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8.嵐を呼ぶ訪問者

 日曜の穏やかな午後、ひまわり荘の平穏を切り裂くように、不釣り合いなほど鋭く、乾いたヒールの音が板張りの廊下に響き渡った。


 現れたのは、春樹の元妻、恵里香えりか。 大手広告代理店で辣腕を振るう彼女は、一点のシワもないハイブランドのタイトスーツに身を包み、冷徹な美しさを纏っていた。かつて不倫の末に、優しすぎる春樹をゴミのように捨てて去った張本人である。


「……久しぶりね、春樹。相変わらず、ここでも主夫をやっているの?」


 キッチンで夕食の仕込みをしていた春樹は、その声を聞いた瞬間、心臓を直接掴まれたように硬直した。手から滑り落ちたお玉が、床に虚しい音を立てて転がる。


「え、え、恵里香……。どうして、ここが……」

「調べたのよ。それより、単刀直入に言うわ。結愛ゆあを連れ戻しに来たわ」


 恵里香はリビングへと土足同然の勢いで踏み込むと、周囲を検分するように見渡した。 トレーニング直後で汗だくのままプロテインを煽っている真希や、顔全体にパックを貼り付けたまま、おどろおどろしい姿でくつろいでいた麗。その光景を目にした彼女の口元が、蔑むように歪んだ。


「……信じられない。こんなカビ臭い古家で、こんな得体の知れない人たちと一つ屋根の下だなんて。私の娘を、こんな不潔な環境に置いておけないわ。結愛の将来を考えれば、どちらが親にふさわしいか、明白でしょう?」


 彼女の視線は、もはや人間を相手にしているものではなく、質の悪い不良品を眺めるかのような冷酷さに満ちていた。春樹は震える手でキッチンの縁を掴み、必死に言葉を探すが、元妻の圧倒的な「正論(という名の傲慢)」の前に、喉の奥が引き攣って音が出ない。


「結愛は、私の実家で育てるのが一番よ。あの子、私に似て優秀なんだから。名門の私立に入れて、しかるべき教育を受けさせないと。あなたみたいな、キャリアも向上心もない『主夫』に、あの子の将来を預けるなんて無責任にも程があるわ」


 恵里香の言葉は、研ぎ澄まされたナイフのように正確に、春樹が最も自信を持てない部分を抉っていく。


「で、でも、結愛はここで楽しくやってるし……。お友達もできたし……。僕も、あの子の笑顔を守るために精一杯……」

「あなたに何ができるっていうの? このボロ家の家賃を払うのだってギリギリなんでしょ? 結愛の幸せを、あの子の『価値』を考えるなら、身を引くのが親としての最後の責任だと思わない?」


 春樹は何も言い返せず、白くなった拳を握りしめてうつむいた。キッチンに漂う、自分が一生懸命に作った夕飯の出汁の香りが、恵里香の放つ高級な香水の香りに塗り潰されていく。自分のしてきたこと、捧げてきた時間が、すべて「価値のないもの」として足蹴にされているような絶望感が彼を襲った。


 その様子を、廊下の物陰から結愛が見つめていた。大好きなパパが、自分のために必死に耐えている姿。そして、自分を「モノ」のように評価する母親の冷たい声。結愛は小さな肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で、握りしめたポシェットのイチゴのアップリケを強く、強く握りしめていた。


 静まり返ったリビング。春樹の鼻をすする音だけが響こうとしたその時、背後で、重厚な革のソファが「ギッ」と音を立てた。


 プロテインのシェイカーを置いた真希の指先が、怒りでピキピキと音を立てる。そして、パックを貼り付けたままの麗が、優雅に、しかし氷点下の冷徹さを孕んだ声で口を開いた。


