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9.解散の危機?!

 その日の朝も、シェアハウス「ひまわり荘」はいつも通りにぎやかだった。


 二階では、麗が美顔器の駆動音を響かせながら「もう、日差しが強いわね」と独り言を漏らし、台所では春樹がトントントンと軽快なリズムで朝食の野菜を刻んでいる。いつもなら、そこに割り込むように「ガハハ! 春坊、今日の味噌汁はナメコにしてくれよ!」という銀ばあの野太い声が響き、真希が「朝っぱらからうるせぇよ、ババァ!」と応酬するのがこの家の日常だった。


 だが、今日はいつまで経っても、その「主役」の声が聞こえてこない。いつもなら、開け放たれた縁側で朝日を浴びて「ガハハ!」と笑いながら、本物か偽物かも怪しいビールを煽っているはずなのに。


「……おい。あのクソババァ、まだ寝てんのか?」


 真希が拡声器代わりの地声を潜め、首を傾げた。春樹も包丁を止め、不安そうに廊下の先を見つめる。


「珍しいですね……。銀さん、いつも朝は起きてるのに」


「ちょっと、見てきてあげなさいよ。まさか、お酒の飲み過ぎで動けないんじゃないでしょうね?」  麗が、いぶかしげに眉をひそめる。


「……ババァ? 起きてるか?」


 真希が不審に思い、銀ばあの部屋へと向かった。


「……っ!?」


 布団に不自然な形で突っ伏した、小さな、驚くほど小さな背中。傍らには、飲みかけのグラスが倒れ、中身が畳に虚しく広がっている。


「おい、銀ばあ……! 冗談だろ、おい! しっかりしろ!!」


 真希の、喉を切り裂くような絶叫が静寂を打ち破った。キッチンで朝食を並べていた春樹が、メイクをしていた麗が、顔を真っ青にして廊下に飛び出してくる。


「きゅ、救急車! すぐに呼びましょう、僕が……!」


 春樹の声が上ずり、スマホを持つ指がガタガタと震える。


「そ、そうね! ええと、救急車……何番だったかしら!? 誰に電話すれば……」  


 常に冷静沈着な麗ですら、持っていたパフを床に落とし、焦点の定まらない瞳で狼狽えていた。


 そこへ、パジャマ姿の結愛が、陸のシャツの裾を握りしめながらおずおずと現れた。


「……ねぇ。銀ばあ、どうしたの? なんで寝てるの?」


 結愛の大きな瞳に、今にも溢れそうな涙が溜まっていく。いつもは冷静な陸も、固く口を閉ざしたまま、真希の震える拳と、横たわる銀ばあを交互に見つめていた。その小さな肩が、わずかに強張っている。


「かーちゃん……、銀ばあ、死んじゃうの……?」


 不安に押しつぶされそうな陸の声が、真希の胸を突き刺した。真希は一瞬、言葉に詰まる。だが、すぐに陸の頭を乱暴に、けれど折れそうなほど優しく引き寄せると、咆哮に近い声で言い放った。


「……バカ言ってんじゃねぇ! 大丈夫だ! このクソババァが死ぬわけねぇだろ!!」


 真希は陸の肩を強く掴み、その瞳を真っ直ぐに見つめ返した。


「いいか、よく聞け。アイツはいつも『アタシは100歳まで生きてやるんだ』って言ってるだろ? たかがこれくらいのことで、あの欲張りババァが三途の川を渡るわけねぇだろうが! 閻魔様だって、あんなうるせぇのが来たら、迷惑がって追い返してくるに決まってんだよ」


 真希の手は、まだ微かに震えていた。 自分に言い聞かせるようなその荒い声に、春樹もハッと我に返り、結愛の前に膝をつく。


「……ご、ごめんね、結愛。びっくりしたよね。銀さんはちょっと、調子が悪いみたいなんだ。パパ、病院に一緒に行ってくるよ。すぐに治して、ちゃんと一緒に帰ってくるから。……いい子で、待っててくれるかな?」

