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3.嵐の登園

 ひまわり荘の朝は、小鳥のさえずりではなく、真希の野太い雄叫びから始まる。


「おらぁ! 総員、起床! 朝の点呼だ、遅れた奴は罰として腕立て五十回な! 筋肉を起こせぇ!」


 ドガドガと古い廊下を、床板が抜けんばかりの勢いで闊歩する真希。その右手には、なぜか引っ越し荷物から発掘された、黄色い工事現場用の拡声器が握られていた。


「……かーちゃん、うるさい。まだ六時」


 隣の部屋からひょいと現れた陸は、すでに完璧に目が覚めていた。着ていたパジャマを角までぴっちりと揃えて畳み、小脇に抱えている。その顔つきは、五歳児というよりは熟練の兵士のようにシャープだ。


「何言ってんだ、陸! 『早起きは三文の徳』、そして一日の計は筋肉にありだ!」 「徳より睡眠。あと、その拡声器、昨日も銀ばあに『次に鳴らしたらビール瓶で殴る』って言われたでしょ。近所から苦情が来る前に置いてきて」


 陸は冷淡に、だが的確に母親をたしなめると、無駄のない足取りで洗面所へと消えていった。


 一方、その頃の佐藤家では――。


「結愛、起きて……お願い。ほら、今日は一緒に可愛いリボンを選ぼうね……」


 春樹は畳に這いつくばるような姿勢で、布団の塊に向かって懇願していた。すると、モゾモゾと動く布団の中から、冷ややかな視線が突き刺さる。


「……パパ、うるさい。結愛、今日はピンクの気分じゃないって昨日言ったでしょ。今はブルー系。寒色。あと、パパのその寝癖、不潔に見えるから早く直して。だらしない」

「えっ、あ、ごめん……! すぐ直す、すぐアイロンかけてくるから! だからそんな目で見ないで!」 「いいから早くして」


 六歳の結愛は、布団から出ると鏡の前で仁王立ち。そこにあるのは父娘の絆というよりは、「小さな女王様」と「無能な執事」の主従関係だった。


 そこへ、芳醇なローズの香りを漂わせながら、シルクのガウンを羽織った影が優雅に現れた。ヘアターバンを巻いている。


「朝から野蛮な声が響くわね……。ここは工事現場か、あるいは動物園かしら」


「おい麗!……って、え?」


 真希が怒鳴り返そうとして、言葉を失った。麗の端正な輪郭、切れ長の瞳、そしてガウンから覗く逞しくも美しい鎖骨。その圧倒的な「素材の良さ」は、朝の光の中で神々しいまでの『イケメン』を形作っていた。


「……誰だ、このイケメン……?」

「イケメン!?」


 真希の呟きに、麗が鬼の形相で言った。


「誰がイケメンよ! 美女と言いなさい、美女と! 骨格が少ししっかりしているだけよ!」

「うるせぇな!なんでイケメンって言って怒られなきゃいけないんだよ?!」


 麗は真希を一瞥して鼻を鳴らすと、子どもたちの方を向いて一瞬で柔和な表情を作った。


「あら、結愛ちゃん、おはよう。今日のコーディネートはブルー? 知的で素敵じゃない。……陸くんも、その几帳面さは将来有望ね。おば様、感心しちゃう」

「麗お姉様、おはようございます! 結愛、麗お姉様みたいな大人になりたい。とっても綺麗だもん」

「ふふ、いい心がけ。そこの『ジャージを履いた騒音公害おじさん(真希)』みたいになったらダメよ? 美意識の死滅は人生の死よ」


「誰がおじさんだ! アタシは、陸の、立派な、母親だっつーの!」


 真希の怒号と、春樹の悲鳴、そして麗の高笑い。 ひまわり荘の二日目は、昨日を上回る大騒動の予感と共に幕を開けた。



「どけどけぇ、弾丸特急が通るぞー!」


 時刻は八時。ひまわり荘前の急な坂道を、一台のママチャリ(※カゴがひしゃげ、泥除けが外れかけている)が、物理法則を無視したスピードで駆け下りていく。 ハンドルを握るのは真希。背中のチャイルドシートには、無表情でしっかりと安全バーを握りしめる陸。


