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10.解散の危機?!その2

 リビングの重苦しい空気は、五歳と六歳の子どもたちにとって、毒ガスのように息苦しいものだった。  泣き崩れる春樹、怒りで立ち尽くす真希、そして幽霊のように青ざめた麗。頼りになるはずの大人たちは今、自分たちの「家」が消えるという事実に打ちのめされ、ただの弱虫に戻ってしまっていた。


 リビングの片隅、テーブルの下。秘密基地のようなその場所で、結愛は陸のシャツの裾をぎゅっと握りしめていた。


「ねえ、りっくん。ひまわり荘がなくなったら、結愛たち、もう会えなくなっちゃうのかな……?」


 結愛の声は震え、瞳には今にも溢れそうな大粒の涙がたまっている。陸は、銀ばあの部屋からこっそり持ち出してきた一枚の紙をじっと見つめていた。それは、大人たちが絶望していた封筒の中にあった、不動産屋の連絡先が書かれた名刺だった。


「……わかんない。でも、大人はすぐ諦めるから。泣いてるだけじゃ、銀ばあのおうちは守れないんだ」


 陸の瞳には、かつて真希が語った父親のような、静かで鋭い光が宿っていた。


「僕たちが、なんとかしなきゃ」


 二人は、それぞれの宝箱から「全財産」をかき集めた。結愛のうさぎの財布には、ピカピカの10円玉が数枚。陸の貯金箱からは、お年玉で貰った大事な500円玉と100円玉が数枚。大人から見れば、お菓子ひとつ買うのがやっとの小銭。けれど、彼らにとっては、この家を買い戻すための精一杯の「軍資金」だった。


「ねえ、これを持っていけば、あの『ふどうさんや』さんは、壊すのをやめてくれるかな?」

「わかんないけど……お願いするしかないよ。僕たちには、ここしかないんだから」


 大人たちが書類を囲んで言い争っている隙に、二人は小さなリュックを背負った。


 *


 子どもたちがいないことに気づいたのは、一時間後のことだった。


 先ほどまでリビングを支配していた重苦しい絶望を脇に置き、真希、春樹、麗の三人は、弾かれたように家を飛び出した。


「陸!」

「結愛ちゃん!」


 喉が焼けるほど名前を呼び、路地裏から空き地まで必死に駆けずり回る。やがて、冷たい雨が降り出した。暗がりに沈む公園のベンチで、小さな二つの影が身を寄せ合い、震えているのを見つけた時、真希は駆け寄り、二人を壊れるほど力一杯抱きしめた。


「バカ野郎! 何やってんだよ……っ。死ぬほど心配しただろ!」


 真希の怒鳴り声は、安堵で激しく震えていた。その胸の中で、結愛がしゃくりあげながら、途切れ途切れに言葉を絞り出す。


「……だって、ここがなくなったら……もう、みんなで暮らせないから……。パパと、真希さんと、麗お姉様と、陸くん。みんな一緒がいいんだもん……。バラバラになるのはいや……っ」


 雨音に混じる幼い泣き声が、大人たちの胸を鋭く刺した。 春樹も、麗も、雨に打たれながら立ち尽くし、突きつけられた真実に言葉を失う。


 血の繋がりもなければ、まともな始まり方でもなかった。それでも、家を失うことよりも、この「繋がり」が途切れてしまうことの方が、今の彼らにとっては何百倍も、何千倍も恐ろしいことだったのだ。


