閉ざされた心と差し伸べられた手
薄いレースのカーテン越しに差し込む春の陽光が、アメリ=リズエルの部屋をやわらかく照らしていた。窓辺に置かれた読みかけの本のページが、そよ風に揺れている。しかし、部屋の主であるアメリは、その美しい光景に目を向けることなく、ベッドの上で膝を抱えていた。
長い金色の髪が背中に流れ、青い瞳は虚ろに宙を見つめている。十六歳になったばかりの彼女の顔立ちは美しく、見るものの目を引くが、その表情には生気が感じられなかった。まるで、この屋敷の中に閉じ込められた小鳥のように。
「アメリ、お入りしてもよろしいかしら?」
扉を軽くノックする音とともに、母親のエレノア公爵夫人の優しい声が聞こえた。
「……はい」
アメリは小さく答えた。扉が開き、母親が穏やかな笑みを浮かべて入ってくる。彼女はアメリの隣に腰を下ろすと、娘の肩にそっと手を置いた。
「今日はね、あなたに紹介したい人がいるの」
アメリの身体がわずかに強張った。「紹介」という言葉に、彼女は敏感に反応してしまう。また誰か知らない人が来るのだろうか。社交界の誰かが、好奇の目で自分を見るのだろうか。
母親はそんな娘の様子に気づき、優しく髪を撫でた。
「大丈夫よ。あなたと同じくらいの年齢の、素敵な女の子なの。あなたの話し相手として、そしてお世話係として、しばらくこの屋敷で働いてもらうことになったの」
「……お世話係?」
アメリは困惑した表情で母親を見上げた。自分にはすでに専属のメイドがいる。なぜ今さら新しい使用人が必要なのだろうか。
「ええ。でもね、彼女はただのメイドではないの。あなたのお友達にもなってくれるような、そんな子を選んだのよ」
母親の言葉に、アメリは何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言えずに視線を落とした。友達。その言葉が、彼女の心に小さな痛みを走らせる。
三年前のことが、まだ鮮明に思い出される。
社交界デビューの準備として通い始めた令嬢たちの集まりで、アメリは激しいいじめに遭った。最初は些細な嫌がらせだった。話しかけても無視される。お茶会に誘われない。それだけならまだ耐えられた。
しかし、やがてそれはエスカレートしていった。彼女の持ち物が隠される。悪意のある噂が流される。ついには、彼女が大切にしていた亡き祖母の形見のブローチを、誰かが壊してしまった。
「だって、アメリってつまらないんだもの」
いじめの中心だった令嬢の言葉が、今でも耳に残っている。
「いつも本ばかり読んで、会話もつまらない。こんな子が公爵家のお嬢様だなんて、恥ずかしいわ」
周りの令嬢たちは笑った。アメリは何も言い返せなかった。ただ、その場から逃げ出すことしかできなかった。
それ以来、アメリは外出を拒むようになった。社交界への参加はもちろん、庭に出ることさえ怖くなってしまった。誰かに会うことが、誰かと話すことが、恐ろしくてたまらなかった。
両親は心配した。医師や学者を呼び、様々な方法を試みた。しかし、アメリの心の傷は深く、簡単には癒えなかった。
そして今、十六歳という結婚適齢期を迎えた娘を、両親はなんとか外の世界に導きたいと願っていた。無理強いするつもりはない。ただ、彼女が再び人を信じられるように、少しずつでも心を開けるように。
「アメリ、少しだけでいいの。彼女に会ってみて」
母親の懇願するような声に、アメリは小さく頷いた。拒否することもできたが、両親の心配そうな顔を見るのは、彼女にとっても辛いことだった。
「ありがとう、アメリ」
母親は娘の額にキスをすると、部屋を出ていった。
それから数分後、扉が再びノックされた。
「失礼します!」
先ほどの母親とは全く違う、明るく元気な声が響いた。扉が開くと、そこには一人の少女が立っていた。
アメリは思わず目を見開いた。
その少女は、まるで春の太陽のように眩しかった。栗色の短い髪が活発そうに跳ね、緑色の瞳はきらきらと輝いている。メイド服を着ているが、その着こなしには少しも堅苦しさがなく、むしろ清々しさすら感じられた。
「はじめまして! わたし、ラン=ルディックって言います! 今日からアメリお嬢様のお世話をさせていただくことになりました!」
ランは深々とお辞儀をしたが、その動作さえもどこか弾むようで、明るさに満ちていた。顔を上げた彼女は、にっこりと笑った。
「よろしくお願いします、お嬢様!」
アメリは何も言えずに、ただランを見つめていた。こんなにも明るく、こんなにも屈託のない笑顔を、彼女は久しく見ていなかった。
「あの……お嬢様?」
ランが不思議そうに首を傾げた。アメリははっとして、慌てて視線を逸らした。
「あ……その、よろしく……」
小さく、かすれた声でそう答えるのが精一杯だった。
ランは気にした様子もなく、部屋の中に入ってきた。彼女は窓辺に歩み寄ると、カーテンを大きく開けた。
