冷たい春の夜に
それから一ヶ月が過ぎた。
アメリの部屋は、以前と同じように静かだったが、しかしその空気は確実に変わっていた。窓は毎日開け放たれ、春の光が惜しみなく注ぎ込んでいる。花瓶には新鮮な花が活けられ、部屋の隅々まで丁寧に整えられていた。
そして何より、この部屋には笑い声が戻っていた。
「お嬢様、見てください! この本の挿絵、すごく綺麗ですね!」
ランが興奮した様子で、古い騎士物語の本を開いて見せてくる。アメリは彼女の隣に座り、その挿絵を覗き込んだ。
「……この画家は、三百年前の人。当時としては、とても斬新な技法を使ったの」
「へえ! 流石お嬢様、そんなことまで知ってるんですね!」
ランの目が輝く。その純粋な驚きと賞賛に、アメリは少しだけ誇らしい気持ちになった。
一ヶ月前には考えられなかったことだった。誰かと並んで座ること。誰かと本について語り合うこと。誰かの笑顔を見て、自分も笑顔になること。
ランが来てから、アメリの世界は少しずつ色を取り戻していた。
「ねえ、お嬢様。今日の午後、お庭に出てみませんか?」
ランが提案した。この一ヶ月、彼女は毎日のようにそう尋ねてくる。そして毎日、アメリは首を横に振ってきた。
しかし今日は、違った。
「……考えてみる」
アメリの答えに、ランは驚いて目を丸くした。
「本当ですか! 無理にとは言いませんけど、でも……今日はすごくいい天気なんです。バラが咲き始めて、とっても綺麗で」
ランの声には、期待と喜びが溢れていた。それを聞いて、アメリは小さく頷いた。
「……少しだけなら」
「お嬢様!」
ランは思わずアメリの手を取った。その温かさに、アメリは少しだけ驚いたが、嫌ではなかった。
「ありがとうございます! すぐに準備しますね!」
ランは嬉しそうに立ち上がると、アメリの外出着を選び始めた。その姿を見ながら、アメリは自分の心臓が少し早く打っているのを感じた。
恐怖ではない。期待でもない。ただ、何か新しいことが始まる予感のようなものだった。
それから十分後、アメリは三年ぶりに自分の部屋を出た。
廊下は、思ったよりも明るかった。窓から差し込む光が、床を照らしている。使用人たちが忙しそうに行き来していたが、アメリの姿を見ると、皆驚いたように立ち止まった。
「お嬢様……」
年配のメイド長が、感極まったような表情で呟いた。アメリは小さく会釈すると、ランに手を引かれるようにして階段を降りていった。
庭への扉が開く。
外の空気が、アメリの肌に触れた。
久しぶりに感じる風。土の匂い。花の香り。鳥のさえずり。
すべてが新鮮で、すべてが眩しかった。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
ランが心配そうに尋ねる。アメリは頷いた。足が震えていたが、それは恐怖だけではなかった。
「……綺麗」
小さく呟いた。目の前には、手入れの行き届いた庭が広がっている。色とりどりの花が咲き、噴水が優雅に水を吹き上げていた。
「でしょう? わたし、毎朝この庭を見るのが楽しみなんです」
ランは嬉しそうに笑った。そして、アメリの手をそっと握った。
「ゆっくり歩きましょう。お嬢様のペースで」
二人は、ゆっくりと庭を歩き始めた。
最初は緊張していたアメリも、徐々に周りの景色に目を向けられるようになった。バラのアーチ。石畳の小道。小さな池。すべてが美しく、すべてが懐かしかった。
「お嬢様は、昔、この庭でよく遊んでいたんですか?」
ランが尋ねた。アメリは小さく頷く。
「……小さい頃は。母と一緒に、花を摘んだり、池の魚に餌をやったり」
「素敵な思い出ですね」
ランの声は優しかった。彼女は決して、「なぜそれをやめてしまったのか」とは聞かなかった。ただ、アメリの思い出を大切にするように、静かに聞いていた。
ベンチに腰を下ろすと、ランは持ってきたバスケットからお茶の道具を取り出した。
「お嬢様、ここでお茶を飲みましょう」
淹れたてのお茶の香りが、春の空気に溶けていく。アメリはカップを受け取り、一口飲んだ。温かさが胸に広がる。
「……美味しい」
「よかった! 厨房で淹れ方を習ったんです」
ランは嬉しそうに笑った。その笑顔を見ていると、アメリの心が温かくなる。
この一ヶ月で、ランはアメリにとって特別な存在になっていた。ただの使用人ではない。ただの友人でもない。もっと大切な、もっと近い存在。
