2.あべこべな晩餐
銀ばあに指定された二階の部屋は、長年使い込まれた畳の匂いが残る六畳間が三つ並んでいた。
「っしゃあ! 片付けはスピード勝負だ! 筋肉と一緒で、一気に追い込むぞ!」
真希の雄叫びと共に、隣室まで響くようなガムテープを引き剥がす音が炸裂する。段ボールを力任せにぶち開けると、中から出てきたのは、およそ引っ越し荷物とは思えない無骨な鉄塊たち。電動ドリル、水平器、巨大なスレッジハンマー、さらには用途不明の溶接マスクまで。
「……かーちゃん、これどこに置くの。クローゼット、もうドリルと工具箱で埋まったよ」
陸が呆れ顔で、五歳児とは思えぬ手際で散らばったプロテインの袋を賞味期限順に並べていく。彼の背後では、真希が「よし、この壁に棚を作る!」と、入居五分で柱にドリルを突き立てようとしていた。
一方、隣の部屋の春樹は、真希の部屋から伝わる振動にビクつきながら、山のような服と格闘していた。 色とりどりのエプロン、キャラ弁用の細やかな型抜き、そして使い込まれた『絶対に失敗しない家庭料理』のレシピ本。
「結愛、パパのアイロン台、どこに置いたっけ……。あ、このお鍋はキッチンの近くがいいかな……」 「パパ、そんなの後回しにしてよ! 私のシルバニアファミリーの家、先に組み立ててって言ったでしょ! あー、もう、本当に頼りないんだから!」
娘の鋭い叱咤に、「ご、ごめんね……すぐやるから」と亀のように首をすくめる春樹。どちらが親でどちらが子か、その力関係は明白だった。
さらにその隣、麗の部屋からは、廊下を侵食するほどの濃厚なローズの香りが漂っていた。
「ちょっと! そこのジャージ女! 私の部屋の前にそんな無骨な鉄クズを置かないで頂戴! 玄関からの良い運気が遮断されるじゃない!」
麗が、顔に真っ白な保湿パックを貼り付けたまま、般若のような形相で廊下へ飛び出してきた。右手には鈍く光る最高級の美顔ローラーが、まるで武器のように握られている。
「んだとぉ? これは鉄クズじゃねぇ、アタシの魂だ! 文句あるなら表へ出ろ、パックのお化け!」
「誰がお化けよ! これは一枚二千円する高濃度美容液パックよ! ……というか、あんたの荷物、油臭くて鉄臭すぎなのよ! 私のシルクのシーツに匂いが移ったらどうしてくれるの!?」
「知るか! アタシはこれからここに特製プロテインラックを作るんだよ!」
「やめてよ! 騒音で私のゴールデンタイムの睡眠が阻害されるわ!」
ガシャーン! ドカドカ! バキッ! 古民家『ひまわり荘』は、もはや工事現場か、あるいは異種格闘技の控え室のような騒ぎに包まれた。
夕刻。傾きかけた西日が、埃の舞う古い廊下に長く伸びる。
「おい、飯はまだかー! 腹が減りすぎて胃が自食を始めてるぞ!」
リビングからの銀ばあの怒鳴り声に急かされるように、大人三人は一階のキッチンに集結した。
「……あの、僕が作りますよ。これでも主夫歴は長いですし、一応、家事は得意な方なので……」
春樹が恐る恐るエプロンを締めると、真希が鼻で笑って肩で彼を弾き飛ばした。
「男がキッチンでちまちまやってんじゃねぇよ。アタシがガツンとスタミナ料理を作ってやる! 男は黙って肉だろ、肉! 火力こそが正義なんだよ!」
「あなた今、心は乙女の私の前で『男は黙って』なんて言った? ……デリカシーが化石レベルね。絶滅したほうがいいわよ」
麗が優雅に、だが冷徹な手つきで冷蔵庫を開ける。
「ここは私の美容食で決まりよ。アボカドとサーモンのサラダ、それにスーパーフードのキヌアを添えて……」
「そんな鳥の餌みたいなもんで腹が膨れるか! いいからどけ、火力が足りねぇんだよ!」
真希がガスのつまみを最大に回した。コンロから猛烈な火柱が上がる。
「オラァッ!」
熱せられたフライパンに、真希は一切の躊躇なく大量の豚肉をぶち込んだ。 ジュワァァァッ!という爆音と共に、油の飛沫が四方八方に飛び散る。
「ひゃあああっ! 危ない、危ないですよ!」
「ちょっと! 私のパーフェクトな肌に油が跳ねたらどうしてくれるの!? 殺意を覚えるわ!」
春樹は腰を抜かして隅っこで震え、麗は高級エプロンを盾にして後退りする。
「……パパ、代わって。死人が出る前に」
結愛が、死んだ魚のような目でパパを促した。その横では、陸が「……緩んでる」と呟きながら、真希の工具箱から持ってきたスパナで蛇口の接合部をガリガリと締め直している。もはやカオスは頂点に達していた。
「……はぁ。どいてください、真希さん」
その時、春樹の口から漏れたのは、ため息ではなかった。 それは、ある種の「覚悟」を秘めた戦士の吐息。立ち上がった春樹の目は、先ほどまでの弱気な男のそれではなく、戦場に赴くプロの鋭さを宿していた。
「料理っていうのは、力任せにやるもんじゃない。……優しさ、なんですよ」
「あぁん?」とすごむ真希の隙を突き、春樹は流れるような手つきで彼女の手から菜箸を奪い取った。 そのまま、焦げ付く寸前だった豚肉を鮮やかに救い出し、空中でフライパンを煽る。
トントントントントン……!