「わあ、素敵なお部屋ですね! 窓からお庭が見えて、とっても気持ちいい!」
突然明るくなった部屋に、アメリは目を細めた。久しぶりに浴びる強い日差しに、少しくらくらする。
「お嬢様、お外に出られますか? 今日はとってもいい天気ですよ!」
ランの無邪気な提案に、アメリは首を横に振った。
「……外は、嫌」
「そうなんですか? もったいないなあ。こんなにいい天気なのに」
ランは残念そうに言ったが、それ以上は無理強いしなかった。代わりに、彼女はアメリの方を向き直ると、再び笑顔を見せた。
「じゃあ、お部屋の中で過ごしましょう! お嬢様は普段、何をして過ごされるんですか?」
「……本を、読んでる」
「本! わたしも本、好きですよ! どんな本を読まれるんですか?」
ランの目がきらりと輝いた。アメリは少し戸惑いながらも、ベッドサイドの本を手に取った。
「これは……騎士物語」
「騎士物語! かっこいいですよね、騎士って! わたし、小さい頃から騎士に憧れてたんです」
ランは嬉しそうに目を輝かせた。その純粋な反応に、アメリは少しだけ心が動いた。
「……あなたも、読むの?」
「はい! でも、わたしの家は貧乏だったから、本はあまり買えなくて。村の教会に置いてある古い本を、何度も何度も読み返してました」
ランは照れくさそうに笑った。その笑顔には、自分の境遇を卑下する様子は全くなく、むしろ懐かしむような温かさがあった。
「この屋敷にはたくさん本があるって聞いて、実はちょっと楽しみにしてたんです。お嬢様、もしよかったら、いろんな本を紹介してもらえませんか?」
アメリは驚いて、ランを見つめた。今まで出会った令嬢たちは、誰も彼女の読書趣味に興味を示さなかった。むしろ、「本ばかり読んでつまらない」と馬鹿にされてきた。
でも、目の前のこの少女は、本当に興味を持っているようだった。その緑色の瞳には、嘘や皮肉は感じられない。
「……いいけど」
アメリは小さく頷いた。
「本当ですか! ありがとうございます、お嬢様!」
ランは嬉しそうに手を叩いた。その仕草があまりにも子供っぽくて、アメリは思わず小さく笑いそうになった。慌ててそれを押さえ込んだが、ランはその微かな変化に気づいたようだった。
「お嬢様、今、笑いかけましたよね?」
「え……いえ、別に」
アメリは慌てて否定したが、ランはにっこりと笑った。
「お嬢様の笑顔、素敵だと思います。もっと見てみたいなあ」
その言葉に、アメリの頬がほんのりと赤く染まった。誰かにそんなことを言われたのは、いつ以来だろうか。
「さて、それじゃあお嬢様、今日のご予定は何かありますか?」
ランは明るく尋ねた。アメリは首を横に振る。
「……特に、何も」
「そうですか。じゃあ、一緒に過ごしましょう! えっと、まずは……お昼ごはんの時間までに、お部屋のお掃除をしてもいいですか?」
「……好きにして」
「ありがとうございます!」
ランは早速、部屋の掃除を始めた。しかし、彼女の掃除は普通のメイドとは少し違っていた。
「わあ、この花瓶、綺麗ですね! お嬢様のお好きな花なんですか?」
「……母が、飾ってくれたもの」
「そうなんですね。公爵夫人様、とっても優しそうな方ですもんね。わたし、さっきお会いした時、すごく温かい気持ちになりました」
ランは手を動かしながら、次々と話しかけてきた。普通なら煩わしく感じるところだが、不思議とアメリはそう思わなかった。ランの声は押し付けがましくなく、ただそこにある春の小川のせせらぎのように、自然に耳に入ってくる。
「この本棚、すごい! こんなにたくさん本があるんですね! お嬢様、全部読まれたんですか?」
「……半分くらい」
「半分でもすごいです! わたし、こんなにたくさんの本に囲まれて暮らすのが夢だったんです」
ランの目が、本棚を見つめてきらきらと輝いていた。その純粋な憧れの表情に、アメリは少しだけ、自分が持っているものの価値を再認識した。
掃除が終わると、ランはアメリに向き直った。
「お嬢様、お昼ごはんの時間ですよ。ご一緒にダイニングに参りましょう」
「……部屋で、食べる」
アメリは即座に答えた。彼女はもう長い間、家族と一緒に食事をしていなかった。誰かと向かい合って食事をすることが、怖かったのだ。
「そうですか。じゃあ、わたしがお部屋まで運んできますね」
ランは嫌な顔一つせず、明るく言った。
しばらくして、ランは豪華な昼食を載せたトレイを持って戻ってきた。テーブルに料理を並べながら、彼女は楽しそうに話した。
「わあ、すごいご馳走ですね! このスープ、いい匂い! それに、このパン、ふわふわしてて美味しそう!」
ランの興奮した様子を見て、アメリは小さく尋ねた。
「……あなたは、食べないの?」
「え? わたしは使用人食堂で後で食べますよ」
「……一緒に、食べれば?」
自分でも驚くような提案だった。アメリは思わず口を押さえた。しかし、もう言葉は出てしまっていた。
