表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

月明かりは優しく

一週間が過ぎた。


アメリの部屋は、再び沈黙に包まれていた。窓は閉じられ、カーテンが引かれている。花瓶の花は枯れ、部屋の空気は重く淀んでいた。


あの日以来、アメリはランに会おうとしなかった。


食事は別のメイドが運んでくる。掃除も、着替えの手伝いも、すべて他の使用人が行った。ランの姿は、部屋から完全に消えていた。


アメリはベッドの上で膝を抱え、一ヶ月前と同じ姿勢で座っていた。まるで、あの明るい日々がすべて夢だったかのように。


でも、違った。


あれは夢ではなかった。ランの笑顔も、温かい手も、優しい声も、すべて本当にあった。だからこそ、辛かった。だからこそ、苦しかった。


部屋の隅には、ランが借りていた本が積まれている。彼女が返却しないまま、置いていったものだ。アメリはその本を見るたびに、胸が痛んだ。


「アメリ」


扉がノックされ、父親のヴィクター公爵の声が聞こえた。アメリは返事をしなかったが、父親は静かに部屋に入ってきた。


彼は娘の隣に座ると、優しく肩に手を置いた。


「……ランのことで、辛い思いをさせてしまったね」


アメリは黙っていた。


「あれは、お父様とお母様の判断だった。ランは、ただ自分の仕事を果たそうとしていただけなんだ」


「……知ってる」


アメリは小さく呟いた。


「頭では分かってる。ランは悪くない。でも……」


「でも、心が許せないんだね」


父親は理解を示すように頷いた。


「私たちも、あなたを騙すつもりはなかったんだ。ただ、アメリが少しでも外の世界に慣れて、幸せになってほしかった。それだけだった」


「……幸せ」


アメリは苦しそうに笑った。


「皆、そう言う。でも、誰もわたしの本当の気持ちを聞いてくれない。わたしが何を望んでいるのか、誰も分かろうとしてくれない」


「それは違うよ、アメリ」


父親の声には、深い悲しみが込められていた。


「私たちは、いつでもアメリのことを考えている。あなたの幸せを願っている。でも……確かに、アメリの本当の気持ちを聞こうとしなかったのかもしれない」


父親は娘の手を取った。


「教えてくれないか。アメリ、アメリは本当は何を望んでいるんだい?」


アメリは唇を噛んだ。そして、ゆっくりと口を開いた。


「……わからない。でも、一つだけ確かなことがある」


「何だい?」


「ランがいない部屋は、とても寂しい」


その言葉に、父親は優しく微笑んだ。


「それなら、彼女を呼び戻したらどうだい?」


「……でも」


「謝る必要はないよ。ただ、あなたの正直な気持ちを伝えればいい。彼女も、アメリと同じように苦しんでいると思うよ」


父親はそう言うと、部屋を出ていった。


一人になったアメリは、父親の言葉を反芻した。


ランも、苦しんでいる?


あの日、部屋を出ていく時の彼女の表情を思い出す。涙を浮かべて、苦しそうな顔をしていた。


彼女は本当に、ただの仕事としてわたしに接していたのだろうか?


アメリは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。カーテンを開けると、外は雨だった。冷たい雨が、庭の花を打ちつけている。


そして、その雨の中に、一人の人影が見えた。


ランだった。


彼女は庭で、ずぶ濡れになりながら働いていた。重い荷物を運び、花壇の手入れをしている。他の使用人たちは皆、雨宿りをしているというのに。


アメリの胸が締め付けられた。


なぜ、あんなことをしているの?


