1. 運命(?)の衝突
「どらぁぁ! 邪魔だ邪魔だ、道を開けろー!」
冬の終わりの柔らかな日差しを切り裂くように、およそ女性のものとは思えない怒号が響き渡った。
郊外の小高い坂の上。築五十年、あちこちの木材が飴色に焼けた古民家『ひまわり荘』の門前に、その嵐は現れた。 声の主は、乾 真希。短く切りそろえたベリーショートの髪を乱し、膝の抜けた着古したジャージに身を包んでいる。肩にはパンパンに膨れ上がり、今にもはち切れそうな登山用バックパック。さらに両手には、視界を遮るほど巨大な段ボールを抱え、重戦車のような足取りで坂を登ってきた。
「……かーちゃん、声デカすぎ。近所迷惑」
真希の後ろを、一歩ずつ踏みしめるように歩くのは、息子の陸だ。五歳児とは思えない冷めた眼差しを向け、小さな手で額の汗を拭っている。その達観した表情は、まるで猛獣使いのそれであった。
「うるせぇ! 気合だよ気合! 今日からここがアタシらの城なんだからな! 湿っぽい顔してっと、運気が逃げるぞ!」
真希は景気づけと言わんばかりに、門を足で豪快に押し開け、敷地内へと踏み込んだ。――その、刹那だった。
「ひゃぅっ!? ご、ごめんなさいぃ!」
玄関から慌ててゴミ袋を抱えて出てきた「細い影」と、正面衝突した。
ドサリッ!
鈍い音と共に、真希が抱えていた段ボールが宙を舞う。重力に従ってぶちまけられたのは、無骨なスチール製の工具セット、そして――封の開いていた業務用プロテインの粉末。 あたり一面に、バニラ味の甘い香りと真っ白な粉塵が舞い上がった。
「あーっ! アタシの貴重なタンパク質がぁぁ!」
「ひ、ひいぃ……! す、すみません! お代金は払います、だから命だけは、命だけは助けてください、ヤクザのお方ぁぁ!」
尻餅をつき、落ちたゴミ袋を盾にするようにしてガタガタ震えているのは、エプロン姿の男――佐藤 春樹だった。色白の肌に、ひょろりとした柳のような体格。情けないほどに潤んだ瞳は、完全に「捕食される側の小動物」のそれである。
「誰がヤクザだボケ! どこにこんな美人の極道がいるんだよ!」
「あ、結愛! パパの後ろに隠れてなさい! 噛まれるよ!」
春樹がおびえながら背後をかばうと、ひらひらとしたワンピースを着た六歳の少女、結愛がひょいと顔を出した。 彼女は真っ白な粉を被った真希をジロジロと一瞥し、やれやれと深く、重いため息をついた。
「パパ、しっかりして。この人、ただのガサツな女の人だよ。ほら、よく見たら胸あるし」
「えっ? ……あ、本当だ。言われてみれば……。失礼しました、女性だったんですね。てっきり、ヤクザか何かかと……」
春樹が心底ホッとしたように胸をなでおろした瞬間、真希の額に青筋が浮かんだ。
「……殺すぞテメェ! 表に出ろ!」
「ここ表ですぅぅ! 結愛、助けてぇ!」
初対面から火花を散らす真希と春樹。一触即発、今にも取っ組み合いが始まりそうな現場に、場違いなほど優雅で涼やかな声が響いた。
「あらあら、賑やかねぇ。まるで特売日のスーパーのワゴンセールみたい」
その場の空気が、一瞬にして凍りついた。 玄関の奥から現れたのは、逆光を背負って後光が差しているのではないかと錯覚するほどの、圧倒的な美貌の持ち主だった。
身長は優に百八十センチを超え、モデルのようにすらりと伸びたスレンダーな肢体。彫刻家が心血を注いで削り出したかのような整った顔立ち。さらさらの茶髪を優雅に揺らし、薄手のカーディガンを肩に羽織ったその人物は、困ったように白磁のような頬に手を当てた。
「……うわ、めっちゃ美人」
真希はあまりの輝きに毒気を抜かれ、思わず呆然と呟く。 春樹もまた、目の前の「女神」の降臨に顔を真っ赤にし、しどろもどろになりながら尋ねた。
「あ、あの、貴女も……今日から入居される方、ですか?」
