4.それぞれのサバイバルワーク
子どもたちを園に送り、駅前の交差点で解散した瞬間、真希の空気は一変した。向かった先は、巨大なクレーンが空を仰ぐ大型マンションの建設現場。詰所で作業着に着替え、泥のついた安全靴を履き直す。首に使い古したタオルを巻き、ヘルメットを深く被って顎紐を指一本の隙間もなく締め上げた時、彼女は母親から、現場の命を預かる「監督・乾真希」へと変貌を遂げる。
「おらぁ! そこ! 養生が甘ぇんだよ! 職人の指が一本飛んだら、この現場どころかテメェらの人生が止まんだよ! 責任取れんのか!」
拡声器など不要だった。腹の底から響く怒号は、重機の騒音さえも切り裂いて現場の隅々まで行き渡る。その怒声に、新入りの若い作業員が鼻で笑い、小声で毒づいた。
「……チッ。朝っぱらから、女のくせにうるせぇんだよ。安全、安全って、ヒステリーかよ」
真希の耳は、その小さな不遜を逃さなかった。
「おい、今なんつった?」
彼女は近くに置かれていた十キロはある鉄筋を、事も無げに片手でひょいと担ぎ上げると、ズカズカと男の至近距離まで詰め寄った。
「女だからうるせぇんじゃねぇ。……アタシはな、『これ』で死んだ奴を見たんだよ」
低く、地を這うような声。真希の瞳に、一瞬だけ鋭いナイフのような痛みが走った。かつて、同じように現場に立っていた夫を、彼女は不慮の事故で亡くしている。防げたはずの、たった一つの緩みが原因だった。あの日から、彼女は誓ったのだ。自分の目の届く範囲で、二度と「ただいま」を言えない人間を出さないと。父親の帰りを待つ子どもに、自分と同じ思いはさせないと。
「女だろうが、男だろうが関係ねぇ。この現場じゃな、『安全に、寸分違わず、きちんと建てる奴』が正しいなんだよ。文句があるなら、アタシより正確に墨出ししてみせろ。一ミリの狂いもなく足場を組んでから口を開きやがれ。あぁん?」
男の鼻先に、鉄筋の冷たい感触が迫る。真希から放たれる圧倒的な威圧感と、逃げ場のない「正論」の重みに、男は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「……す、すみませんでした……」
「返事は『はい』だろ! 命預かってる自覚持て! さっさと動け!」
男たちが散ると、真希は一つ大きく息を吐き、ヘルメットの奥で汗を拭った。不器用で、ガサツで、世間一般の「女らしさ」からは程遠いかもしれない。けれど、汗と埃にまみれ、油の匂いを纏って鉄骨の間に立つ彼女の背中は、誰よりも気高く、その場所こそが、亡き夫との約束を守り続けるための「唯一無二の戦場」だった。
「よし、二工区のコンクリ打設、予定通り始めるぞ! 自分の命、大切にしろよ野郎ども!」
*
一方、春樹は駅ビルに入る中堅企業の会議室で、ガタガタと膝を震わせていた。ピシッと折り目のついたリクルートスーツ。だが、その袖口からは、今朝慌てて消したはずの「結愛にねだられた油性マジックの落書き」が、かすかに覗いている。
「ええと……佐藤さん。職歴の空白期間が五年ほどありますが、その間は何を?」
「は、はい! ……主夫を、しておりました!」
面接官のペンが止まる。
「しゅふ……。何か、その期間に得たスキルなどは、我が社の事務職に活かせるものとしてありますか?」
春樹の脳裏を、今朝のひまわり荘の光景がよぎった。飛び散る油、荒れ果てたシンク、結愛の理不尽な要求。
「はい! 頑固な換気扇の油汚れを、重曹とセスキ炭酸ソーダの黄金比で三十分以内に、それこそ新品同様に落とせます! あと、スーパーの特売チラシから一週間の献立を栄養バランス完璧に構築し、食費を三割削減することが可能です!」
「…………」
面接官が困惑したように眼鏡のブリッジを押し上げた。
