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5.麗のお見合い騒動

 ひまわり荘の前に止まった黒塗りの高級車は、下町の風景にはあまりに不釣り合いで、周囲の空気をひどく拒絶しているようだった。


 重厚なドアが開くと、仕立ての良い、一分の隙もないスーツに身を包んだ初老の夫婦が姿を現す。威圧感を纏ったその足取りで門を潜った彼らは、縁側で陽だまりに微睡んでいた銀ばあを、まるで道端の石ころでも見るかのような冷徹な眼差しで見下ろした。


「ここに、息子のあきらがいるはずです。出してください」


 その名は、今の麗が脱ぎ捨て、自分の奥深くに封じ込めたはずの「男」としての過去。静寂を切り裂くような冷たい声が、建物の古い木材を伝わって二階まで響き渡った。


 異変を察知し、階段を駆け下りてきた麗は、玄関先に立つ二人の姿を認めた瞬間、雷に打たれたように硬直した。いつも絶やさない優雅な微笑みは消え失せ、顔色をみるみるうちに失っていく。


「父さん、母さん……どうして、ここが……」


 震える声は、いつもの凛とした響きを失い、怯える子どものようにか細い。彼女は自らの身体を守るように、淡い色のカーディガンを指先が白くなるほど強く握りしめた。


「逃げ切れるとでも思ったのか? ……彰、まだそんなことをしているのか。いい加減そんな格好はやめろ。そんな女々しい姿で、我が家の敷居を跨ぐつもりか」


 父親の言葉は、氷の楔となって麗を射抜く。その視線は、彼女が慈しむように手入れしてきた桜色の爪、耳元で密やかに揺れるピアス、そして丹念に整えられた長い髪へと注がれ、露骨な嫌悪感を露わにした。


「遊びは終わりだ。お前には長男として家を継ぐ責任がある。今日は、お前に相応しい縁談を持ってきた。相手は重要取引先の令嬢だ。今すぐその薄汚い服を脱ぎ捨てて、準備をしろ」


 抗うことを許さない絶対的な命令。ひまわり荘の温かな空気は一変し、麗を繋ぎ止めていた「自由」という名の糸が、音を立てて軋んだ。


「い、嫌よ……」

「なに?」

「どうして私がここにいると思っているの!? 父さんも、母さんも……私のことを、ずっと一人の人間として見てくれないからじゃない!」


 震える声を振り絞って叫んだ麗だったが、父親の眉間には深い蔑みの皺が刻まれるだけだった。


「当たり前だ! そんな中途半端な真似をして、何が一人の人間だ! 我が家の恥をこれ以上晒すことは許さん」

「私は……私は、帰る気なんてありません!」


 食い下がる麗を、父親は感情を排した冷徹な眼差しで見据える。その視線が、ふとひまわり荘の古い柱や、庭先に置かれた住人たちの私物へと向けられた。


「……そうか。ならば、ここを壊すまでだ」

「え……?」

「この土地を買い上げるなど、私にとっては造作もないことだ。お前が頑なに拒むというのなら、この薄汚いボロ屋ごと、お前の居場所をすべて叩き潰してやろう。住人もろとも、路頭に迷うがいい」


 ゾッとして、麗の全身から血の気が引いた。この父は、本気だ。目的のためなら手段を選ばず、他人の生活など路辺の蟻ほどにも思っていない。 自分の「自由」を貫く代償に、大切なこの場所と、ここに住む家族同然の仲間たちを犠牲にする。その光景が脳裏に浮かび、麗の心は音を立てて砕け散った。


「……わかりました。帰りますから……。ここには、手を出さないで……」


「麗お姉様、いっちゃうの……?」


 いつも可愛がっている結愛が、泣きそうになりながら麗のスカートにしがみつく。いつもなら「大丈夫よ」と優しく頭を撫でてくれるはずの麗の手は、今は幽霊のように力なく垂れ下がっていた。


 麗は、縋るような結愛の視線に耐えかねたように目を伏せ、悲しげに微笑む。それは肯定でも否定でもない、魂が抜け落ちたような空虚な笑みだった。


「ごめんね、結愛ちゃん……。ちょっと、お買い物に行ってくるだけだから」


 そんな嘘が通じないことなど分かっていた。 麗は自分の意思を殺し、罪人のような足取りで、黒塗りの高級車へと連行されていった。


 *


 実家の冷たい空気の中に座りながら、麗は遠い記憶の澱を掬い上げていた。


 思い出されるのは、常に「正解」を求められる息苦しい日々だ。 父の期待は鉄の規律だった。背筋を伸ばした食事の作法から、武道、ピアノ、そして深夜まで及ぶ勉強。分刻みのスケジュールに、幼い「彰」の逃げ場はどこにもなかった。文武両道、非の打ち所のない跡取り息子。それが、彼に与えられた唯一の仮面だった。


 だが、その仮面の裏側で、心は常に別の光を求めていた。 同級生の女の子が身につけている、宝石のような髪留め。風に踊るひらひらとしたスカートの裾。母の鏡台に並ぶ、魔法の道具のような化粧品の瓶。