美人はニッコリと、大輪の薔薇が咲くような笑みを浮かべた。そして――。
「そうよ。今日から同居する、麗です」
口から出たのは、野太い……いや、チェロのように低く、深く響く「良い声」だった。
「心は乙女、体は……まあ、見ての通り屈強なオスなんだけど。よろしくね、迷子の子猫ちゃんたち」
真希と春樹の時が、完全に止まった。
「……オス?」
「ええ、男よ。戸籍上はね」
麗は事も無げに言うと、長く手入れの行き届いた指先で髪をかき上げた。
「でも趣味はネイルとエステ。女子力に関しては、そこの……そう、そこの『ジャージを着た何か』の、百倍はある自信があるわ」
麗は、プロテインの粉で白く汚れた真希のジャージを、汚物でも見るかのように親指と人差し指の先でつまみ上げた。そして、心底嫌そうに鼻を寄せ、眉をひそめる。
「……まず、その服。今すぐ脱いで、全部捨てていいかしら? 公害よ、これ」
「んだとコラぁ! これがアタシの正装なんだよ!」
怒鳴る真希だったが、麗の「物理的な高さ」と「圧倒的な美」のオーラに気圧され、いつもより声のトーンが低い。 ひまわり荘の屋根の下、ガサツ女、弱気男、そして絶世のオネエ。
「はいはい、そこまで。引っ越し早々、何やってんだ、まったく」
騒乱の渦中に、さらにもう一つ、しわがれてはいるが一本芯の通った声が割り込んだ。 廊下の奥から、使い古されたお盆にキンキンに冷えたビール瓶を乗せて現れたのは、この『ひまわり荘』の主――大家の銀ばあだ。 彼女はお盆を床に置く間も惜しむように、手慣れた手つきでカチリと栓を抜くと、そのままグイッと喉を鳴らしてラッパ飲みを始めた。
「……大家さん、まだ真昼間ですよ? ビールって……」
春樹が呆れたように指摘するが、銀ばあは口元の泡を手の甲で豪快に拭うと、ガハハと笑い飛ばした。
「いいじゃない。人生、楽しんだもん勝ちよ。あんたたち、今日からここで寝食を共にするんだから、仲良くしなさい。ここはね、『普通』という言葉に疲れ果てた奴らの掃き溜めなんだから」
銀ばあは縁側にドカッと腰を下ろすと、一癖も二癖もある入居者たちを、値踏みするように見渡した。
なりふり構わず、女を捨てて息子を守るために戦うシングルマザー、真希。 愛した妻に裏切られ、着の身着のままで追い出された心優しき弱気な主夫、春樹。 そして、その完成された美貌の裏に、誰よりも強固な自己を秘めたトランスジェンダー、麗。
まさに、あべこべな形のパズルを、神様がヤケクソになって無理やり組み合わせたような面々だ。
「この家には、ルールがある。――『夕飯はできるだけ全員で食卓を囲むことだ』。それ以外は何をしても自由。……あ、あと、家賃滞納したら即座に外に放り出すからね。私のビール代がなくなるから」
「そんな適当な理由で……」
春樹ががっくりと肩を落とす。この先、この自由すぎる大家に振り回される未来が容易に想像できた。
「へっ、面白そうじゃねぇか。同じ釜の飯を食えば、相手の弱点やボロも見えてくるってもんだ」
真希が不敵にニヤリと笑い、粉だらけの拳を握りしめる。
「あら、そう。じゃあ覚悟しておいてね? 私、オーガニックなものしか食べないし、彩りの悪い食卓は美意識が許さないから。……そこのジャージ、まずはあんたのプロテインを全部掃除しなさい」
麗は優雅にネイルを眺めながら、さらりと釘を刺した。
そんな大人たちのやり取りを、五歳の陸と六歳の結愛は、少し離れた場所で黙って見つめていた。 「……ねえ、ここの大人たち、大丈夫かな?」
「……期待するだけ無駄だよ」
子どもたちの冷ややかな視線を余所に、ひまわり荘の古い屋根が、賑やかな声に震えている。
こうして、前途多難なんて言葉では到底足りない、あべこべな大人三人と子ども二人の共同生活が、騒々しく幕を開けた。




