第三部
白いレンガの道が、浜辺までずっと敷き詰められている。
カラフルな露店が立ち並ぶ大通り。子供や若者たちの溜まり場のような裏通り。
街は大都会というほどじゃない。海に面した明るく豊かな街、近くの山では鉱石も取れるようで、名の知れた宝石店の本店があった。
近くの果樹園からフルーツの香りも運ばれて、海から風が吹けば潮風が髪を揺らす。
子供たちは楽しそうに駆け回り、野良猫は自由気ままに屋根の上で欠伸をしていた。
ルーカスと別れ、アレンティア南部から逃れた俺は、10年間ほどあらゆる街や国を渡り歩き、やがて海の街『フロリアン』に辿り着いた。
昔からそこまで争いごとに巻き込まれることもなく、隣国のアレンティアとも友好関係を築いている安定した国だった。
フロリアンの町の人々からも、その安寧は見て取れるもので、街中の清潔さや明るい雰囲気でそれはよく表れていた。
子供たちがはしゃぐ街の入り口の通りに酒場を見つけて、一先ずそこに入ることにした。
情報を集めるにはお誂え向きな場所で、地元の人間も観光客も立ち寄る所だ。
街の実状もわかるし、宿や観光名所の案内もしてくれるだろう。
まぁ決して観光目的で来たわけではないが・・・
カランと古びたベルを鳴らしてドアを開くと、まぁまぁ広い店内は、昼間でもそこそこの賑わいを見せていた。
いらっしゃいと、カウンターに立つ店主から声が聞こえて、明るい笑顔を振りまく若いウエイトレスが店を歩き回る。
空いたカウンター席にそっと腰かけると、コン・・・と音を立てて、男は水が入ったグラスを目の前に置いた。
「どうした兄ちゃん、長旅で疲れちまったか?」
「・・・ありがとう。それ程じゃない。」
冷たい水でのどを潤して、店の空気を感じるようにテーブルを見渡す。
「いらっしゃいませ、お兄さん何にします?」
奥から食材を持った娘が現れて、明るい声で言った。
「・・・そうだな・・・魚料理があればもらいたい。」
ニコリと笑みを返されて、俺の顔を覗き込む娘の隣で、店主は淡々と料理を作り始めた。
「お兄さん綺麗な瞳の色ねぇ・・・すっごくハンサムだし・・・観光で来たの?」
頬杖をついて彼女は赤毛を耳にかけながら尋ねた。
「いや、たまたま立ち寄ったんだ。・・・ここはいい街だな。」
「そうね、滅多に物騒なことは起こらないし、戦火に見舞われることもないわ。ところでお兄さんどこからいらしたの?」
「・・・」
どう答えるのが適切か一瞬考えると、フライパンを振るいながら店主が言った。
「こらベティ・・・不躾に色々尋ねるのはよせ。ここには色んな奴が来る。」
言葉少なに娘を窘めると、彼女も軽くため息をついて肩をすくめて見せた。
チラリと近くのテーブルを見ると、昼間から酒を煽る中年男性もいれば、派手な格好をした娼婦たちも見受けられた。
平穏な所なのであれば、あちこち渡り歩いてきた体を休めるにはいい街かもしれない。
魔力を感じ取る魔術師が多くなければ、そこまで不審な目を向けられることもないだろう。
人間のフリはだいぶうまくなってきた方だ。
また言葉少なに店主から出された料理を、静かに口にした。
その後も時々無難な質問をして街の現状を尋ねた。
おしゃべりなウエイトレスのおかげで、特に大きな問題もなく平和な街だとわかる。
仕入れていた情報でも、ここは王が民に慕われている名君だと聞き及んでいた。
人間の食事はあまり好きではないけど、気を遣われてか、名産品である魚料理は素材を活かす優しい味付けにされていたこともあって、ペロリと平らげることが出来た。
礼を言って代金とチップを置いて、酒場を後にした。
店を出ると涼しい海風を受けて、レンガの道の先、わずかに水平線が見えた。
青くてキラキラ光るそれに、無意識に足が向いた。