 真希が顔を上げ、雨に濡れた髪を乱暴にかき上げた。その瞳には、先ほどまでの迷いは消え、座ったような覚悟が宿っている。


「……決めた。銀ばあが戻ってきたら、アタシがこの家を買い取ってやる。現場のシフト、明日から今の三倍入れてやるよ。死ぬ気で稼いで文句言わせねえ」


「僕も……やります。お弁当のデリバリーでも深夜の清掃でも、何だってやります」


 春樹が、眼鏡の奥の目を強く見開いた。いつも頼りなく笑っていた男の背中が、初めて硬く、逞しく見える。


「この家を守るためなら、僕、強くならなきゃいけない。パパなんだから」


 麗は、濡れた高価なコートの裾が汚れるのも構わず、二人を包み込むように跪いた。


「私も、モデルの仕事、もっと真面目に受けるわ。……いい? 私たちが、私たちの『家族』を守るのよ」


 雨足は強まるばかりだったが、家路につく五人の足取りに、もう迷いはなかった。


 *


 数日後、銀ばあが何事もなかったかのようなケロッとした顔で退院してきた。


 ひまわり荘の玄関が開いた瞬間、待ち構えていた一同は一斉に畳に膝をついた。真希、春樹、麗の三人は、まるで申し合わせたかのように、板張りの床に額をこすりつける。


「銀ばあ! お願いだ、この家を売らないでくれ!」

「お願いします! 僕たち、働きますから!」

「この通りよ。追い出さないで……!」


 必死すぎる大人たちの姿に、銀ばあは手に持っていた紙袋を落としそうになりながら、ポカンと口を開けた。


「……あんたたち、一体全体何を言ってんだい?」


 銀ばあは怪訝そうに眉を寄せ、テーブルの上に放置されていた、あの「再開発計画書」を指先でつまみ上げた。


「あぁ、これのことかい? ……これはね、隣の空き地の話だよ。不動産屋がさ、『ひまわり荘も一緒に売って、大きなマンションにしませんか』ってしつこく持ってくるもんだから。断るための弱点でも探そうと思って、資料を読み込んでたんだよ」


「「「………………え?」」」


 三人の動きが、ピタリと止まった。静寂の中に、時計の針の音だけが響く。


「私が、このボロ家を簡単に手放すわけないじゃない。あんたたちみたいな、他じゃまともに生きていけない連中を見守るのが、私の老後の唯一の楽しみなんだからさ」


 銀ばあは鼻で笑うと、いつもの定位置にどっしりと腰を下ろし、冷蔵庫から取り出したビールの栓を「シュパッ!」と小気味よく抜いた。


「……腰が、抜けた……」


 真希が糸の切れた人形のように、その場に大の字になって転がった。 春樹は膝をついたまま、嗚咽なのか笑いなのか分からない声を漏らし、麗は精魂尽き果てた様子で、高価なブラウスのシワも気にせず壁にもたれかかった。


 そんな大人たちの無様な姿を見て、陸と結愛が顔を見合わせ、こらえきれずに吹き出した。


「かーちゃん、三倍働く必要なくなっちゃったね」

「パパ、泣いてるの?笑ってるの?」


 子どもたちの無邪気な笑い声が、緊張の糸が切れた部屋に広がっていく。


「……全く! このクソババア!」


 真希が照れ隠しに笑い飛ばし、春樹が眼鏡を拭きながら泣き笑いし、麗が呆れたように、けれど愛おしそうに乱れた髪を指で整える。


 この屋根があろうとなかろうと、たとえどこへ行こうとも。 自分たちはもう、理屈や血縁を越えてしまった、切っても切れない「家族」なのだと。


「よし! 今日は銀ばあの快気祝いと、ひまわり荘の存続祝いだ! 春樹、 冷蔵庫の中身、全部使い切ってご馳走にしようぜ!」


 真希の号令に、春樹が力強く立ち上がった。


「はい! 最高の宴にしましょう!」

「私も手伝うわ。野菜を切るくらいならできるもの」


 台所からは包丁の音と、賑やかな罵り合い、そして子どもたちの歓声が聞こえ始める。


 外はすっかり日が落ちていたが、ひまわり荘の窓からは、オレンジ色の温かい光が漏れていた。 こうして、この古いシェアハウスには再び、騒がしくて愛おしい夜が戻ってきた。

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