「……あら。ずいぶんと騒がしいゴミが紛れ込んだものね」


「おいおい。さっきから黙って聞いてりゃ、勝手に話を進めてんじゃねぇよ。そのお高くとまったツラ、ひっぱたいてやりたくなってくるぜ」


「部外者は黙ってなさい! あなたたちには関係ないことでしょう!」  


 恵里香が、汚らわしいものを見るような目で真希を撥ねつける。しかし、真希は一歩も引かず、逆にその鼻先に顔を突き出した。


「関係ねぇ? アタシはこの家の住人だ。春樹の何が不満なんだ、あぁん? 飯は美味いし、アイロンがけだって職人並みに上手いんだぞ。アタシが現場で泥だらけになって帰ってきても、いつもニコニコ迎えてくれる。こんな最高の男、他にいねえだろ。テメェにゃ過ぎた代物なんだよ!」


「……家事ができるだけで満足なんて、ずいぶんお気楽なこと。それだけじゃ『まともな家庭』は築けません。それに、あなた」


 恵里香は冷徹な視線を真希の全身に走らせた。


「その品のない言葉遣いに、野蛮な態度。そんな教育に悪い人間が結愛のそばにいること自体、子どもにとってどれだけ悪影響か、考えていないの?」


「んだとコラぁ……。言うに事欠いて『悪影響』だと? だったら今すぐツラ貸せよ。表でその腐った性根から叩き直してやる!」


 真希の怒りが沸点に達し、血管を浮かび上がらせた拳が振り上げられた――。


「真希ちゃん、ステイ。暴力は美しくないわ。……ジャージが更に汚れるだけよ」


 麗がゆっくりと顔のパックを剥がした。そこから現れたのは、恵里香がどれだけ金を積んでも手に入らないであろう、神々しいまでに整った美貌。麗は、怯えて一歩引いた恵里香をはるか高みから見下ろした。


「ねえ、あなたは『家族』をスペックの羅列で判断するのね。子どもの価値? 教育環境? 滑稽だわ。結愛ちゃんが本当に欲しがっているのは、立派な塾でも高級なブランド服でもない。……自分を真っ直ぐに見つめてくれる『温かい手』なんじゃないかしら?」


 麗の静かな、しかし確信に満ちた言葉に、恵里香の顔が屈辱で赤く染まる。彼女は必死に虚勢を張り、麗の足元から頭の先までを汚いものを見るように睨みつけた。


「黙りなさい! あなたみたいな……性別もよく分からないどこの誰とも知れない人間に、私の教育方針を否定される筋合いなんてないわ!」


 その時、それまで俯いて震えていた春樹の空気が、一変した。



「……いい加減にしろよ、恵里香」


 それは、地を這うような低い、けれど不思議なほど芯の通った声だった。春樹がゆっくりと顔を上げた。その瞳からは先ほどまでの怯えが消え、逃れようのない覚悟を秘めて、恵里香を真っ向から見据えていた。


「僕が情けないのは分かってる。君に捨てられたのも、僕に稼ぎや男らしさがなかったからかもしれない。……でも! この人たちのことをそんな風に言うのは、絶対に許さない。真希さんのことを品がないなんて、どの口が言うんだ!」


 春樹は震える足で、しかし力強く一歩、恵里香に歩み寄った。


「この人たちはね、僕が情けなくても受け止めてくれている。完璧な人なんてこの世にはいないんだ。お互いにできないことは支えあって暮らせばいいと僕は思う。当たり前のように一緒にご飯を食べたり、お腹を抱えて笑い合える時間が大切なんだよ!」


 春樹の背後で、真希が「……んだよ」と悪態をつきながら、荒っぽく鼻をすすった。麗は剥がしたパックを握りしめたまま、潤んだ目元をそっと指先で拭っている。


「結愛は、絶対に渡さない。……君には、分からないだろ? あの子が最近、言われなくても自分でお箸を並べてくれるようになったことも。陸くんと一緒におつかいができるようになったことも。……君が捨てた時間の中で、あの子はこんなに優しく逞しく育ってるんだ!」


 溢れ出しそうな涙を堪え、春樹は言葉を叩きつけた。


「僕は、あの子のそういう小さな、でもかけがえのない成長を、ここで、この仲間たちと一緒に見守りたいんだ。君が言う『スペック』なんてもの、ここには一つもないかもしれない。でも、ここには『居場所』があるんだよ!」


