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6.最高の「日曜参観」

 ある日の朝、ひまわり荘の食卓に、陸と結愛が幼稚園から持ち帰った一枚のプリントが置かれた。そこには、楽しげなイラストと共に大きく『日曜参観・親子でふれあい運動会』の文字。普通の家なら沸き立つところだが、子どもたちの様子がどこかおかしい。


「……これ、行かなきゃダメなのかな」


 陸が、珍しく消え入りそうな声でプリントを差し出した。


「何言ってんだ、陸! アタシがガツンと活躍して、お前を鼻高々にしてやるよ! 親子二人三脚なんてアタシに任せな!」


 真希が景気よく自分の胸を叩くが、陸の表情は一向に晴れない。むしろ、その瞳には切実な拒絶の色が混じっていた。


「……かーちゃんが来ると、目立つから。昨日も言われたんだ。……『陸くんのママ、男の人みたい。本当にママなの?』って」


 その言葉が、弾丸のように食卓に突き刺さった。茶碗を動かす音も、誰かの啜る茶の音も、一瞬で凍りつく。陸を庇うように横に座っていた結愛も、俯いたまま春樹のエプロンの裾をぎゅっと握りしめた。


「結愛も……。パパが来ると『弱そう』って言われるの。他のおうちのパパは、もっと……なんていうか、強そうなの。みんなパパに肩車してもらってて、いいなって……」


 子どもたちが小さな胸の奥に溜め込んでいた、言葉にできない「生きづらさ」。男勝りな母親と、繊細で優しい父親。ひまわり荘では当たり前の、大好きで誇らしいはずの親たちが、一歩外に出れば「普通」という残酷な物差しで、からかわれる。その痛みを、子どもたちは幼いなりに一身に受けていたのだ。


「……そっか。ごめんね、結愛ちゃん」


 春樹が、困ったように眉を下げて力なく笑う。その笑顔が、かえって痛々しかった。

 真希も、握りしめた拳をどこにぶつけていいか分からない様子で、黙ってプリントを見つめている。


「普通」とは一体何なのか。あべこべな親たちは、子どもを愛しているからこそ、自分の存在が子どもを傷つけているという現実に、深い影を落とした。賑やかなはずの朝の食卓に、重く、切ない沈黙が満ちていく。


 *


 当日。幼稚園の園庭は、初夏の眩い陽光に照らされ、まさに「絵に描いたような幸せ」の色彩に満ちていた。そこに集まっていたのは、ファッション誌の『運動会特集』からそのまま抜け出してきたような親たちだ。


 母親たちは、リネン素材のゆったりとした白ブラウスに、絶妙な丈感のチノパンやデニム。髪は無造作に見えて計算し尽くされた「くるりんぱ」のまとめ髪。父親たちは、カタログにあるような、アイロンのきいた上質なポロシャツや、淡いブルーのボタンダウンシャツを爽やかに着こなしている。


 ブランドのロゴを主張しすぎない、ベージュ、白、ネイビーを基調としたワントーンの装い。それは一見すれば穏やかで謙虚に見えるが、その実、一歩でもそこから外れる者を許さない、均質で排他的な「普通」という名の結界を張り巡らせていた。


 その平穏な空間に、猛烈な違和感が投げ込まれる。


 まず現れたのは、麗が「慈愛に満ちた聖母」をテーマにプロデュースした、淡いピンクのサテン地セットアップに身を包んだ真希だった。


 それは、周囲のママたちが着ている「動けるカジュアル」とは一線を画す、上品な装いだ。しかし、真希にとってはそれが仇となった。一切の伸縮性を拒絶する上質な生地は、現場仕事で鍛え上げられた彼女の広背筋をギリギリと締め付け、呼吸をするたびに縫い目が悲鳴を上げる。


 さらに、真希の顔には麗の手による「完璧なママ・メイク」が施されていた。普段の荒々しさを消し去るために、キリリとした眉はなだらかなアーチ状に整えられ、目元には優しげなコーラルピンクのアイシャドウ。唇には、健康的な艶を放つグロスが丁寧に引かれている。


 鏡の中の自分を見て「誰だこれ」と絶句した真希だったが、いざ園庭に立つと、その「美しく塗り固められた顔」と「ガニ股歩き」のギャップが凄まじい違和感を生んでいた。


「……おい麗。顔が重いんだよ。笑おうとすると顔の皮が突っ張って、変な音がしそうだぞ」


 時折、窮屈な襟元を「チッ」と舌打ちしながら指で強引に広げる姿は、無理やりレースの服を着せられ、フルメイクを施された猛獣そのものだ。麗に「絶対に崩さないこと!」と厳命されたメイクを汗で汚さぬよう、真希は怒りを押し殺したような、引きつった「ごきげんようスマイル」を周囲に振りまきながら、スニーカーで砂利を蹴り飛ばしていた。