 ある日、好奇心に負けて母の口紅をひと塗りしたことがある。その瞬間に見つかり、浴びせられたのは烈火のごとき叱責だった。「お前は家の恥だ!」「男が化粧なんて、気持ちが悪い!」――その言葉は、幼い心に癒えない傷を刻み込んだ。


 それ以来、麗は自分の気持ちに何重もの蓋をした。 成長と共に、身体は否応なく「男」へと変貌していく。肩幅は広くなり、声は低くなる。鏡を見るたび、理想から遠ざかる自分に絶望した。もう、あの可愛いものたちは自分には似合わない。そう自分に言い聞かせ、大学生活も「それなり」の優秀さを演じてやり過ごしていた。


 そんな暗闇に光が差したのは、SNSで一人の人物に出会った時だった。 その人は、誰よりもかっこよく、そして誰よりも綺麗だった。モデルのように洗練されていたが、投稿される言葉には、自分と同じ深い葛藤と孤独が滲んでいた。


「私は私でいるために、戦うことを決めた」


 その一言が、麗の魂を震わせた。自分と同じように悩み、傷つきながらも、自らの手で自分を勝ち取ろうとする姿。それが、麗にとっての初めてのロールモデルとなった。


 そこからは、少しずつ、けれど確実に進み始めた。 誰にも見つからないように、自分の好きな色のハンカチを買い、小さなピアスを集めた。就職先が決まり、家を出る準備を始めたが、現実は甘くなかった。不動産屋で向けられる冷ややかな視線。どれだけ探しても、自分という存在をそのまま受け入れてくれる屋根はなかった。


 心折れかけた時、最後にたどり着いたのが、あの古びた「ひまわり荘」だった。 管理人の銀ばあは、麗の姿を見ても眉一つ動かさなかった。


「あんたが誰で、どんな格好をしていようが、家賃を払って掃除をサボらなきゃ文句はないよ。……いい服じゃないか」


 そのぶっきらぼうな一言に、麗は初めて、自分の居場所を見つけたのだ。


 ――そんな大切な場所を、あの男は壊すと言った。


 麗は拳を握りしめた。これまでの人生、ずっと蓋をして、逃げて、ようやく手に入れた自分の「本当」を、これ以上奪わせてたまるものか。


 *


 高級料亭前。静寂が支配するその門前で、ひまわり荘の住人たちは立ち往生していた。


「おい……嘘だろ?メニューに値段が書いてねえんだけど。何なんだよ、この店は」


 真希が震える指で門構えを指差す。隣では春樹が財布の中身を覗き込み、絶望的な表情を浮かべていた。


「無理です、真希さん。僕たちの全財産を合わせても、ここではお通しすら出てこないかもしれません……」

「金の問題じゃねえよ! 麗を連れ戻すんだろ?!」


 作戦会議(という名の困惑)を繰り広げる大人たちの横で、結愛だけは違った。彼女が着ているのは、以前、麗が「あなたには、この色がいいわ!これを勝負服にしなさい」と選んでくれた、一番お気に入りのワンピースだった。


「私、行ってくる」

「ちょ、結愛!? 無理だよ、子ども一人じゃ門前払いだって…!」


 止める声を振り切り、結愛は小さな背中をピンと伸ばして突撃した。


 一方、静まり返った個室。麗は、仕立ての良い漆黒のスーツに身を包んでいた。丹念に手入れされた長い髪は、後ろで完璧にまとめられている。幸いにも、髪まで切られるという最悪の事態は免れたが、その姿はどこからどう見ても、非の打ち所のない「イケメン御曹司」だった。


(……早く帰りたい。あのみんながいる、うるさい場所に)


 麗が心の中で悲鳴を上げていた、その時。バタン! と襖が乱暴に開かれた。


「お嬢ちゃん、どうしたの? 迷子?」


 慌てふためく仲居を振り切り、一人の少女が座敷に踏み込んでくる。結愛だ。父親が「なんだ、このガキは」と不快そうに目を細める。麗は驚きで目を見開いた。


「おい、早く連れ出せ……!」

 

 父親の怒号が飛ぶより早く、結愛は麗の元へ駆け寄り、その腕をぎゅっと抱きしめた。そして、顔を真っ赤にしながら、広間に響き渡る声で叫んだ。


「この人……! この人は、私の彼氏なんです!!」


「「「「「……えええええええっ!?!!!」」」」」


 麗の父親と母親、お見合い相手の令嬢一家、そして襖の陰から覗いていた真希と春樹までもが、文字通りひっくり返った。当の麗が一番固まっている。


「ちょ、ちょっと、結愛ちゃん!? あんた何を……」

「離さないんだから! 私と結婚するって約束したでしょ! だから、お見合いなんてさせないの!」


 結愛の必死すぎる(そして無理がありすぎる)嘘。だが、その瞳には本気の涙が溜まっていた。それは、どんな言葉よりも強く麗の心を揺さぶった。父親が真っ青になり、震える指で麗を指差す。