 キッチンに立ち込める出汁の香りが、春樹の言葉に熱を帯びさせ、恵里香の放つ冷ややかな香水の香りを完全に押し流した。  恵里香は、かつて意のままに操っていたはずの「臆病な夫」の変貌ぶりに、言葉を失って立ち尽くしていた。



 そこへ、廊下の物陰で震えていた結愛が、堪えきれずに走り寄ってきた。彼女は、自分を「優秀」と評した母親のそばを迷うことなく通り過ぎ、春樹の腰に全力でしがみついた。


「結愛、パパとここにいる! ママ、結愛のこと見てないもん! いつもお仕事でいなかったじゃない! パパは、結愛の隣にずっといてくれるもん!」


 小さな手で春樹の服をぎゅっと握りしめ、恵里香を睨む結愛の瞳には、かつての母親への怯えはなく、ただ断固とした拒絶の意志が宿っていた。


 さらに、真希の背後からひょっこりと姿を現した陸も、いつになく真剣な表情で静かに口を開いた。


「なあ、おばさん。……春樹さんの作るポテサラ、食ったことあんの? あれ、世界一だよ。おばさんは、そんなに美味しいもの、作れるのかよ」


 子どもたちの純粋で、容赦のない言葉。それが、恵里香がこれまで積み上げてきた「キャリア」や「地位」という名の防壁を、跡形もなく打ち砕いた。自分が「無能」だと切り捨てたつもりの男が、今、自分にはない「温かさ」の真ん中に立っている。娘が、この男を、そしてこの得体の知れない共同体を選んでいる。


 その残酷な事実が、彼女のプライドを粉々に踏みにじった。


「……勝手にしなさい。こんな場所で、みんな共倒れになればいいわ。後悔しても……知らないから!」


 恵里香はそれだけを吐き捨てるように言うと、自分の敗北を認めるのが恐ろしいと言わんばかりに、逃げるような足取りでひまわり荘を後にした。かつかつと響いていた高いヒールの音は、今や余裕を失い、無様に乱れていた。



 嵐が去った後のリビングには、嵐の後の静けさというよりは、張り詰めた糸が切れたような沈黙が流れた。


 恵里香の姿が完全に見えなくなると、それまで凛として立っていた春樹は、糸が切れたマリオネットのように膝から崩れ落ちた。


「こ、怖かった…


「よ、よしよし! 分かってる、分かってるって。テメェ、今日だけは最高に、いや、一生分くらいまとめてかっこよかったぞ!」  真希が照れ隠しに、しかし力一杯、春樹の背中を「バシバシ」と音が出るほど叩く。その大きな掌の熱が、春樹の震えを少しずつ鎮めていった。


「本当……。あんな無礼な女のために、私まで本気で怒りそうになったわ。私のために声を荒らげてくれるなんて、なかなかのジェントルマンじゃない。……おかげで化粧もパックも、台無しになっちゃったわよ」  


 麗も、いつもよりずっと柔らかい微笑みを浮かべ、優雅な手つきで春樹の頭を撫でた。


「……ねえ、パパ」  


 結愛が、不安そうな春樹の顔を、心配そうに、でも少し可笑しそうに覗き込んだ。


「さっきのパパ、パパちょっとだけかっこよかったよ。……ねえ、パパ、お腹空いちゃった。今日のごはん、まだ?」


 その時、いつの間にか縁側にいた銀ばあが、ぷしゅり、とビール缶を開けて高く掲げた。


「あんたたち、本当にあべこべな連中だねぇ。……さあ、春樹! 全員、あんたの飯を待ってんだ。とびきり最高の夕飯を作っておくれ!」


 その夜、ひまわり荘の食卓に並んだのは、春樹がシェアハウス初日に作った生姜焼き。そして、陸が絶賛した、具沢山の特製ポテトサラダだった。


 ホクホクのジャガイモに、隠し味のリンゴと、たっぷりの愛情。口に入れるたびに、そして「美味しい」と笑い合うたびに、バラバラだった住人たちの絆が、さらに深く、強固に結ばれていく。


 春樹は、もう、独りではなかった。彼が守りたかったのは、この賑やかで、不器用で、温かな「ひまわり荘」という名の家族そのものだったのだ。

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