよね」
夕日が、二人を優しく照らしていた。
オレンジ色の光の中で、二人の影が一つに重なっている。
「ねえ、ラン」
「何?」
「ずっと、一緒にいてね」
「当たり前よ。もう、あなたを手放さないわ」
二人は微笑み合った。
長い、長い旅が終わった。
たくさんの涙を流し、たくさんの痛みを経験し、たくさんの時間を失った。
でも、今、二人は一緒にいる。
それが、すべてだった。
空には、最初の星が輝き始めていた。
新しい夜が始まる。
そして、新しい人生が始まる。
二人で歩む、穏やかで優しい人生が。
冬は終わり、春が来た。
二人の心に、ようやく本当の春が訪れたのだった。
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