部屋を飛び出していた。廊下を走り、階段を駆け下りる。使用人たちが驚いて振り返ったが、アメリは構わず庭への扉を開けた。


「ラン!」


雨の中、アメリは叫んだ。


ランが振り返る。驚いた表情で、アメリを見つめた。


「お、お嬢様!? どうして外に!」


「あなたこそ、どうしてこんな雨の中で!」


アメリはランのもとに駆け寄った。すぐにずぶ濡れになったが、気にしなかった。


「こんなことをして、体を壊したらどうするの!」


「わたしは……わたしは、お嬢様のお役に立てませんでした。だから、せめて他の仕事で役に立とうと……」


ランの声は震えていた。雨なのか涙なのか、彼女の頬を何かが伝っている。


「馬鹿」


アメリは思わず言った。


「馬鹿よ、あなたは。そんなこと、誰も望んでない」


「でも……お嬢様は、わたしのことを嫌いに……」


「嫌いになんて、なってない!」


アメリは叫んだ。


「確かに怒った。傷ついた。でも、嫌いになんてなってない。それどころか……」


言葉が詰まる。でも、言わなければならない。この想いを、伝えなければならない。


「それどころか、あなたがいない毎日が、辛くて辛くて仕方なかった。あなたの声が聞きたかった。あなたの笑顔が見たかった。あなたと一緒にいたかった」


ランの目が大きく見開かれた。


「わたし、あなたのこと……」


その先を言おうとした時、突然めまいがした。冷たい雨に打たれていたせいで、体が冷え切っていたのだ。


「お嬢様!」


ランが慌ててアメリを支えた。その腕の中で、アメリは意識を失った。


目を覚ますと、自分の部屋のベッドの中だった。


体は温かく、乾いた服を着せられている。部屋には暖炉の火が燃えていた。


そして、ベッドの脇の椅子に、ランが座っていた。彼女も着替えており、心配そうな顔でアメリを見つめている。


「お嬢様、お目覚めになりましたか」


ランの声は優しく、でもどこか遠慮がちだった。


「……ラン」


アメリは手を伸ばした。ランは一瞬躊躇してから、その手を握った。


「ごめんなさい」


二人は、同時に言った。


そして、同時に小さく笑った。


「お嬢様、わたしこそごめんなさい。最初から正直に言うべきでした。わたしの役目のこと、ちゃんと説明するべきでした」


「ううん、わたしも悪かったわ。あなたの話も聞かずに、一方的に怒って……」


アメリは起き上がると、ランの手を両手で包んだ。


「ねえ、ラン。正直に教えて。あなたがわたしと過ごした時間は、すべて仕事だったの? あなたの笑顔も、優しさも、すべて演技だったの?」


ランは首を横に振った。


「違います。最初は確かに、仕事だと思っていました。でも……お嬢様と過ごす時間は、わたしにとって本当に大切な時間になっていました」


「それなら」


アメリはランの目を見つめた。


「もう一度、一緒にいてくれる? わたしのそばに、いてくれる?」


「お嬢様……でも、わたしの役目は……」


「役目なんて、どうでもいい」


アメリははっきりと言った。


「わたしは、ランに望むことは一つだけ。ただ、わたしのそばにいてほしい。それだけ」


ランの目に涙が溢れた。


「本当に、それでいいんですか? わたしは、お嬢様を社交界に出すことも、結婚相手を見つけることもできないかもしれません」


「いいの。わたしが望むのは、そんなことじゃない」


アメリは深呼吸をした。そして、自分の心に正直になることを決めた。


「わたしが望むのは、あなたと一緒にいること。あなたの笑顔を見ること。あなたと話すこと。それだけで、わたしは幸せなの」


「お嬢様……」


ランは泣きながら、アメリの手を握り返した。


「わたしも、お嬢様と一緒にいたいです。お嬢様のそばにいたいです」


二人の距離が近づく。


そして、その時だった。


扉がノックされ、エレノア公爵夫人が入ってきた。


「アメリ、体調はどう? 医者を呼んだ方が……あら」


母親は、二人が手を握り合っている姿を見て、驚いたような、でもどこか嬉しそうな表情を浮かべた。


「お話の邪魔をしてしまったかしら」


「お、お母様!」


アメリは慌てて手を離そうとしたが、ランがしっかりと握っていて離れなかった。


母親は優しく微笑んだ。


「二人とも、仲直りできたのね。よかったわ」


