月明かりは優しく
一週間が過ぎた。
アメリの部屋は、再び沈黙に包まれていた。窓は閉じられ、カーテンが引かれている。花瓶の花は枯れ、部屋の空気は重く淀んでいた。
あの日以来、アメリはランに会おうとしなかった。
食事は別のメイドが運んでくる。掃除も、着替えの手伝いも、すべて他の使用人が行った。ランの姿は、部屋から完全に消えていた。
アメリはベッドの上で膝を抱え、一ヶ月前と同じ姿勢で座っていた。まるで、あの明るい日々がすべて夢だったかのように。
でも、違った。
あれは夢ではなかった。ランの笑顔も、温かい手も、優しい声も、すべて本当にあった。だからこそ、辛かった。だからこそ、苦しかった。
部屋の隅には、ランが借りていた本が積まれている。彼女が返却しないまま、置いていったものだ。アメリはその本を見るたびに、胸が痛んだ。
「アメリ」
扉がノックされ、父親のヴィクター公爵の声が聞こえた。アメリは返事をしなかったが、父親は静かに部屋に入ってきた。
彼は娘の隣に座ると、優しく肩に手を置いた。
「……ランのことで、辛い思いをさせてしまったね」
アメリは黙っていた。
「あれは、お父様とお母様の判断だった。ランは、ただ自分の仕事を果たそうとしていただけなんだ」
「……知ってる」
アメリは小さく呟いた。
「頭では分かってる。ランは悪くない。でも……」
「でも、心が許せないんだね」
父親は理解を示すように頷いた。
「私たちも、あなたを騙すつもりはなかったんだ。ただ、アメリが少しでも外の世界に慣れて、幸せになってほしかった。それだけだった」
「……幸せ」
アメリは苦しそうに笑った。
「皆、そう言う。でも、誰もわたしの本当の気持ちを聞いてくれない。わたしが何を望んでいるのか、誰も分かろうとしてくれない」
「それは違うよ、アメリ」
父親の声には、深い悲しみが込められていた。
「私たちは、いつでもアメリのことを考えている。あなたの幸せを願っている。でも……確かに、アメリの本当の気持ちを聞こうとしなかったのかもしれない」
父親は娘の手を取った。
「教えてくれないか。アメリ、アメリは本当は何を望んでいるんだい?」
アメリは唇を噛んだ。そして、ゆっくりと口を開いた。
「……わからない。でも、一つだけ確かなことがある」
「何だい?」
「ランがいない部屋は、とても寂しい」
その言葉に、父親は優しく微笑んだ。
「それなら、彼女を呼び戻したらどうだい?」
「……でも」
「謝る必要はないよ。ただ、あなたの正直な気持ちを伝えればいい。彼女も、アメリと同じように苦しんでいると思うよ」
父親はそう言うと、部屋を出ていった。
一人になったアメリは、父親の言葉を反芻した。
ランも、苦しんでいる?
あの日、部屋を出ていく時の彼女の表情を思い出す。涙を浮かべて、苦しそうな顔をしていた。
彼女は本当に、ただの仕事としてわたしに接していたのだろうか?
アメリは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。カーテンを開けると、外は雨だった。冷たい雨が、庭の花を打ちつけている。
そして、その雨の中に、一人の人影が見えた。
ランだった。
彼女は庭で、ずぶ濡れになりながら働いていた。重い荷物を運び、花壇の手入れをしている。他の使用人たちは皆、雨宿りをしているというのに。
アメリの胸が締め付けられた。
なぜ、あんなことをしているの?