でも、それが何なのか、アメリにはまだ分からなかった。
「…お嬢様、あそこにいるのは……」
ランが指差した方を見ると、庭の入り口に見知らぬ若い男性が立っていた。立派な服装から、貴族であることが分かる。
アメリの身体が強張った。
男性はこちらに気づくと、笑顔で近づいてきた。
「これはこれは、アメリお嬢様。久しぶりですね」
男性は優雅に一礼した。彼は二十代半ばほどで、整った顔立ちをしている。しかし、アメリにはこの男性に見覚えがなかった。
「……どなた?」
アメリの声は震えていた。ランがすぐにアメリの前に立ち、男性との間に入った。
「失礼ですが、どなた様でしょうか? お嬢様は今、お休み中で……」
「おや、これは失礼。わたしはクラウス=フォン=アルトハイム。辺境伯の次男です。本日、リズエル公爵様とお話をさせていただく約束でして」
クラウスは丁寧に答えたが、その視線はランを越えて、アメリに妖しく向けられていた。
「あなたがこんなに美しく成長されているとは。最後にお会いしたのは、あなたがまだ十歳の頃でしたからね」
アメリの顔が青ざめていく。ランはそれに気づき、素早くアメリの手を取った。
「お嬢様、お部屋にお戻りになりましょう」
「ああ、お待ちください。せっかくですから、少しお話を……」
「申し訳ございません。お嬢様はお疲れのようですので」
ランははっきりと断った。その毅然とした態度に、クラウスは少し驚いたようだったが、すぐに笑顔を取り戻した。
「そうですか。それでは、また後ほど。公爵様とのお話の後に、改めてご挨拶させていただきます」
クラウスは再び一礼すると、屋敷の方へ歩いていった。
ランは急いでアメリを部屋に連れ戻した。部屋に入ると、アメリの足から力が抜け、その場に座り込んでしまった。
「お嬢様! 大丈夫ですか?!」
ランが慌ててアメリを抱きかかえる。アメリは震えながら、ランの服を掴んだ。
「怖い……知らない人、怖い……」
「大丈夫です、大丈夫ですよ。もう、ここにはわたししかいませんから」
ランはアメリの背中を優しく撫でた。その温もりに、アメリは少しずつ落ち着いていった。
「……ごめんなさい」
「謝らないでください。お嬢様は何も悪くないですから」
ランの声は優しく、そして少しだけ悲しそうだった。
その夜、ランはいつもより遅くまでアメリのそばにいた。本を読んであげたり、お茶を淹れたり、ただ手を握っていたり。
「ラン……」
アメリは小さく呼びかけた。
「はい、お嬢様」
「……あなたがいてくれて、よかった」
その言葉に、ランの表情が複雑に歪んだ。しかしすぐに笑顔を作ると、優しく答えた。
「わたしも、お嬢様のそばにいられて嬉しいです」
でも、その笑顔の奥に、何か影があることに、アメリは気づかなかった。
翌朝、ランがいつものように部屋を訪れると、アメリは窓辺に座っていた。
「お嬢様、おはようございます」
「……おはよう、ラン」
アメリは振り返った。その表情は、昨日よりも少し落ち着いているように見えた。
「昨日は……ありがとう。あなたがいなかったら、わたし……」
「お嬢様」
ランはアメリの隣に座った。
「わたしは、いつでもお嬢様の味方です。どんな時でも、お嬢様を守ります」
その言葉に、アメリの胸が熱くなった。守る、と言ってくれる人がいる。そばにいてくれる人がいる。
「ラン、あなたは……わたしにとって、とても大切な人」
アメリは自分の気持ちを言葉にした。それが恋なのか、友情なのか、まだ分からなかった。でも、この感情が特別なものであることは確かだった。
ランは一瞬、驚いたような表情を見せた。そして、複雑な笑みを浮かべた。
「お嬢様……わたしも、お嬢様のことを、とても大切に思っています」
その言葉には、何か言いたくても言えない気持ちが込められているように感じられた。でもアメリは、それに気づくことができなかった。
その日の午後、エレノア公爵夫人がアメリの部屋を訪れた。
「アメリ、少しお話があるの」
母親の表情は優しかったが、どこか真剣だった。アメリは緊張しながら頷いた。
「昨日、アルトハイム家のクラウス様がいらしたでしょう?」
アメリの身体が強張る。母親はそれに気づき、優しく続けた。
「大丈夫よ、無理にとは言わないわ。でもね、彼はあなたに興味を持っているの。あなたのことを、良いお嬢様だとおっしゃっていて……」
「……結婚の話?」