まな板を叩く音が、心地よいリズムを刻む。春樹は一寸の狂いもない手際で野菜を切り刻み、冷蔵庫にあった残り物の端切れでチャチャッと煮浸しをこしらえていく。無駄のない動き、正確な火加減、そして完璧な調味料の配合。
「…………」
「…………」
その圧倒的な「家庭力の暴力」を前に、真希も麗も完全に沈黙した。 油の臭いに混じって、食欲をそそる醤油と出汁の香ばしい匂いが、魔法のようにキッチンを満たしていく。
「……できた。ご飯、よそってください。冷めないうちに」
春樹が少しだけ照れたように笑う。その背後には、まるで黄金の後光が差しているようだった。
やがて、使い込まれて黒光りする大きな食卓に、湯気を立てる料理が並んだ。 豚の生姜焼き、大根と人参がたっぷり入った豚汁、そしてホクホクとしたジャガイモの形が残るポテトサラダ。どこにでもある、けれど今の彼らにとっては何よりも完璧な家庭料理だ。
銀ばあがキンキンに冷えたビール片手に、パンパンと景気よく手を叩く。
「はい、座った座った! あんたらの初飯だよ。残したら承知しないからね。いただきまーす!」
その号令で、一同はバラバラのタイミングで箸を動かした。
「……おいしい」
最初に小さな声を漏らしたのは、陸だった。その一言に、春樹は張り詰めていた緊張が溶け、ふにゃりと顔を崩す。
「えっ、春樹……あんた、意外とやるじゃねぇか。この生姜焼き、タレが絶妙に絡んでて米が止まらねぇわ!」
真希は茶碗を片手に、猛烈な勢いで肉を口に運び、口いっぱいに頬張る。
「あら……。味付けがちょっと濃いけれど、疲れた時には悪くないわね。お肌へのダメージは、後でビタミン剤を飲んで相殺すればいいかしら」
麗も、一口サイズにカットした肉を上品に咀嚼し、満足げに目を細めた。
昼間の喧騒が嘘のように、食卓に静かで、けれど温かい時間が流れる。 ふと、真希の箸が止まった。
「……そういえばさ。誰かに飯作ってもらうのなんて、何年ぶりだろうな」
ポツリと真希は言った。
「アタシ、現場監督やってた頃からずっと一人でさ。息子が生まれてからも、毎日戦場で……。飯なんてただの栄養補給、コンビニ弁当か、アタシが作った黒焦げの『何か』で済ませてきた。……こうやって、誰かが作った温かいものを、誰かと一緒に食うなんてさ」
春樹も、箸を置いてうつむいた。
「僕も……妻に『あなたの料理は味が薄くてつまらない、まるであなたみたい』って言われて。……最後の方は、一人で食べるキッチンが本当に広すぎて、味がしなくなってました」
麗が、長く手入れされた指先で、自分の目尻をそっと拭った。
「……嫌ね。せっかくの食卓が湿っぽくなるじゃない。おじさん二人がしんみりしてると、私のウォータープルーフの化粧が崩れるわ」
「おじさんって言うな、アタシはこれでも女だ! ……まあ、いいや。今日は、あんたの飯の旨さに免じて許してやる」
真希が豪快に笑い、春樹の細い肩をバンバンと豪快に叩いた。
「痛いです、真希さん! 骨が折れます!」
春樹は泣きそうな顔をしたが、その口元には、久しぶりに心からの笑みが浮かんでいた。
「銀ばあ、おかわり。……これ、明日も作ってほしい」
陸が空っぽの茶碗を差し出す。
「自分でよそいな、坊主。ここは自分のことは自分でするのがルールだよ。……ま、たまには大家のお節介で大盛りにしてやってもいいけどねぇ」
銀ばあは満足げにビールを飲み干すと、幸せそうに頬を膨らませる子どもたちと、早速つまらないことで言い合いを再開した大人たちを、目を細めて眺めた。
女を捨てて戦ってきた女と、居場所を失った優しい男。 男の体を持って自由に生きる美しき乙女と、親よりもずっと大人びた子どもたち。
世間の「普通」という枠からはみ出し、弾き飛ばされてしまった、あべこべなパズルのピース。 完成図はまだ誰も知らない。けれど、この『ひまわり荘』の食卓だけは、今、世界中のどこよりも正しく、そして温かかった。
「……よし! 腹も膨れたし、明日からはアタシが掃除担当だ! 高圧洗浄機で家中まるごと洗ってやるからな! 天井から床までピッカピカだぞ!」
「や、やめてください! 築五十年の家が粉々に壊れますから!」
「やだ、私の高級コスメが水浸しになるじゃない! やめなさいよ、この重機女!」
あべこべな家族の夜は、まだまだ更けそうにない。