 その後ろを、怯えた子鹿のように進むのは春樹だった。麗が「都会的でアクティブな父親」をイメージして選んだのは、イタリアの伊達男を彷彿とさせる、細身のネイビーのスウェットパンツに、上質な白のヘンリーネックシャツ。その上に、あえてラフに肩掛けしたリネンシャツが、麗いわく「計算された余裕」を演出しているはずだった。


 髪は麗の手によってウェットヘアに固められ、前髪を大胆にかき上げた「ちょい悪オヤジ風」のスタイル。しかし、その顔の中央には、直前になって不安を覚えた真希の手で「これでもか」と濃く描き込まれた付け髭が鎮座していた。


 ワイルドを通り越し、もはや劇画の登場人物のような凄みを帯びたその髭は、春樹本来の優しすぎる垂れ目と絶望的にミスマッチを起こしている。


「……この格好、なんだか落ち着きません……」


 麗の完璧なスタイリングと、真希のバイオレンスな描き髭。その矛盾した要素を詰め込まれた春樹は、まさに「武装した草食動物」。周囲の「清潔感溢れるポロシャツパパ」たちの集団の中で、一人だけ別の時空から紛れ込んだような、異様な威圧感(と、隠しきれない小心者ぶり)を放っていた。


「だ、誰……?」

「なんだか変ね。お母さんの方、歩き方が……」

「お父さんも、あの髭……描いてない?」


 周囲の遠慮のないヒソヒソ話が、冷たい風となって陸と結愛に吹き付ける。二人はいたたまれなくなり、せっかく用意してもらった親たちの晴れ姿を見ることもできず、ただ地面の砂をじっと見つめていた。


 その時。ザッ、ザッ、と砂利を踏みしめる、高く、鋭く、それでいて気品に満ちた靴音が響き渡った。


 園庭の空気を一瞬で塗り替えるほどの圧倒的なオーラを放つ人物が現れた。 ポニーテールにした長い髪が、風を孕んで流麗になびく。彫刻のようにしなやかな肢体を包むのは、一点の曇りもない真っ白なパンツスーツ。


 元々モデルのような長身である上に、真っ白な厚底のハイテクスニーカーを履いたその姿は、周囲の「小綺麗なママさん」たちの頭一つ分……いや、肩から上が突き抜けている。見上げるような高さから放たれる圧倒的な威圧感は、もはや美しいという枠を超えて、神々しいまでの巨像のような迫力を帯びていた。


 彼女が真希と春樹の間に立つと、二人がまるで麗の庇護下に置かれた小動物のように見える。周囲の母親たちが小声で「ねえ、あの人……バレーボールの選手?」「それとも海外のモデル?」とざわつく中、麗は悠然と、かつ優雅に園庭を見渡した。


 *


 いよいよ始まった競技「親子二人三脚」。しかし、真希の辞書に「おしとやか」という文字はない。


「陸、振り落とされるんじゃねぇぞ! 歯を食いしばれ!」


 真希は陸と足を結ぶなり、なんと息子を小脇に抱え上げた。そのまま、ほとんど片足跳びと全力疾走を組み合わせたような、猛烈な推進力で爆走を開始する。


 その瞬間、麗が心血を注いだピンクのサテン地セットアップが、限界を超えて悲鳴を上げた。


 ミシミシッ、バリバリィ!


 真希の広背筋が膨らむたびに、繊細な縫い目が次々と弾け飛ぶ。肩から脇にかけて大胆に裂け、サテンの破片がまるで桜吹雪のように園庭に舞った。


 しかし、破れた布の下から現れたのは、いつもの見慣れた、色褪せた黒のTシャツと、膝の出たジャージだった。彼女は最初から、この瞬間が来ることを予見して「正装」の下に「戦闘服」を仕込んでいたのだ。


「おらぁぁ! 見たかアタシの足腰を! 現場で鍛えた筋肉は伊達じゃねぇんだよ!」


 もはや二人三脚というよりは、子どもという名の重りを持った重戦車である。真希は半身ピンクの布をなびかせながら、砂煙を巻き上げ、並み居る「清潔感溢れるパパ」たちを文字通りぶっちぎってゴールテープを切った。


