あの夏に目が絡む
それから三ヶ月が過ぎた。
初夏の光が、屋敷の庭を明るく照らしている。色とりどりの花が咲き誇り、蝶が舞っていた。
その庭を、二人の少女が歩いていた。
「アメリ様、今日はここまでにしましょうか」
ランが優しく声をかけると、アメリは少し名残惜しそうに頷いた。
「そうね。でも、今日は一時間も外にいられたわ」
「素晴らしいです! 最初は五分も外にいられなかったのに、流石です!」
ランは嬉しそうに笑った。この三ヶ月で、アメリは少しずつ外の世界に慣れてきていた。最初は庭を歩くだけで精一杯だったが、今では使用人たちと挨拶を交わすこともできるようになった。
すべては、ランがそばにいてくれたから。
二人の関係は、あの雨の日から変わった。表向きは主人と使用人の関係を保っているが、二人きりになると、もっと親密な時間を過ごすようになった。
手を繋ぐこと。額にキスをすること。お互いの想いを言葉にすること。
それは、誰にも言えない秘密だった。でも、二人にとっては何よりも大切な時間だった。
「ねえ、ラン」
部屋に戻る途中、アメリが小さく呟いた。
「このまま、ずっとこうしていられたらいいのに」
ランの表情が少しだけ曇った。
「……そうですね」
その声には、何か不安が混じっているように感じられた。でもアメリは、それ以上聞くことができなかった。
その夜、エレノア公爵夫人がアメリの部屋を訪れた。
「アメリ、お話があるの」
母親の表情は、いつになく真剣だった。
「来月、王宮で舞踏会が開かれるの。そして……あなたも、参加してほしいと思っているの」
アメリの顔が強張った。
「社交界……ですか」
「ええ。でもね、アメリ。あなたは以前とは違う。ランがそばにいてくれるわ。そして、お父様もお母様も、あなたを守るわ」
母親は娘の手を取った。
「無理にとは言わないわ。でも、一度だけ、勇気を出してみて。きっと、あなたが思っているほど怖いものではないと分かるはずよ」
アメリは黙って考え込んだ。社交界。あの忌まわしい記憶の場所。
でも、確かに今の自分は以前とは違う。ランがいる。
「……ランも、一緒に来てくれますか?」
「もちろんよ。彼女には、あなたの付き添いとして来てもらうわ」
アメリは深く息を吸った。そして、小さく頷いた。
「分かりました。行きます」
母親の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとう、アメリ。きっと、素敵な夜になるわ」
舞踏会まで、一ヶ月。
その間、アメリは社交界のためのレッスンを受けた。ダンスの練習。礼儀作法の復習。会話術。すべてが久しぶりで、最初は戸惑うことも多かった。
でも、ランが常にそばにいてくれた。
「アメリ様、もう一度やってみましょう。わたしが殿方の役をしますから」
ランがエスコート役を買って出て、二人でダンスの練習をする。最初はぎこちなかったが、徐々に息が合ってきた。
「上手ですよ、アメリ様。当日は、きっと素敵に踊れます」
「あなたと踊るのなら、緊張しないわ」
アメリは微笑んだ。本当は、ランとこのまま踊り続けていたかった。社交界でも、隣にいてくれるのはランだけでいい。
でも、それは叶わぬ願いだと、心のどこかで分かっていた。
そして、舞踏会の日がやってきた。
王宮の大広間は、豪華絢爛に飾られていた。シャンデリアが煌めき、楽団が優雅な音楽を奏でている。貴族たちが華やかなドレスや礼服を纏い、談笑していた。
アメリは青いドレスを着て、母親と共に会場に入った。その後ろには、使用人の服を着たランが控えている。
会場に入った瞬間、視線が集まった。
「あれが、リズエル公爵家の令嬢……」
「長い間、引きこもっていたという……」
ささやき声が聞こえる。アメリの身体が強張った。
その時、ランがそっと背中に手を置いた。温かい手の感触に、アメリは少しだけ落ち着きを取り戻した。
「大丈夫ですよ、アメリ様。わたしがここにいますから」
ランの小さな声が、心強かった。
アメリは深呼吸をして、会場に足を踏み入れた。
しばらくは母親と一緒に、知り合いの貴族たちに挨拶をして回った。皆、礼儀正しく接してくれたが、その目には好奇心が隠れていた。
アメリは疲れを感じ始めていた。やはり、ここは自分の居場所ではない。早く帰りたい。
その時だった。
「失礼します。こちらのお嬢様は、リズエル公爵家のアメリ様でいらっしゃいますか?」
振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。
彼は二十代前半ほどで、端正な顔立ちをしている。深い青の瞳と、金色の髪。その佇まいには気品と威厳があった。
エレノア公爵夫人が慌てて深く頭を下げた。
「エドワード殿下! これは、光栄でございます」
殿下。その言葉に、アメリは驚いて相手を見た。
