透明な笑顔に光る
婚約発表から二ヶ月が過ぎた。
秋の冷たい風が、屋敷の庭を吹き抜けていた。木々の葉は赤や黄色に色づき、やがて散っていく。まるで、何かが終わりを迎えようとしているかのように。
アメリは自分の部屋で、窓の外を眺めていた。
来月には、正式な結婚式が執り行われる。彼女はエドワード王子の妃となり、王宮で暮らすことになる。
すべては決まっていた。
でも、彼女の心は、まだこの屋敷に、あの人のそばに残されたままだった。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
扉が開き、ランが入ってきた。
この二ヶ月、二人の関係は元の主人と使用人に戻っていた。もう、名前で呼び合うこともない。手を繋ぐこともない。ただ、礼儀正しく、距離を保って接するだけ。
それが、正しいことだと分かっていた。
でも、心は悲鳴を上げていた。
「ありがとう」
アメリは小さく答えた。ランはテーブルにお茶を置くと、すぐに立ち去ろうとした。
「待って」
アメリの声に、ランの足が止まった。
「……何でしょうか」
「少しだけ、話せない?」
「お嬢様、わたしは使用人ですから……」
「お願い。少しだけでいいの」
アメリの声は震えていた。ランは躊躇してから、小さく頷いた。
二人は向かい合って座った。かつては自然だったこの距離が、今はひどく遠く感じられる。
「……元気?」
アメリが尋ねると、ランは小さく頷いた。
「はい。お嬢様は?」
「元気よ。エドワード様は、とても優しくしてくださるわ」
「……それは、よかったです」
沈黙が落ちる。
二人とも、本当に言いたいことは言えなかった。
会いたい。触れたい。抱きしめたい。愛している。
でも、それらの言葉は、もう二度と口にしてはいけないものになっていた。
「お嬢…アメリ様」
ランがゆっくりと口を開いた。
「わたし、結婚式が終わったら、この屋敷を出ようと思っています」
アメリの顔が蒼白になった。
「何を言って……」
「アメリ様がご結婚されたら、わたしの役目は終わりです。そして……わたしがここにいても、お互いに辛いだけですから」
「ラン……」
「実家に戻って、家族を助けます。それが、一番いい道だと思うんです」
ランは寂しく微笑んだ。
「アメリ様のおかげで、わたしはたくさんのことを学べました。本の読み方も、礼儀作法も、たくさんのことを。そして……」
ランの目に涙が浮かんだ。
「本当の愛も、知ることができました」
「ラン……」
「ありがとうございました、アメリ様。わたしの人生で、一番幸せな時間を、くださって」
ランは立ち上がり、深く頭を下げた。
「それでは、失礼します」
「待って!」
アメリは思わず叫んだ。
「お願い……最後に、一つだけ」
ランが振り返る。
「結婚式の前夜に……一晩だけ、二人で過ごさせてくれない?」
ランの目が大きく開いた。
「アメリ様……」
「お願い。最後に、たった一度だけ。あなたと、二人きりで」
アメリの頬を涙が伝った。
「わたしは、エドワード様と結婚します。それが、わたしの運命だから。でも、その前に……最後に、あなたと」
ランは唇を噛んだ。そして、小さく頷いた。
「……分かりました」
結婚式の前日。
秋が深まり、空気は冷たく澄んでいた。
アメリは両親に、最後の夜を一人で過ごしたいと告げた。両親は娘の願いを理解し、屋敷の離れを用意してくれた。
夕暮れ時、アメリは離れの小さな部屋に入った。
暖炉には火が灯され、部屋は温かかった。窓の外では、星が瞬き始めている。
しばらくして、扉がノックされた。
「失礼します」
ランが入ってきた。彼女も緊張した面持ちだった。
扉が閉まる。
二人きり。
最後の夜。
「ラン……来てくれて、ありがとう」
「アメリ様……いえ」
ランは小さく微笑んだ。
「今夜だけは、アメリ、と呼んでもいい?」
