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7.オペレーション・ケーキ

 運動会の熱狂もようやく落ち着き、夜の静寂がひまわり荘を包んでいた時のことだ。  キッチンで明日の仕込みをしていた春樹は、リビングのソファの影から漏れ聞こえてくる、ひそひそとした小さな話し声に思わず耳を止めた。


「……ねえ、陸くん」

「え? なんでそんな小さい声なの?」

「明日は、銀ばあの誕生日だよ」

「え、そうなんだ!」

「しっ、声が大きいってば! ……ねえ、二人だけで、銀ばあのためにケーキを買いに行こうよ」

「二人だけで? かーちゃんに言わなくていいのかよ」

「言ったら絶対ついてくるでしょ? 私たちだけで行くから、プレゼントになるの! お金なら、おこづかいを合わせれば足りると思うんだ」


 その瞬間、春樹の手から洗っていたボウルがガシャリと音を立てて落ちそうになった。


(二人だけで……あの交通量の多い大通りを超えて、駅前のケーキ屋さんまで……!?)


 春樹の脳内には、制御を失った巨大なトラック、飴玉で子供を誘う怪しい不審者、そして日が暮れた路地裏で手を取り合って泣き叫ぶ二人の幻影が、恐ろしい濁流となって押し寄せてきた。


(あああ……無理だ、そんなの耐えられない! 陸くんはまだ信号の意味を半分くらい感覚で理解してるだけだし、結愛がもし途中で可愛い野良猫を追いかけて異世界に迷い込んだりしたら……!!)



 春樹は洗い物を終えるなり、泡のついた手のまま血相を変えて隣室へ飛び込んだ。そこでは、麗が優雅に最新のファッション誌を捲り、真希が汗の染みた作業着を脱ぎ捨ててビールを煽ろうとしていた。


「た、大変です! 二人が……あの子たちが、脱走……じゃなくて、『初めてのおつかい』を計画しています!」


「はぁ? 何を慌ててんだよ春樹。おつかいだろ? 子どもの成長にゃ付きもんだ、別にいいじゃねぇか」


 真希が面倒くさそうに鼻を鳴らす。しかし、春樹は涙目で彼女の肩を掴み、がくがくと激しく揺さぶった。


「良くないですよ! ケーキ屋さんですよ!? 駅前まで行くには横断歩道を三つも越えなきゃならないんですよ! 結愛がもし、道端のダンゴムシに夢中になっている間にトラックが突っ込んできたらどうするんですか! 陸くんが強盗にケーキを強奪されたら!?」


「……落ち着きなさい、春樹ちゃん。あなたの想像力は、時にB級ホラー映画よりタチが悪いわ」


 麗が呆れたように溜息をつき、長い脚を優雅に組み替えた。しかし、その瞳にはどこか楽しげな、子どものような悪戯っぽい光が宿っている。


「でも、面白いじゃない。あの内気だった子どもたちが、自分の意志で『冒険』を選んだのよ。それを頭ごなしに止めるのは、美学に反するわ。……むしろ、私たちが最高の観客バックアップになってあげればいいのよ」


「バックアップって、麗さん……まさか、こっそりついていくんですか?」


 春樹が地獄で仏に会ったような顔をすると、麗は不敵に、そして完璧な微笑みを浮かべた。


「いい? 二人には絶対に内緒よ。悟られた瞬間に『自立』という名の輝きは台無しになるわ。……明日、私たちは影になるの。子どもたちの視界からは完全に消え、それでいて道中の安全を完璧に掌握する。……名付けて、『オペレーション・ケーキ』の始まりよ!」


「よっしゃ、面白そうじゃねぇか! だったらアタシは、現場用の無線機と高性能の双眼鏡を用意するぜ。陸の野郎、信号無視しやがったら現場で即・確保タイホだ!」


 さっきまで反対していたはずの真希まで、いつの間にか誰よりもノリノリで拳を握りしめていた。


 *


 翌日。作戦決行のときが来た。


 リビングでは麗が優雅にページをめくり、真希は新聞を広げ、春樹はキッチンで鼻歌を歌っている――ように装っていた。しかし、三人の意識はすべて、抜き足差し足で玄関へ向かう二人の小さな気配に集中していた。


 二人は「完璧に大人たちの目を盗んだ」と信じ込んでいる。だが、このひまわり荘は築年数不明の歴史ある古家だ。玄関へ続く廊下の板は、体重の軽い子どもが歩いても「ギュッ……ギィィ……」と、まるで夜鳴き鳥のような音を立てる。さらに、重い木製の引き戸を開ければ「ガラガラガラッ!」と、近所に響き渡るほどの派手な轟音が鳴り響いた。


 玄関が閉まる音を確認するまで、大人たちは微動だにせず、くつろぐフリを貫き通した。


「……行ったわね」


 麗が雑誌を閉じ、その目は瞬時に「総司令官」の鋭さに変わった。


「よし、オペレーション・ケーキ始動よ! 各員、一分以内に装備を整えて。一秒の遅れも許さないわ!」


「おうよ! アタシは裏口から回る。春樹、テメェは鼻水を拭け!」


「は、はいぃっ! 麗さん、僕のひまわりの造花、どこに置きましたっけ!?」


 一分後。ひまわり荘からは、ジャージ姿に無線機を仕込んだ猛獣、震える造花を抱えた小心者、そして新聞紙を武器のように携えた巨大な白スーツの美女が、それぞれ別のルートから獲物――もとい、愛しき子どもたちを追って飛び出していった。