彼は第二王子、エドワード=アルフレッド=ヴェルディアント。王国でも名高い、聡明で優しい王子だった。
「初めまして、アメリ様。わたしはエドワードと申します」
エドワードは優雅に一礼した。
「あなたのことは、以前から存じ上げておりました。本日、ようやくお会いできて光栄です」
「……こちらこそ」
アメリは緊張しながらも、礼儀正しく答えた。
「もしよろしければ、一曲、ご一緒に踊っていただけませんか?」
その申し出に、周囲がざわついた。第二王子が、引きこもりで有名だった令嬢を誘ったのだ。
アメリは戸惑った。断ることもできない。でも、知らない男性と踊ることに恐怖を感じた。
その時、背後からランの声が聞こえた。
「大丈夫ですよ、アメリ様。練習したじゃないですか」
その言葉に、アメリは勇気をもらった。
「……はい、喜んで」
エドワードはアメリの手を取り、ダンスフロアへとエスコートした。
音楽が流れ始める。
エドワードのリードは完璧だった。アメリが不安そうにしていると、優しく声をかけてくれる。
「緊張されていますね。大丈夫ですよ、わたしに任せてください」
「……すみません」
「謝る必要はありません。あなたが長い間、外出を控えられていたことは存じ上げています。それでも、今日こうして舞踏会にいらしたこと、それだけで素晴らしい勇気だと思います」
エドワードの言葉は、心からのものだった。その優しさに、アメリは少しだけ心を開いた。
「あなたは……わたしのことを、馬鹿に…しないのですか?」
「なぜ馬鹿にする必要があるのでしょう? あなたは素敵な女性です。そして、その勇気ある一歩を、わたしは尊敬します」
ダンスが終わると、エドワードはアメリを母親のもとへ丁寧に送り届けた。
「素敵な時間をありがとうございました、アメリ様。また、お会いできることを楽しみにしています」
エドワードが去った後、アメリはランのもとへ駆け寄った。
「ラン……」
「お疲れ様でした、アメリ様。とてもお綺麗でしたよ」
ランは微笑んでいたが、その笑顔はどこか寂しげだった。
それから、エドワード王子はしばしばリズエル公爵家を訪れるようになった。
彼はアメリの過去を知っていた。だからこそ、決して無理強いすることなく、ゆっくりと彼女に寄り添った。
庭を散歩しながら、本の話をする。お茶を飲みながら、音楽について語り合う。時には、ただ静かに並んで座っている。
エドワードは本当に紳士的で、優しく、そして理解があった。アメリは徐々に、彼と話すことに慣れていった。
「アメリ様は、騎士物語がお好きなのですね」
「ええ。子供の頃から、ずっと」
「わたしも好きです。特に、古い時代の騎士道精神について書かれたものが」
会話は弾んだ。エドワードは知識が豊富で、話していて楽しかった。
でも、それは友人としての好意だった。安心感だった。
恋心ではなかった。
アメリの心の中で、恋する気持ちを向けられるのは、ただ一人だけだった。
ランだった。
でも、ランはいつも少し離れた場所で、二人を見守っていた。
その目には、複雑な感情が宿っていた。
ある日の午後、エドワードが帰った後、アメリはランを自分の部屋に呼んだ。
「ラン、最近、あなた少し元気がないように見えるけど」
「そんなことありません」
ランは笑顔を作ったが、それは以前のような輝きを失っていた。
「嘘。わたしには分かる」
アメリはランの手を取った。
「何か、心配なことがあるの?」
ランは少しの間、黙っていた。そして、小さく呟いた。
「……アメリ様は、エドワード殿下のこと、どう思われますか?」
「どうって……優しい方だと思うわ。話していて楽しいし、安心できる」
「……そう、ですか」
ランの声は震えていた。
「ラン?」
「わたしは……わたしは、アメリ様が誰かと仲良くなることを喜ぶべきなんです。それが、わたしの役目だったんですから」
ランは俯いた。
「でも、わたしは……エドワード殿下がアメリ様と話しているのを見ると、胸が苦しくなるんです。わたしじゃない誰かが、アメリ様を笑顔にしているのを見ると……」
「ラン……」
アメリはランを抱きしめた。
「わたしが笑顔になれるのは、あなたがいるからよ。エドワード様は確かに素敵な方。でも、わたしの心にあるのは、あなただけ」
「本当に……?」
「本当よ。わたしが愛しているのは、あなただけ」
二人は抱き合ったまま、しばらく動かなかった。
でも、その幸せな時間は、長くは続かなかった。
それから二週間後のこと。
アメリは父親の書斎に呼ばれた。そこには、父親と母親、そしてエドワード王子が座っていた。
「アメリ、座りなさい」
父親の表情は、いつになく厳しかった。
「エドワード殿下から、お話があるそうだ」
エドワードは立ち上がり、アメリの前に膝をついた。
「アメリ様。わたしは、あなたに結婚を申し込みたいと思います」
その言葉に、アメリの頭が真っ白になった。