「かーちゃん、スピード出しすぎ。ここ、スクールゾーン」

「バカ野郎! アタシの体内時計と筋肉が『急げ』と叫んでるんだよ! ドリフトォォォ!」  


 キキーッ! とタイヤを鳴らし、真希はカーブを攻める。すれ違う犬の散歩中の老人が、腰を抜かして電柱にしがみついた。


 その遥か後方。

「はぁ、はぁ、はぁ……! ま、待ってください真希さん! 速すぎます!」


 両手に結愛の通園バッグ、自分の鞄を持った春樹が、滝のような汗をかいて走っていた。

 その横を、結愛が涼しい顔で歩いている。


「パパ、姿勢が悪い。もっと颯爽と歩いて。恥ずかしいから」

「む、無理だよ結愛ちゃん……! パパ、もう肺が破裂しそう……」


 さらにその後ろには、この世のものとは思えない異質なオーラを放つ人物がいた。


「……チッ。紫外線は殺人的ね。私の細胞が悲鳴を上げているわ」


 女優帽に巨大なサングラス、黒の日傘を差した麗だ。身長一八〇センチ超えのモデル体型が、十センチのピンヒールでカツカツとアスファルトを鳴らす。

 すれ違うサラリーマンたちが「え、モデル?」「撮影?」「いや、デカくね?」と二度見、三度見をしていく。


「ちょっと春樹、もっと優雅に歩けないの? あなたのその必死な顔、街の景観を損ねているわよ」 「そ、そんなこと言われても……麗さんは荷物持ってないじゃないですか!」

「当たり前でしょ。重いものを持つと筋肉がついちゃうじゃない。……あら、そこのドライバーさん、見てないで道を空けてくださる?」


 麗がサングラスを少しずらし、渋滞中のトラックの運転手に流し目を送ると、運転手は顔を真っ赤にして慌てて道を譲った。


 先頭を爆走する暴走自転車。

 荷物まみれの弱気な執事。

 ランウェイを歩くような美女(?)。


 この奇妙な隊列は、商店街を抜け、交差点を渡り、街中の視線を独占しながら進んでいく。


「……ねえ陸くん。私たち、他人のフリしない?」


 信号待ちで自転車に追いついた結愛が、ポツリと呟いた。


「……うん。僕も今、ヘルメットのバイザーを最大まで下げて顔を隠してる」


 大人たちのカオスな振る舞いに、子どもたちの心は急速に冷め切っていくのだった。


 そして到着した『ひだまり保育園』の門前。


「おっしゃあ到着! タイム更新だ!」


 真希が自転車を急停車させ、タイヤ痕を残す。


「ぜぇ、ぜぇ……つ、着いた……」


 春樹が門柱にスライディング状態で崩れ落ちる。


「ごきげんよう、皆様」


 麗が優雅に手を振り、周囲のママさんたちを威圧する。


 ざわ……ざわ……。

 門の周りにいた「普通」の保護者たちが、一斉に道を空け、遠巻きにヒソヒソと囁き合う。

(何あの人たち……)

(ヤンキー?)

(モデル?)

(誘拐?)

(関わっちゃダメよ……)


「行ってらっしゃい、陸! 誰かに喧嘩売られたら買ってこいよ!」  

「行ってきます。……かーちゃん、お迎えの時は静かに来てね」  


「結愛、パパ頑張るからね! 誰よりも愛してるよ!」  

「はいはい。パパ、ネクタイ曲がってるよ、直して。行ってきます」


 子どもたちは逃げるように園内へと消えていった。残されたのは、周囲から完全に浮いている大人三人だけ。


「さて、と」

 真希がニカっと笑い、春樹と麗を見た。

「アタシらはアタシらの戦場しごとに向かうとするか! 今日も稼ぐぞオラァ!」

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