「かーちゃん、反則だよ! ほぼ抱っこじゃん!」


 陸は呆れて抗議しながらも、その逞しい腕の中で、誰よりも誇らしげに、顔をくしゃくしゃにして笑っていた。



 一方、お昼のチャイムとともに園庭に歓声が上がったのは、春樹の広げたお弁当だった。周囲の家庭が高級店の重箱や豪華なケータリングを並べる中、春樹が取り出したのは、結愛のために深夜まで仕込んでいた「ひまわり荘特製・デコ弁」だった。


「え、結愛ちゃんのお弁当、リボンの形してる!」

「すごい、お花がいっぱいだ!」


 覗き込んだ園児たちから、羨望の喝采が沸き起こる。


「結愛、今日のリボンのオムライスは、結愛の大好きなワンピースと同じ色にしたんだ」  


 春樹が優しく微笑みながら蓋を開けると、そこには繊細な薄焼き卵のリボンと、彩り豊かな野菜の宝石箱が広がっていた。


「パパ……すごーい! パパが作ったの? パパが世界で一番かっこいい!」  


 結愛が飛び跳ねて喜ぶ姿を見て、周囲の母親たちも「……あら、あのご主人、意外と素敵ね」と、先ほどまでの偏見を忘れて感嘆の溜息を漏らした。



 そして、運動会のトリを飾る「保護者対抗リレー」。アンカーを務めるのは、麗だった。バトンが渡る直前、彼女は迷いなく、厚底スニーカーを脱ぎ捨てた。


「……私の家族を笑ったこと、後悔させてあげるわ」


 裸足でスタートラインに立った麗は、バトンを受け取った瞬間、しなやかな豹のように飛び出した。  ポニーテールを風にたなびかせ、真っ白なパンツスーツを翻して砂を蹴る。そのフォームは、どんな男よりも力強くダイナミックで、それでいてどんな女よりも気高く、美しかった。


 一歩ごとに差を詰め、コーナーで鮮やかに先行者を抜き去る麗の姿に、応援席からはいつの間にか「白スーツの人、いけー!」と敵味方関係なく大歓声が上がっていた。


 ゴールラインを駆け抜けた麗は、荒い息をつきながらも、すぐに駆け寄ってきた陸と結愛を両腕で抱きしめた。足の裏は砂で汚れ、髪は乱れている。けれど、その顔はこれまでで一番、自分らしく輝いていた。


「……見たかしら。これが、ひまわり荘の『普通』よ」


 誇らしげに胸を張る麗。その横では、ジャージ姿でガハハと笑う真希と、涙を拭う春樹が立っている。  ひまわり荘の「あべこべな家族」は、誰よりも鮮やかな一等賞を、その胸に刻んだのだった。


 *


 夕闇が街を優しく包み込み、オレンジ色の陽光が五人の影を長く引き延ばしていた。一日の熱気を孕んだ風が吹き抜ける帰り道。足の裏に伝わるアスファルトの余熱を感じながら、五人はゆっくりと歩を進める。


「ごめんね、二人とも。結局、普通じゃない……変な親になっちゃったね」


 春樹が、申し訳なさと安堵が混ざったような複雑な顔でぽつりと呟いた。すると、隣を歩いていた結愛が、春樹の大きな手を小さな両手でぎゅっと握りしめた。


「ううん。パパは、パパのままでいいの。……お料理してて、お弁当にリボンつけてくれるパパが、結愛は一番好き」


 その真っ直ぐな言葉に、春樹の目尻がみるみるうちに赤くなる。


 陸もまた、照れ隠しをするように真希のジャージのポケットに手を突っ込み、ぶっきらぼうに言った。


「かーちゃん、足、めちゃくちゃ速かったね。……さっき、クラスのやつに『お前の母ちゃん、ヒーローみたいだな』って言われたよ」

「んだよ、生意気なこと言いやがって! よし、今夜は特別だ。帰りにコンビニ寄って、肉まん買ってやるからな!」

「肉まんじゃなくて、アイスがいい」

「んだと?!コノヤロー!」


 真希が陸の頭をごしごしと乱暴に、けれど慈しむように撫で回す。


 二人のやり取りを見守りながら、麗は汚れのついた白いパンツスーツの裾を翻し、優雅に歩いた。



 ひまわり荘の門を潜ると、そこには腕組みをして待っていた銀ばあの姿があった。


「おかえり。……フン、随分と派手に暴れてきたようだねぇ」


 呆れたような口振りとは裏腹に、銀ばあは金色の折り紙で作った「一等賞」のリボンを二つ取り出した。そして、誇らしげな顔をした陸と結愛の首に、一つずつ丁寧にかけてやる。


「これは、今日のご褒美だよ。あんたたちの親は、普通じゃないけど、カッコよかっただろう?」


 首から下げられた金の輝きを見つめ、子どもたちは顔を見合わせて笑った。

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