「彰……! 貴様……どこまで我が家を汚せば気が済むんだ!」


 その言葉を聞いた瞬間、麗の中で、何かがパチンと弾けた。 自分を「中途半端」と呼び、目の前の小さな少女の勇気までも「汚れ」と断じた父親。その醜さに比べれば、今の自分たちはなんて気高く、美しいことか。


 麗は、自分を必死に抱きしめる結愛の小さな肩に、そっと手を置いた。その手の震えは、いつの間にか止まっていた。  父親の怒号も、相手方の凍りついた視線も、今の麗には遠い雑音にしか聞こえない。


「……父さん。残念ながら、彼女の言う通りです。この縁談は、なかったことにしてください」


 静かだが、淀みのない声が広間に響いた。


「彰……っ! 自分が何を言っているのか、分かっているのか!」


 父親が畳を叩いて立ち上がるが、麗はその威圧に一歩も引かなかった。


「ええ、よく分かっています。私はもう、あなたの所有物として生きるつもりはありません。私は、私として居られる場所へ帰ります」


 麗は呆然と座り込む令嬢とその一家に向き直り、完璧な、けれど血の通った優雅な一礼を捧げた。


「お騒がせして、誠に申し訳ございませんでした。失礼いたします」


 それは、長年叩き込まれた礼儀作法への、彼女なりの最後の「恩返し」であり、決別の儀式だった。  麗はそのまま結愛をひょいと抱き上げると、一度も振り返ることなく部屋を後にした。


「あ、彰! 待て! 戻れ!」


  背後で父親の叫び声が響くが、麗の足取りは驚くほど軽かった。


 *


 ひまわり荘の玄関を開けると、そこにはいつもの湿った木の匂いと、食卓から漂う出汁の香りが待っていた。


「ただいま……!」


 麗は、重い鎧だった漆黒のスーツを脱ぎ捨てると、すぐさま風呂場へ駆け込んだ。数十分後。湯気と共にリビングに現れた彼女は、フリルがあしらわれたお気に入りのピンクのパジャマに身を包んでいた。髪はゆるくまとめられ、そこには「彰」の冷たさはどこにもない。


「やっぱりこれね。あのスーツ、肩が凝って死ぬかと思ったわ」


 麗がいつもの調子で深く腰掛けると、住人たちが一斉に食卓を囲んだ。中心にあるのは鍋だ。


「さあ、冷めないうちに食べちまいな」


 銀ばあに促され、麗は汁を一口啜った。五臓六腑に染み渡る温かさに、ようやく心の底から力が抜けていく。


「……ねえ、みんな。今日はありがとう」


 麗は箸を置き、少しだけ真剣な面持ちで仲間たちを見渡した。


「でも、もしかしたら……、これから、この場所を買い取るとか、みんなに嫌がらせをするとか、迷惑をかけてしまうかもしれない。もしそうなったら、私……」


 弱音を吐きかけた麗の言葉を、真希が力強い笑い声で遮った。


「何言ってんのだ! また乗り込んできたって、塩撒いて追い返してやるよ!なんなら明日、仕事の現場からユンボ(パワーショベル)でも借りてきて門の前に据えてやろうか!?」


 物騒な対抗策をぶち上げる真希に、息子の陸が呆れたように溜息をつく。


「かーちゃん、そんなことしたら、ここが物理的に壊れるよ……」


 的確すぎるツッコミに、一同の肩の力がふっと抜ける。そこに、春樹がこれまでにないほど真剣な(けれどどこか頼りない)表情で拳を握りしめた。


「そうですよ、麗さん。僕だって、いざとなったら身体を張って門を守りますから。……格闘技の動画、今日から見始めます!」


 春樹が気合を入れ、ひょろりとした細い腕をペチペチと叩いて見せると、場にどっと爆笑が巻き起こった。


「頼もしいわね。でも、その前に腕立て一回くらいできるようになりなさいよ」


 麗は涙が滲むほど笑う。


「麗お姉様……。私、さっきは『彼氏』なんて言ってごめんなさい」


 隣で結愛が顔を赤くして俯く。麗はその小さな頭を、今度は優しく、慈しむように撫でた。


「いいのよ、結愛ちゃん。あの言葉に、私はどれだけ救われたか。……最高の騎士ナイトだったわよ」


 食後の茶を啜りながら、銀ばあが窓の外の闇を見つめ、ぽつりと呟いた。


「……親孝行の仕方は色々あるけどさ。親の言いなりになって死んだような顔をしてるのが、孝行なわけないんだよ。子どもが、自分が選んだ場所で心から笑ってる。それが一番の親孝行なんじゃないのかねぇ」


 銀ばあは麗の目をじっと見つめ、不器用な手付きで彼女の湯呑みに茶を足した。


「あんたの父親がそれに気づくかどうかは、あいつの問題だ。あんたはここで、しっかり笑っていりゃいいんだよ。困ったときは、ここにいる連中を頼りな」


 麗は、鼻の奥がツンとするのを堪え、大きく頷いた。


  「ええ……。私、精一杯、ここで幸せになってやるわ」


 ひまわり荘の夜は、笑い声と共に更けていく。明日の朝、また新しい一日が始まる。そこには、誰のものでもない、麗自身の人生が待っていた。

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