部屋を飛び出していた。廊下を走り、階段を駆け下りる。使用人たちが驚いて振り返ったが、アメリは構わず庭への扉を開けた。
「ラン!」
雨の中、アメリは叫んだ。
ランが振り返る。驚いた表情で、アメリを見つめた。
「お、お嬢様!? どうして外に!」
「あなたこそ、どうしてこんな雨の中で!」
アメリはランのもとに駆け寄った。すぐにずぶ濡れになったが、気にしなかった。
「こんなことをして、体を壊したらどうするの!」
「わたしは……わたしは、お嬢様のお役に立てませんでした。だから、せめて他の仕事で役に立とうと……」
ランの声は震えていた。雨なのか涙なのか、彼女の頬を何かが伝っている。
「馬鹿」
アメリは思わず言った。
「馬鹿よ、あなたは。そんなこと、誰も望んでない」
「でも……お嬢様は、わたしのことを嫌いに……」
「嫌いになんて、なってない!」
アメリは叫んだ。
「確かに怒った。傷ついた。でも、嫌いになんてなってない。それどころか……」
言葉が詰まる。でも、言わなければならない。この想いを、伝えなければならない。
「それどころか、あなたがいない毎日が、辛くて辛くて仕方なかった。あなたの声が聞きたかった。あなたの笑顔が見たかった。あなたと一緒にいたかった」
ランの目が大きく見開かれた。
「わたし、あなたのこと……」
その先を言おうとした時、突然めまいがした。冷たい雨に打たれていたせいで、体が冷え切っていたのだ。
「お嬢様!」
ランが慌ててアメリを支えた。その腕の中で、アメリは意識を失った。
目を覚ますと、自分の部屋のベッドの中だった。
体は温かく、乾いた服を着せられている。部屋には暖炉の火が燃えていた。
そして、ベッドの脇の椅子に、ランが座っていた。彼女も着替えており、心配そうな顔でアメリを見つめている。
「お嬢様、お目覚めになりましたか」
ランの声は優しく、でもどこか遠慮がちだった。
「……ラン」
アメリは手を伸ばした。ランは一瞬躊躇してから、その手を握った。
「ごめんなさい」
二人は、同時に言った。
そして、同時に小さく笑った。
「お嬢様、わたしこそごめんなさい。最初から正直に言うべきでした。わたしの役目のこと、ちゃんと説明するべきでした」
「ううん、わたしも悪かったわ。あなたの話も聞かずに、一方的に怒って……」
アメリは起き上がると、ランの手を両手で包んだ。
「ねえ、ラン。正直に教えて。あなたがわたしと過ごした時間は、すべて仕事だったの? あなたの笑顔も、優しさも、すべて演技だったの?」
ランは首を横に振った。
「違います。最初は確かに、仕事だと思っていました。でも……お嬢様と過ごす時間は、わたしにとって本当に大切な時間になっていました」
「それなら」
アメリはランの目を見つめた。
「もう一度、一緒にいてくれる? わたしのそばに、いてくれる?」
「お嬢様……でも、わたしの役目は……」
「役目なんて、どうでもいい」
アメリははっきりと言った。
「わたしは、ランに望むことは一つだけ。ただ、わたしのそばにいてほしい。それだけ」
ランの目に涙が溢れた。
「本当に、それでいいんですか? わたしは、お嬢様を社交界に出すことも、結婚相手を見つけることもできないかもしれません」
「いいの。わたしが望むのは、そんなことじゃない」
アメリは深呼吸をした。そして、自分の心に正直になることを決めた。
「わたしが望むのは、あなたと一緒にいること。あなたの笑顔を見ること。あなたと話すこと。それだけで、わたしは幸せなの」
「お嬢様……」
ランは泣きながら、アメリの手を握り返した。
「わたしも、お嬢様と一緒にいたいです。お嬢様のそばにいたいです」
二人の距離が近づく。
そして、その時だった。
扉がノックされ、エレノア公爵夫人が入ってきた。
「アメリ、体調はどう? 医者を呼んだ方が……あら」
母親は、二人が手を握り合っている姿を見て、驚いたような、でもどこか嬉しそうな表情を浮かべた。
「お話の邪魔をしてしまったかしら」
「お、お母様!」
アメリは慌てて手を離そうとしたが、ランがしっかりと握っていて離れなかった。
母親は優しく微笑んだ。