「ええ。もちろん…。」
二人は向かい合って立った。
「明日、あなたは王妃になる」
ランが静かに言った。
「素敵なドレスを着て、エドワード殿下と誓いの言葉を交わす。王国中が、あなたを祝福する」
「……ええ」
「わたしは、使用人として、その場にいる。あなたの幸せそうな姿を見守る。それが、わたしの役目」
ランの声が震えた。
「でも、今夜は……今夜だけは」
「今夜だけは、ただの二人に戻ろう」
アメリはランの手を取った。
「身分も、立場も、運命も、すべて忘れて。ただ、愛し合う二人として」
ランは涙を流しながら、アメリを抱きしめた。
「愛してる、アメリ」
「わたしも、愛してる、ラン」
二人は唇を重ねた。
切なく、優しく、そして深く。
この夜が永遠に続けばいいと、二人は願った。
でも、時は容赦なく流れていく。
二人は暖炉の前に座り、手を繋いだまま、たくさんのことを話した。
初めて出会った日のこと。一緒に庭を歩いたこと。初めてのキス。嬉しかったこと。楽しかったこと。
そして、これから来る別れのこと。
「わたしね、あなたに出会えて本当によかった」
アメリは静かに言った。
「あなたがいなければ、わたしは一生、あの部屋に閉じこもったままだったかもしれない。でも、あなたは光をくれた。外の世界への扉を開けてくれた」
「わたしも、アメリに出会えて、本当によかった」
ランは微笑んだ。
「あなたは、わたしに本当の愛を教えてくれた。こんなにも人を愛せるなんて、こんなにも人のために心が痛むなんて、知らなかった」
「これから、わたしたちはどうなるのかしら」
「分からない。でも、きっと……」
ランはアメリの髪に触れた。
「きっと、いつかまた会える。違う形で、違う立場で。でも、この想いは消えない」
「消えないわね」
アメリは頷いた。
「たとえ離れていても、あなたのことを思い続ける。わたしの心は、いつもあなたのそばにある」
二人は抱き合ったまま、夜を過ごした。
言葉にならない想いを、温もりで伝え合いながら。
明け方、窓の外が白み始めた。
「もう、朝ね」
アメリが呟いた。
「……ええ」
ランは立ち上がった。
「わたし、行くわ」
「待って」
アメリはランの手を握った。
「もう少しだけ……」
「これ以上いたら、わたし、あなたを手放せなくなる」
ランは泣きながら笑った。
「だから、行かせて。お願い」
アメリは、ゆっくりと手を離した。
ランは扉に向かって歩いた。でも、扉の前で立ち止まり、振り返った。
「アメリ」
「何?」
「幸せになって。どうか、幸せになって」
「あなたも」
二人は最後に微笑み合った。
そして、ランは部屋を出ていった。
アメリは一人、窓辺に立った。
空が、少しずつ明るくなっていく。
新しい一日が始まろうとしていた。
新しい人生が、始まろうとしていた。
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結婚式の日。
王宮の大聖堂は、華やかに飾られていた。何百という貴族たちが集まり、王族の結婚式を祝福するために集まっている。
アメリは控え室で、純白のウェディングドレスに身を包んでいた。
ドレスは美しく、彼女をまるでおとぎ話の姫君のように見せていた。髪には宝石が散りばめられ、長いベールが優雅に流れている。
鏡の中の自分を見つめる。
美しい花嫁。幸せそうな表情。
でも、その目の奥には、何か深い感情が宿っていた。
「アメリ、準備はいい?」
エレノアがノックをし、静かに扉を開く。
「ええ、お母様」
「あなた、本当に美しいわ。エドワード様も、きっと驚かれるわね」
母親は娘の肩に手を置いた。
「アメリ……後悔はない?」
アメリは少しの間、黙っていた。そして、静かに微笑んだ。
「ありません。これが、わたしの選んだ道ですから」
その笑顔には、もう迷いはなかった。