アメリは震える声で尋ねた。
母親は少し躊躇してから、頷いた。
「ええ。でもまだ正式な申し込みではないの。ただ、お父様と今後について話し合いたいと」
「嫌」
アメリははっきりと言った。
「結婚なんて、したくない。知らない人と一緒になるなんて、絶対に嫌」
「アメリ……」
「お母様は、わたしを外に出したいんでしょう? 社交界に出して、誰かと結婚させたいんでしょう? でも、無理。わたしには無理なの」
アメリの目から涙が溢れた。母親は娘を抱きしめた。
「ごめんなさい、アメリ。私は、あなたを苦しめたいわけじゃないの。ただ、あなたに幸せになってほしいだけなの」
「……幸せ?」
「ええ。あなたがこの部屋に閉じこもったままでは、本当の幸せは見つからないと思うの。外には、素敵な人たちがいて、素敵な場所があって、素敵な経験ができる。それを、あなたにも味わってほしいの」
母親の言葉は、純粋な愛情から来ているものだった。でも、アメリにはそれが重荷に感じられた。
「……考える時間を、ください」
「もちろんよ、アメリ。ゆっくり考えて。私はいつでも、あなたの味方だから」
母親は娘の額にキスをすると、部屋を出ていった。
一人になったアメリは、ベッドに倒れ込んだ。結婚。社交界。外の世界。すべてが恐ろしかった。
でも、心のどこかで思う。
もし、ランがそばにいてくれるなら。
もし、ランの手を握っていられるなら。
もしかしたら、少しだけ、外に出られるかもしれない。
その夜、ランが夕食を持ってきた時、アメリは思い切って尋ねた。
「……ラン、あなたは、ずっとここにいてくれる?」
ランの手が止まった。
「お嬢様?」
「わたしと一緒に、ずっと……」
アメリは言葉を続けられなかった。自分が何を言おうとしているのか、よく分からなかったから。
ランは少しの間、黙っていた。そして、優しく微笑んだ。
「わたしは、お嬢様のそばにいます。できる限り、ずっと」
でも、その「できる限り」という言葉に、何か制限があることを、アメリは感じ取った。
「……何か、隠してる?」
鋭い質問に、ランは驚いた表情を見せた。
「いえ、そんなことは……」
「ラン、正直に言って。あなたは、何か隠してる」
アメリの青い瞳が、真っ直ぐにランを見つめた。
ランは唇を噛んだ。そして、小さく頷いた。
「……お嬢様、わたしがここに来た本当の理由を、知りたいですか?」
アメリは頷いた。
ランは深く息を吸った。
「わたしは……ただのメイドではありません。わたしの本当の役目は、お嬢様を外の世界に慣れさせて、社交界に出られるようにすること。そして……良い結婚相手を見つけられるように、お手伝いすることです」
アメリの顔から血の気が引いた。
「それが、わたしがここに来た理由です。公爵様と夫人様から、そう頼まれました」
「……嘘」
アメリは震える声で言った。
「嘘よね? あなたは、わたしの友達になってくれたんじゃ……」
「お嬢様、それは本当です! わたしは、お嬢様のことを本当に大切に思っています! ただ、最初の目的が……」
「出ていって」
アメリの声は冷たかった。
「お嬢様……」
「出ていって! もう、顔も見たくない!」
アメリは叫んだ。ランは苦しそうな表情で立ち上がった。
「お嬢様、お話を……」
「出ていけって言ってるでしょう!」
アメリは枕を投げた。ランはそれを避けると、涙を浮かべて部屋を出ていった。
扉が閉まる。
アメリは一人、ベッドの上で泣いた。
信じていた。この人なら、自分を裏切らないと。この人なら、本当の自分を受け入れてくれると。
でも、すべては嘘だった。すべては、自分を外に出すための策略だった。
また、騙された。
また、裏切られた。
アメリの心は、再び固く閉ざされていった。
廊下で、ランは壁に背を預けて泣いていた。
自分の役目を明かすべきではなかった。でも、嘘をつき続けることもできなかった。
アメリお嬢様のことが、好きだった。
いつの間にか、ただの仕事ではなくなっていた。お嬢様の笑顔が見たい。お嬢様の幸せを願う。そんな気持ちが、心を満たしていた。
でも、それは叶わない想いだった。
自分は使用人で、お嬢様は公爵家の令嬢。そして、自分の役目は、お嬢様を誰か別の人と結婚させること。
どんなに想っても、決して結ばれることのない想い。
ランは拳を握りしめた。涙が止まらなかった。
春の夜は、冷たく、そして残酷だった