「二人とも、仲直りできたのね。よかったわ」
「お母様、わたし……」
「言わなくてもいいわ、アメリ。お母様には分かるわ」
母親はベッドの脇に座ると、娘の頬に優しく触れた。
「あなたが何を感じているのか。あなたにとって、ランがどれだけ大切な存在なのか」
「……お母様」
「私は、あなたの幸せを願っているの。それが社交界でも、結婚でもなく、この部屋の中にあるのなら、それでもいいのよ」
母親の言葉に、アメリは目を潤ませた。
「でもね、アメリ。一つだけお願いがあるの」
「何?」
「少しずつでいいから、外の世界にも目を向けてほしいの。ランと一緒でいいから。二人で、この屋敷の外に出てみてほしいの」
アメリは少し考えてから、小さく頷いた。
「……考えてみる。ランが一緒なら、もしかしたら」
「それだけで十分よ」
エレノアは娘の額にキスをすると、立ち上がった。
「それじゃあ、ランをアメリに任せるわ。今夜は、彼女にここにいてもらいましょう」
「え、でも……」
ランが慌てたが、母親は笑顔で手を振った。
「アメリの看病をお願いね、ラン」
母親が部屋を出ていく。二人きりになった。
しばらく沈黙が続いた。そして、ランが口を開いた。
「お嬢様、本当に……わたしが、ここにいてもいいんですか?」
「ええ。というより、いてほしい」
アメリはベッドの端を叩いた。
「隣に、座って」
ランは躊躇いながらも、ベッドの端に腰を下ろした。二人は並んで座り、しばらく黙っていた。
「ねえ、ラン」
「はい」
「あなたは、わたしのことをどう思ってる?」
突然の質問に、ランは戸惑った表情を見せた。
「それは……」
「正直に教えて。わたしは、あなたの本当の気持ちが知りたい」
ランは深く息を吸った。そして、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「わたしは、お嬢様のことが好きです。最初は、ただのお仕事だと思っていました。でも、お嬢様と過ごす時間が増えるにつれて、この気持ちは大きくなっていきました」
「好き……」
アメリはその言葉を繰り返した。
「わたしも、あなたのことが好き。でも、これは……友達としての好きなのか、それとも……」
言葉が続かない。でも、ランには分かったようだった。
「お嬢様、わたしの気持ちは……友達としての気持ちとは、少し違うんです」
ランは顔を赤らめながら言った。
「わたしは、お嬢様のことを、女性として……一人の人として、愛しています」
その告白に、アメリの心臓が激しく鳴った。
「わたし……そういう感情を、感じたことがなくて。でも、あなたといると、胸が苦しくなって、手を握っていたくなって、ずっと一緒にいたくなる」
アメリは自分の胸に手を当てた。
「これが、恋なの?」
「わたしにも、分かりません。でも……もしこれが恋なら、わたしはお嬢様に恋をしています」
ランはアメリの手を取った。
「わたしたちは、女性同士です。世間からは認められないかもしれません。でも……」
「関係ない」
アメリははっきりと言った。
「世間がどう思おうと、関係ない。わたしが好きなのは、あなた。それだけが、わたしにとって大切なこと」
二人は見つめ合った。
そして、ゆっくりと顔を近づけた。
唇が触れる寸前で、アメリは目を閉じた。
初めてのキス。それは優しく、温かく、そして少しだけ切なかった。
離れると、二人とも顔を真っ赤にしていた。
「お、お嬢様……」
「アメリでいいわ。もう、お嬢様って呼ばないで」
「で、でも……」
「お願い、ラン。少なくとも、二人きりの時は」
ランは少し考えてから、小さく頷いた。
「分かりました……アメリ様」
「様もいらない」
「それは……さすがに」
二人は笑い合った。
その夜、ランはアメリの部屋に泊まった。二人は同じベッドで、手を繋ぎながら眠った。
外では雨が上がり、月が雲の間から顔を出していた。
窓辺に差し込む月明かりの中で、二人の穏やかな寝顔が照らされている。
長い冬が終わり、ようやく春が訪れた。
でも、二人の前には、まだ多くの困難が待ち受けていたのだった…。