ペタペタと整備された道を歩けど、擦り減った靴底がふと気になった。
街道脇に目に着いた店を次々眺めて、ちょうど靴屋があったので買い替えることにした。
ヒールのついた艶やかな靴が気に入ったけど、店主はしばらくここに滞在するなら、砂も多く運ばれてくるし、汚れてもいい歩きやすいものがいいと勧められた。
仕方なく相応のものを見繕ってもらい、安価なものを購入してまた歩き進めた。
猫の姿に変化すれば、服も靴も必要なくなるが、無駄にするわけにはいかないので、姿を変えた時は、空間魔術で身に着けているものは収納していた。
人に戻る時は同時に着用する魔術を使っているのだけど、正直身を隠している時間が多い時は、猫の姿のままひっそり路地裏にいるのが楽ではあった。
だが手配書まで回って探し回られていた時期は、俺が猫の獣人だとバレていたので、それからは仕方なしに、姿を微妙に変えながら人間に溶け込むようになった。
またキラリと青い水平線が見えた時、どこか懐かしい香りを感じて、すぐ近くの花屋に目が留まった。
潮風に吹かれて悪くならないのだろうかと思いながら、店先に置かれている色とりどりの花を眺めた。
ふと昔ルーカスが、植物を使って薬を作っていたことを思い出す。
自然の力は偉大だと言いながら、あいつ違法な薬物作ってたんじゃねぇだろうな・・・
俺やネージュに危険なものを投与したりはしなかったが、後々魔術師の話を聞く機会があった際、医療魔術を使うものは、それ専用の植物を育てて薬を生成すると聞いた。
目の前にあるものは皆、人間が好む花でしかないようだが・・・
「いらっしゃいませ。」
ボーっとそれらを眺めていると、ふと女性の声がして顔を上げた。
そこには柔らかい茶髪に、グリーンの瞳をした若い女性が立っていた。
「・・・・・何か・・・お探しですか?」
少しの間お互い見つめ合った後、彼女は瞬きしながらそう言った。
「・・・いや・・・すまない、そういうわけじゃないんだ。」
「そうですか。・・・結構ですよ、気に入ったものが無くても、愛でてもらえるならお花も嬉しいですから。」
エプロン姿で持っていたじょうろを傾けて言った。
今度は彼女をじっと眺めると、少し日焼けした肌に大きなエメラルド色の瞳が、とても綺麗で印象的だった。
すると俺の視線に気を遣った彼女は、ニコリと笑みを浮かべて口を開く。
「観光でいらしたんですか?」
「・・・いや・・・何となく立ち寄ったんだ。あちこち回っていたけど、ここはまだ訪れたことがなかったから。」
「そうなんですね。・・・あの・・・よろしかったらご案内しましょうか?もうすぐ仕事が終わるので。」
茶色い髪の毛を靡かせて、彼女は何気なく言った。
「・・・ああ・・・じゃあ頼む。」
自分でも何故了承したのかわからないが、彼女が頷いて微笑む表情を見て、人間に対して抱いたことの無い感覚を覚えた。
店の中へ消えて行った背中を見送って、しばらく海を眺めて待っていた。
じきに日が沈んでいく。空がオレンジに変わろうとしている様子が、いつも見ている風景とはまるで違った。
空の澄んだ青と、オレンジが混じるようなグラデーション、そして深い海の色が複雑に合わさって、何とも幻想的な光景だった。
以前訪れた街で、路上画家が売りに出していた鮮やかな絵画を見た時は、こんな発色のいい景色があるもんかと疑っていたものだが、それが今まさに眼前に広がっている。
波の音が心地よく聞こえているのに、まるで時間が止まったように穏やかだ。
「お待たせしました。」
そう声をかけられて改めて振り向くと、私服に着替えた彼女が立っていた。
「もういくらか街は回りましたか?どこか行きたい所があれば案内しますし・・・」
「・・・海に行きたい。」