何かを、吹っ切ったような。何かを、受け入れたような。
そんな、透明な笑顔だった。
式が始まる。
荘厳なオルガンの音色が響き渡る中、アメリは父親に腕を取られて、バージンロードを歩き始めた。
参列者たちは皆、立ち上がって彼女を見つめている。
祝福の眼差し。賞賛の囁き。
アメリは真っ直ぐ前を見て歩いた。
祭壇には、エドワード王子が立っていた。彼は感動した表情で、アメリを待っている。
アメリの視線が、一瞬だけ横を向いた。
使用人たちが立っている場所に、ランの姿があった。
二人の目が合った。
ランは笑顔を浮かべていた。
でも、その頬には、涙が流れていた。
アメリは小さく微笑み返した。
ありがとう、と心の中で呟く。
そして、視線を前に戻した。
祭壇に辿り着く。
神父が厳かに式を進める。
「エドワード=アルフレッド=ヴェルディアント殿下。あなたは、このアメリ=リズエルを妻とし、健やかなる時も、病める時も、共に歩むことを誓いますか?」
「誓います」
エドワードの声は力強かった。
「アメリ=リズエル。あなたは、このエドワード=アルフレッド=ヴェルディアント殿下を夫とし、健やかなる時も、病める時も、共に歩むことを誓いますか?」
アメリは深く息を吸った。
この言葉を口にすれば、すべてが決まる。
もう、後戻りはできない。
でも、彼女は決めていた。
昨夜、ランと過ごした最後の時間で、すべてを受け入れると決めていた。
「誓います」
アメリの声は、驚くほど澄んでいた。
「それでは、指輪の交換を」
エドワードがアメリの指に、美しい指輪をはめる。
アメリも、エドワードの指に指輪をはめる。
「では、誓いのキスを」
エドワードが、優しくアメリの頬に触れた。
そして、唇を重ねる。
会場から、大きな拍手と歓声が上がった。
「エドワード王子とアメリ王妃の誕生です!」
神父の宣言に、祝福の声はさらに大きくなった。
アメリは、エドワードの腕に手を添えて、会場を見渡した。
皆、笑顔だった。皆、幸せそうだった。
そして、使用人たちの中に、ランの姿があった。
彼女は拍手をしながら、笑顔を浮かべていた。
でも、涙が止まらなかった。
幸せそうなアメリを見て。
吹っ切れたような、透明な笑顔のアメリを見て。
ランは、笑いながら泣いていた。
よかった、と心の中で呟く。
あなたは、幸せになったのね。
それが、あなたの選んだ道なのね。
ならば、わたしも。
わたしも、前に進まなくては。
アメリとランの視線が、最後にもう一度交わった。
二人は、お互いに微笑んだ。
さようなら、と心の中で言葉を交わす。
愛してる、と最後に想いを伝え合う。
そして、視線を逸らした。
式が終わり、祝宴が始まった。
アメリはエドワードの隣で、笑顔で客人たちと談笑していた。
その姿は、本当に幸せそうだった。
もう、迷いはなかった。
彼女は、新しい人生を受け入れたのだ。
一方、ランは静かに会場を後にした。
屋敷に戻る馬車の中で、一人、泣いた。
声を押し殺して、泣き続けた。
でも、後悔はなかった。
アメリと出会えて、愛し合えて、あの最後の夜を過ごせて。
それだけで、十分だった。
それだけで、自分の人生には意味があった。
馬車が屋敷に着くと、ランは自分の部屋に戻った。
そして、すぐに荷物をまとめ始めた。
明日には、ここを出る。
新しい人生を始める。
アメリのいない人生を。
でも、心の中には、いつまでも。
あの笑顔が、あの温もりが、あの最後の夜が。
永遠に残り続けるのだと。
ランは信じていた。
夜空には、星が瞬いていた。
同じ星を、きっとアメリも見ているだろう。
王宮の、新しい部屋で。
新しい夫の隣で。
二人は、もう違う世界にいる。
でも、同じ空の下。
同じ想いを、胸に秘めて。
秋の夜は深く、そして静かだった。
終わりと、始まりの夜。
別れと、新しい人生の夜。