 真希は仕事用の無線機を片手に、電柱の陰に身を潜めた。


「こちら現場。ターゲット、順調に最初の角を左折! ……おい春樹! 植木鉢の陰から頭が出てるぞ、引っ込め!」  


 真希は匍匐ほふく前進に近い姿勢で、ゴミ置き場の裏へ。かつてないほど鋭い眼光で、息子を見守る……というよりは、もはや完全に「護衛対象を追う特殊部隊」である。



 春樹は、変装のつもりで大きな「ひまわり」の造花を顔の前に掲げ、ひょこひょこ歩きながら追随していた。


「結愛……あ、危ない! 段差があるよ……ああ、陸くん、ちゃんと手を繋いで! ……うう、もう帰ってきてほしい……」  


 心配のあまり、造花が小刻みに震えている。その様子は、ただの「歩く不審な花」でしかない。



 そして麗だ。彼女は白スーツの上に、不自然に大きな新聞紙を広げ、街路樹のふりをして立っていた。  しかし、いかんせんデカすぎる。

 

「ふふ、完璧な擬態ね。これなら誰にも気づかれないわ」  


 本人は満足げだが、180cmを超える白スーツの美女が新聞を逆さまに持って電柱より高くそびえ立っている姿は、街路樹どころか「歩く現代アート」のような違和感を放っていた。



 順調かと思われたその時、目的地である商店街に入ったところで事件が起きた。


 目の前に広がる色鮮やかなショーウィンドウに、二人の好奇心が弾ける。


「あ、あっちにケーキ屋さんがある!」

「あ、陸くん、あっちにお花屋さん! 銀ばあ、お花も喜ぶよ!」


 そう言うなり、陸が右側のケーキ屋へダッシュし、結愛が左側の花屋へと小走りに駆け出した。繋がれていた二人の手が、ぷつりと離れる。


「しまった、ターゲットが分散スプリットしたわ!」  


 電柱よりも高くそびえ立っていた麗が、ついに「街路樹」の擬態を解いた。巨大な新聞紙をバサリとかなぐり捨て、鋭い叫びを上げる。


「結愛ー!」  


 春樹も、もはや自分が「震えるひまわり」であることを忘れ、造花を道端に放り出して全力で走り出した。


「陸! 待て、独断専行は許さん!」  


 真希もゴミ置き場の陰から飛び出し、無線機を握りしめたまま爆走を開始した。


 しかし、大人たちがパニックの渦に飲み込まれている間、当の子どもたちは驚くほど冷静だった。  陸はケーキ屋のおばさんに「銀ばあの誕生日に一番かっこいいケーキをください!」と自分たちの財布を広げて堂々と交渉。結愛は花屋の店先で「銀ばあに似合う、明るい色のお花を一輪ください」と、背伸びをしてしっかりとお買い物を完了させていた。


 数分後。  商店街の中央で、親たちは互いに正面衝突しそうな勢いで合流した。


「麗さん、結愛が……結愛が見当たりません!」

「春樹、落ち着きなさい!」

「クソッ、見失ったか!?」  


 そんなカオスな光景のど真ん中に、ひょっこりと二人が現れた。


「……あ、みんな。何してるの?」


 崩れないよう大事そうにケーキの箱を抱えた陸と、一輪のカーネーションをポシェットに添えた結愛が、そこにいた。二人は、新聞紙の残骸を頭に乗せた麗や、泥だらけの真希、造花の茎だけを握りしめている春樹を、氷のように冷ややかな、あるいは深い同情の入り混じった目で見つめていた。


 *


 その夜、ひまわり荘のリビングには、子供たちが誇らしげに持ち帰ったイチゴケーキと、春樹が腕によりをかけた豪華なごちそうが並んだ。


 主役である銀ばあは、子供たちの冒険譚を聞きながら、少し不格好になったケーキを幸せそうに頬張る。そして、視線をリビングの隅へと向けた。


「……ったく。子供を応援するつもりが、親の方が迷子になってどうするんだい」


 そこには、一列に並んで小さくなっている大人三人の姿があった。三人は揃って借りてきた猫のように肩をすぼめている。


「でも……本当に、二人が無事に帰ってきてくれて良かったです……」  


 春樹が鼻をすすりながら、消え入りそうな声で漏らした。隣で真希が「ま、まあな。陸の野郎、意外と信号守るじゃねぇか」と、照れ隠しにぶっきらぼうに付け加える。


「ええ。私たちのバックアップも無駄ではなかったわ」  


 麗が優雅に、しかし髪から新聞紙をひらりと落としながら続けた。


「ただ、今回の反省点は隠密性の欠如ね。次はもう少し、街の景観に馴染む高度な隠密装備を用意するべきだわ。例えば、ドローンによる上空からの——」


「まだやる気かい? もうやめておくれよ!」


 銀ばあが呆れたようにツッコミを入れると、それまで大人たちの情けない姿を黙って見ていた陸と結愛が、堪えきれずに吹き出した。


 子どもたちは「冒険」を通じて少しずつ強くなり、親たちはそれ以上に、振り回されながら不器用な愛を深めていく。


 ひまわり荘の明日は、きっと今日よりもさらに騒がしく、そして愛おしいものになるだろう。

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