「……うん。約束、だよ?」


 結愛の小さな指と指を絡めながら、春樹は必死に声を震わせないよう努めた。


 遠くで、サイレンの音が聞こえ始める。その音が近づくにつれ、逃れようのない「現実」がじわじわと家の中に浸透していく。


「僕が救急車に同乗します」


 春樹が、銀ばあの冷え切った手を握りしめたまま、二人を真っ直ぐに見上げた。その瞳には、恐怖を押し殺した、守るべき者のための強い決意が宿っていた。


「真希さんと麗さんは、子どもたちを保育園へお願いします。……それから、そのままお仕事へ。家の中に、これ以上不安を広めちゃいけない」


 春樹の言葉に、真希は「何を……」と言いかけて飲み込んだ。今ここで全員が病院へ駆け込めば、日常は完全に壊れてしまう。


「……わかったよ、春樹。アタシらに任せろ。……その代わり、何かあったらすぐに連絡しろ。いいな、絶対だぞ!」


「春樹ちゃん……銀さんをお願いね……!」


 救急隊員の足音が玄関先に響き渡る。春樹は一度だけ、震える手で子どもたちに手を振り、ストレッチャーを追って飛び出していった。


 *


 病院の廊下。消毒液の匂いが鼻をつく中、処置室から出てきた医師が、春樹に向かって穏やかに告げた。


「……急性胃腸炎と過労、それに少しばかりの酒の飲み過ぎですね。高齢ですから大事を取って入院していただきますが、命に別状はありませんよ」


 その言葉を聞いた瞬間、春樹は膝の力が抜け、壁に寄りかかるようにして崩れ落ちた。


「……よかった……。本当に、よかった……」


 春樹は震える手ですぐにグループチャットにメッセージを投げた。


『銀さん、命に別状なし。急性胃腸炎と過労、飲みすぎだそうです!』


 すぐさま真希から『ったく、あのクソババァ! 人騒がせなんだよ!』と、怒りマークと共に安堵が漏れ出すような返信が届き、麗からも『……腰が抜けちゃったじゃない。あとで高級な栄養剤を請求してやるわ』と、彼女らしい強気なメッセージが返ってきた。



 夕刻、仕事を早退した真希と麗、そして病院から戻った春樹の三人は、数日間の入院に必要な着替えをまとめるため、銀ばあの部屋に集まった。


「あのババァ、入院中も酒持ってこいとか言い出しそうだな」  


 真希が苦笑いしながらタンスから寝巻きを引き出す。


「そうね。今のうちに部屋のお酒、全部没収して隠しちゃいましょう」  


 麗が鏡台の上を整理し、春樹が「棚の中も見ておきますね」と、銀ばあがいつも家計簿をつけている古い文机へ向かった。


 そこで、春樹の手が止まった。


「……? なんですか、これ」


 文机の上に置かれていたのは、一通の分厚い封筒。大手不動産会社のロゴが入ったそれは、使い古された机の上で異様な威圧感を放っていた。真希が横から覗き込み、乱暴に中身を引き抜く。


「……土地売却に関する、最終確認書……?」


 真希の言葉に、部屋の空気が一瞬で凍りついた。麗が震える指で、その下にあるもう一枚の書類をめくる。そこには、目を疑うような太文字が並んでいた。


『ひまわり荘 解体計画書』


 そこには、三カ月後の日付と共に、この建物を更地にし、マンションを建設するための詳細なスケジュールが記されていた。


「……解体って、ここを壊すってことか? アタシたちが、今いるここを……?」

 真希の声から色が消える。


「そんな……。銀ばあ、何も言ってなかったじゃないですか。僕たち、……バラバラになるんですか?」


 春樹の問いに答える者は誰もいなかった。 窓から差し込む夕日が、主のいない部屋を赤く染め上げる。救われたはずの命の裏側で、彼らの「家」はすでに、終わりの時を刻み始めていた。

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