「お母様、わたし……」


「言わなくてもいいわ、アメリ。お母様には分かるわ」


母親はベッドの脇に座ると、娘の頬に優しく触れた。


「あなたが何を感じているのか。あなたにとって、ランがどれだけ大切な存在なのか」


「……お母様」


「私は、あなたの幸せを願っているの。それが社交界でも、結婚でもなく、この部屋の中にあるのなら、それでもいいのよ」


母親の言葉に、アメリは目を潤ませた。


「でもね、アメリ。一つだけお願いがあるの」


「何?」


「少しずつでいいから、外の世界にも目を向けてほしいの。ランと一緒でいいから。二人で、この屋敷の外に出てみてほしいの」


アメリは少し考えてから、小さく頷いた。


「……考えてみる。ランが一緒なら、もしかしたら」


「それだけで十分よ」


エレノアは娘の額にキスをすると、立ち上がった。


「それじゃあ、ランをアメリに任せるわ。今夜は、彼女にここにいてもらいましょう」


「え、でも……」


ランが慌てたが、母親は笑顔で手を振った。


「アメリの看病をお願いね、ラン」


母親が部屋を出ていく。二人きりになった。


しばらく沈黙が続いた。そして、ランが口を開いた。


「お嬢様、本当に……わたしが、ここにいてもいいんですか?」


「ええ。というより、いてほしい」


アメリはベッドの端を叩いた。


「隣に、座って」


ランは躊躇いながらも、ベッドの端に腰を下ろした。二人は並んで座り、しばらく黙っていた。


「ねえ、ラン」


「はい」


「あなたは、わたしのことをどう思ってる?」


突然の質問に、ランは戸惑った表情を見せた。


「それは……」


「正直に教えて。わたしは、あなたの本当の気持ちが知りたい」


ランは深く息を吸った。そして、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「わたしは、お嬢様のことが好きです。最初は、ただのお仕事だと思っていました。でも、お嬢様と過ごす時間が増えるにつれて、この気持ちは大きくなっていきました」


「好き……」


アメリはその言葉を繰り返した。


「わたしも、あなたのことが好き。でも、これは……友達としての好きなのか、それとも……」


言葉が続かない。でも、ランには分かったようだった。


「お嬢様、わたしの気持ちは……友達としての気持ちとは、少し違うんです」


ランは顔を赤らめながら言った。


「わたしは、お嬢様のことを、女性として……一人の人として、愛しています」


その告白に、アメリの心臓が激しく鳴った。


「わたし……そういう感情を、感じたことがなくて。でも、あなたといると、胸が苦しくなって、手を握っていたくなって、ずっと一緒にいたくなる」


アメリは自分の胸に手を当てた。


「これが、恋なの?」


「わたしにも、分かりません。でも……もしこれが恋なら、わたしはお嬢様に恋をしています」


ランはアメリの手を取った。


「わたしたちは、女性同士です。世間からは認められないかもしれません。でも……」


「関係ない」


アメリははっきりと言った。


「世間がどう思おうと、関係ない。わたしが好きなのは、あなた。それだけが、わたしにとって大切なこと」


二人は見つめ合った。


そして、ゆっくりと顔を近づけた。


唇が触れる寸前で、アメリは目を閉じた。


初めてのキス。それは優しく、温かく、そして少しだけ切なかった。


離れると、二人とも顔を真っ赤にしていた。


「お、お嬢様……」


「アメリでいいわ。もう、お嬢様って呼ばないで」


「で、でも……」


「お願い、ラン。少なくとも、二人きりの時は」


ランは少し考えてから、小さく頷いた。


「分かりました……アメリ様」


「様もいらない」


「それは……さすがに」


二人は笑い合った。


その夜、ランはアメリの部屋に泊まった。二人は同じベッドで、手を繋ぎながら眠った。


外では雨が上がり、月が雲の間から顔を出していた。


窓辺に差し込む月明かりの中で、二人の穏やかな寝顔が照らされている。


長い冬が終わり、ようやく春が訪れた。


でも、二人の前には、まだ多くの困難が待ち受けていたのだった…。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