「ええと、募集しているのは『事務職』なんですが。Excelとか、そういったソフトの使用経験は……」 「あ、Excelは……家計簿で。円グラフと折れ線グラフを使い分け、月次・年次の変動費の推移を可視化して……」
春樹の声がどんどん小さくなる。自分が極めてきた「主夫」という道は、社会という物差しでは計測不能な数値なのだ。社会の歯車から外れた自分には、もう居場所などないのではないか。彼は会議室の片隅で、今にも消えてしまいそうなほど小さく縮こまった。
*
街のブティック。そこに、朝の「イケメン」の面影は微塵もなかった。サングラスを外し、一分の隙もない完璧なメイクを施した麗は、さながらランウェイに君臨するクイーンの如き威厳を放っていた。
「お客様。そのドレス、お召しにならない方がよろしいかと思いますわ」
入店してきたばかりのマダムに対し、麗は挨拶もそこそこに、鋭い審美眼で言い放った。周囲の店員たちが「また始まった」と顔を青くするが、麗の舌鋒は止まらない。
「その色は、あなたの今日の肌のトーンを三段階は下げて見せているわ。まるで一晩中安酒で泥酔していたみたいよ。失礼ですが、あなたが欲しいのはブランドのタグがついた『布切れ』? それとも、誰をも跪かせる『美しさ』?」
「な、なんですって……! 失礼しちゃうわ!」
憤慨するマダム。しかし、麗は動じない。棚から流れるような手つきで、一枚の深いネイビーのシルクシャツを引き抜いた。
「これを。……あなたの知的な瞳の色を、最も深く引き立てるわ。騙されたと思って袖を通しなさい。……鏡を見て。そこにいるのが、本来の、いえ、本当の『あなた』よ」
数分後。試着室から出てきたマダムは、先ほどまでの怒りを忘れたように、陶酔しきった顔で鏡を見つめていた。
「麗さん……不思議ね。あなたに選んでもらうと、自分が特別な存在になった気がするわ」
「当然よ。私は美しいものしか信じないし、嘘もつかない。……またお待ちしておりますわ、子猫ちゃん」
麗は優雅に会釈し、売り上げ目標を午前中だけで達成した。彼女にとって、ここは単なる職場ではない。迷える子羊たちに美の福音を授ける「聖域」なのだ。
*
夕刻。 駅ビルの広場に三人が集まった。
「……死んだ。面接官の目が、死んだイワシ……いえ、腐った深海魚のようだった……」
春樹が魂を吸い出されたような顔で呟く。
「へっ、景気悪いな春樹! アタシは今日、新入り三人を安全点検で泣かせてきたぜ! 現場の空気はキンキンに冷えてやがった!」
真希がヘルメットの跡がついた髪を豪快に掻き回しながら笑う。
「二人とも、声が大きすぎるわよ。仕事の愚痴なんて、美容液の浸透を妨げるだけだわ」
麗がため息をつき、ピンヒールをカツカツと鳴らしながら通り過ぎようとした、その時。
春樹のスマホが「特売アラート」を鳴らした。
「……あ、真希さん、麗さん! そこのスーパー、今日は『お一人様一点限り』で、卵が九十八円です! タイムセール、あと十五分!」
「マジか!? 特攻するぞ!!」
真希の目が肉食獣のそれに変わり、麗の優雅な足取りがアスファルトを蹴る駿馬へと変わった。
「麗! 今夜の献立、卵で何ができんだよ!」
「そうね……。バゲットがあるなら、トリュフオイルを効かせた『ウフ・ブルイエ(極上のスクランブルエッグ)』にしましょうか。私の美肌には、上質なタンパク質が必要なのよ!」
「よくわかんねぇが、旨そうじゃねぇか! 行くぞ、オラァ!」
泥のついた作業着の女。スーツの袖をマジックで汚した男。シルクのブラウスを翻す絶世の美女。
世界で一番かっこ悪くて、世界で一番たくましい、あべこべな大人たちのパレード。彼らは仕事の疲れもプライドもかなぐり捨て、九十八円の卵という名の栄光を掴むため、夕暮れの街を全力で駆け抜けていった。