ランは目を丸くした。
「本当ですか? でも、お嬢様と使用人が一緒に食事だなんて……」
「……いいの。あなたが、嫌じゃなければ」
アメリは小さく言った。なぜそんなことを言ったのか、自分でもよく分からなかった。ただ、この明るい少女と一緒にいると、いつもの孤独が少しだけ和らぐ気がした。
「嫌なわけないです! ありがとうございます、お嬢様!」
ランは嬉しそうに笑うと、急いで自分の分の食器を取りに行った。
二人で向かい合って食事をする。それは、アメリにとって三年ぶりの経験だった。
最初は緊張していたが、ランの明るいおしゃべりに、徐々に心がほぐれていった。
「このスープ、本当に美味しいですね! わたしの村では、こんなに美味しいスープは食べたことないです!」
「……あなたの村は、どこ?」
「ここから馬車で二日くらいの、小さな村です。みんな貧しいけど、優しくて、温かい人たちばかりでした」
ランは懐かしそうに目を細めた。
「……家族は?」
「父と母と、弟が二人います。みんな元気で、わたしがここで働けることをとっても喜んでくれました」
「そう……」
アメリは少し寂しそうに呟いた。ランには帰る場所がある。温かい家族がいる。それは、彼女がいつか失ってしまったもののように思えた。
自分にも家族はいる。優しい両親がいる。でも、心の距離は遠く感じられた。自分が心を閉ざしてしまったせいで。
「お嬢様?」
ランが心配そうに覗き込んできた。アメリははっとして、首を横に振った。
「……何でもない」
「そうですか。あの、お嬢様、もし何か困ったことがあったら、わたしに言ってくださいね。わたし、お嬢様のお役に立ちたいんです」
ランの真っ直ぐな眼差しに、アメリは思わず目を逸らした。その純粋さが、まぶしすぎた。
昼食の後、ランは再び掃除や整理を続けた。時々、本棚から本を取り出しては、興味深そうに眺めている。
「お嬢様、この本、借りてもいいですか? 夜、自分の部屋で読みたいんです」
「……好きにして」
「ありがとうございます! 大切に読みますね」
夕方になると、ランは夕食の準備のため、一度部屋を出ていった。
一人になったアメリは、窓辺に座って外を眺めた。庭では、使用人たちが働いている。ランの姿も見えた。彼女は他の使用人たちと楽しそうに話しながら、何かを運んでいる。
その明るい様子を見ていると、アメリの胸に複雑な感情が湧き上がった。
羨ましさ。憧れ。そして、ほんの少しの希望。
もしかしたら、この少女となら。
もしかしたら、もう一度。
そんな淡い期待が、閉ざされた心の奥底で、小さく芽生え始めていた。
夕食の時間、ランは再びアメリの部屋に食事を運んできた。
「お嬢様、今日もご一緒してもいいですか?」
「……ええ」
今度は、アメリの返事は少しだけ早かった。
二人で並んで食事をしながら、ランは一日の出来事を楽しそうに話した。他の使用人たちのこと、庭で見た花のこと、厨房で聞いた面白い話。
アメリはほとんど相槌を打つだけだったが、ランは気にしていないようだった。彼女はただ、アメリの隣にいることが嬉しいかのように、笑顔で話し続けた。
「お嬢様、明日は何をしましょうか? あ、そうだ! もしよかったら、お庭を少しだけ見てみませんか? 窓からじゃなくて、実際に」
「……無理」
アメリは即座に否定した。その声は、少し震えていた。
ランはすぐに気づいて、優しく微笑んだ。
「分かりました。じゃあ、また今日みたいに、お部屋で過ごしましょう。お嬢様が好きなように、わたしはそれに付き合いますから」
その言葉に、アメリは少しだけ安心した。ランは無理強いしない。ただ、そばにいてくれる。
夜になり、ランが自分の部屋に戻る時間になった。
「それでは、お嬢様、おやすみなさい。また明日、朝一番に来ますね」
「……おやすみなさい」
ランが部屋を出ていく。扉が閉まる音がして、アメリは再び一人になった。
しかし、今夜の孤独は、いつもと少し違っていた。
部屋にはまだ、ランの明るい声が残っているような気がした。彼女の笑顔が、目を閉じると浮かんでくる。
アメリは自分のベッドに横になりながら、今日一日のことを思い返した。
久しぶりに、誰かと長い時間を過ごした。久しぶりに、誰かと言葉を交わした。久しぶりに、心が少しだけ温かくなった。
それは、とても小さな変化だった。でも、確かな変化だった。
窓の外では、星が静かに瞬いている。春の夜風が、カーテンを優しく揺らしていた。
アメリは目を閉じた。そして、明日もまた、あの明るい声が聞こえることを、ほんの少しだけ、楽しみにしている自分に気づいた。
それは、三年ぶりに感じる、前向きな感情だった。
長い冬が終わり、少女の心に、ようやく春の訪れが見え始めていた。まだ遠く、まだ小さな芽吹きに過ぎなかったが。
それでも、確かに。
閉ざされた心の扉が、ほんの少しだけ、開き始めていた。