「わたしは、あなたのことを深く尊敬しています。あなたの優しさ、繊細さ、そして勇気を、わたしは愛しています。どうか、わたしの妻になってください」
エドワードの言葉は真摯で、心からのものだった。
でも、アメリの心は混乱していた。
「殿下……わたしは……」
「無理にとは言いません。時間をかけて、考えてください。でも、わたしの気持ちは本物です」
父親が口を開いた。
「アメリ、これは王族からの正式な婚約の申し込みだ。我が家にとっても、大変な名誉なことなのだよ」
母親も優しく言った。
「アメリ、エドワード様はあなたのことを本当に大切に思ってくださっている。これ以上の良縁は、なかなかないわ」
アメリは何も言えなかった。
部屋を出ると、廊下でランが待っていた。
「アメリ様……」
ランの顔を見た瞬間、アメリの涙が溢れた。
二人は誰もいない部屋に入った。
「ラン、どうしよう……婚約の申し込みが……」
「……聞いていました」
ランの声は震えていた。
「断れないわよね。王族からの申し込みなんて。家族のことも考えないと……」
「アメリ様」
ランはアメリの頬に触れた。
「アメリ様の幸せが、一番大切です。殿下は、本当に素晴らしい方です。きっと、アメリ様を幸せにしてくださいます」
「でも、わたしが愛しているのは……」
「わたしのことは、忘れてください」
ランの目から涙が流れた。
「わたしは、ただの使用人です。アメリ様と結ばれることなんて、できないんです。わたしたちは、女性同士なんです。世間は決して、認めてくれません」
「そんなこと、関係ない!」
「関係あります!」
ランは初めて、声を荒げた。
「アメリ様は公爵家の令嬢です。いつかは、誰かと結婚しなければならない。それが、アメリ様の運命なんです」
「ラン……」
「わたしと一緒にいても、アメリ様に未来はありません。でも、エドワード殿下となら。殿下なら、アメリ様を本当に幸せにしてくださいます」
ランは泣きながら笑った。
「だから、どうか……殿下の申し出を、受けてください」
「嫌よ! あなたと離れるなんて!」
「わたしも、嫌です」
ランはアメリを抱きしめた。
「わたしも、アメリ様と離れたくない。でも……これが、一番いい方法なんです」
二人は泣きながら、抱き合った。
その夜、アメリは一人で考えた。
ランとの未来。エドワードとの未来。家族のこと。自分の立場のこと。
すべてが、複雑に絡み合っていた。
愛する人と一緒にいたい。その気持ちは本物だった。
でも、それは許されないことなのだろうか。
女性同士の恋。世間は決して認めない。家族も、最終的には認めないだろう。
そして、ランは自分のために、身を引こうとしている。
アメリは窓の外を見た。星が冷たく輝いている。
一週間後、アメリは決断した。
「エドワード様。わたしは……あなたの申し出を、受けさせていただきます」
エドワードの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当ですか、アメリ様! ありがとうございます!」
彼は嬉しそうにアメリの手を取った。でも、アメリの手は冷たく、震えていた。
その知らせを聞いた時、ランは一人で泣いた。
これでよかったのだと、自分に言い聞かせた。
アメリ様は幸せになれる。素晴らしい王子と結婚して、立派な王妃になる。
自分はただの使用人。最初から、そんな未来しかなかった。
でも、心は引き裂かれるように痛んだ。
婚約が正式に発表された。
王国中が、この慶事を祝った。美しい令嬢と聡明な王子の婚約は、おとぎ話のようだと評判になった。
でも、当の二人は、どちらも心から笑うことができなかった。
アメリは、ランの姿を見るたびに胸が痛んだ。
ランは、アメリを見るたびに涙を堪えた。
二人の距離は、少しずつ離れていった。
もう、以前のように手を繋ぐことも、抱き合うことも、キスをすることもできなかった。
アメリは婚約者であり、やがては王妃になる身。
ランは使用人であり、いつかはこの屋敷を去る身。
夏の終わりのある日、二人は最後に庭で二人きりになった。
「ラン……」
「アメリ様」
二人は向かい合った。
「わたし、本当にこれでよかったのかしら」
「よかったんです。これが、一番いい道なんです」
「でも、わたしの心は……」
「わたしも、同じです」
ランは微笑んだ。涙を浮かべながら。
「でも、わたしたちには、素敵な思い出があります。一緒に過ごした時間。手を繋いだこと。初めてのキス。それは、誰にも奪えない、わたしたちだけの宝物です」
「ラン……」
「だから、これでいいんです。アメリ様、どうか……幸せになってください」
「あなたも、幸せに……」
二人は最後に、そっと抱き合った。
夕日が、二人を優しく照らしていた。
季節は巡り、やがて秋が訪れようとしていた。
別れの季節が、すぐそこまで来ていた。