「わかりました。ちょうど夕日が沈んできて綺麗な頃合いですね。」
彼女は俺の少し先を歩くので、ゆっくり小さな背中について行った。
時々何でもない話を投げかけながらいるが、まさか俺が人間ではないとわかりやしないだろう。
彼女からは人間の魔力しか感じないし、それが体内で渦巻いたりすることはない。
複雑な流れを感じさせる魔術師や獣人、他の生き物とは違う、ごくごく普通のただの人間だ。
やがて浜辺に到着して、彼女はよく見える特別な場所だと、景色が一望できる場所に腰かけた。
同じくその小さなベンチの隣に腰かけると、彼女は澄んだ瞳で海を眺めて言った。
「もしかして、海見るの初めてですか?」
「・・・いや、アレンティアにも海はあるからな・・・」
「アレンティアの方なんですね。私は生まれも育ちもフロリアンなんです。」
「そうか・・・。」
「波の音を聞いてると・・・自然と落ち着いた気持ちになりませんか?」
「・・・そうかもな。」
「どうしてだと思います?」
彼女は少し得意気な表情で、俺を覗き込む。
「・・・さぁ・・・何故だ?」
「み~んな生き物は海から生まれたんですよ。」
「・・・海から・・・?」
「ええ。この星に大気が生まれて、その後厚い雲に覆われて雨が降って・・・水がたくさん溜まって海が出来て、植物が生まれて空気中に酸素が出来て・・・海の中に自然と小さな生物たちが生まれて・・・それがどんどん生きられるように進化していって、やがて長い時間をかけて、陸で生活出来るように体が進化した動物が、私たち祖先なんです。」
「・・・・・・考えもしなかった・・・」
「ふふ、そうですよね。私も子供の頃、学校で学ぶまでは全然想像もしなかったです。」
「・・・人間は皆そうだと知ってるのか?」
「・・・?ん~・・・どうなんでしょう。私は習ったことを覚えてるから知ってますけど・・・忘れちゃったら知らない人も多いのかも・・・」
「・・・そうか・・・」
世情を知るために色んな本を読んでいたつもりだが、陸と海しかなかった星のことは考えたことがなかった。
そう思うともっと色んな疑問が頭の中に浮かぶ。
「あの・・・お名前・・・聞いてもいいですか?」
おずおずと顔色を窺う彼女の、隣り合った指の先がわずかに触れた。
鮮やかな瞳の中に自分が映っていて、控え目に尋ねる彼女に、俺は見惚れていた。
「・・・あの・・・言いたくなければ・・・実名じゃなくてもいいですよ。」
「・・・ノエルだ。」
「ノエルさん・・・。素敵な名前ですね。」
ニコリと薄桃色の唇が持ち上がって、思わずつられて頬が緩んだ。
「・・・そう言うと思った。」
「・・・え?」
「俺を口説いてるだろ?サラ・・・」
その時ばかりは、小さなまじないのような魔術を使って、彼女の名前を見透かして見せた。
サラは案の定目を見開いて驚いたが、次の言葉を待たずに、その頬に触れて唇を重ねた。
抵抗を見せない彼女からそっと離れて目を合わせると、近くで見たその瞳はさっきより一層に、キラキラと海のように輝いた。
彼女はわずかに頬を染めながら、ポツリと呟く。
「綺麗な瞳・・・」
それからまた何度も唇を重ねて、多くを話すことなく、海辺の近くにある一軒家へと案内された。
彼女は両親を早くに亡くし、弟と二人暮らしだったらしいが、その弟も最近独り立ちして、広いうちで一人きりだと語った。
「寝床はいくらでもあるので・・・好きなベッドで休んでもらって大丈夫ですよ。」
ほいほいついてきてしまったが、これが捕らえるための罠だとしたら、俺の完敗だな。
「ノエルさん・・・?」
家の中を見渡しながらいる俺に、彼女は不安そうに側に寄った。
「その呼び方やめてくれ。ノエルでいい。後・・・気を遣った話し方をしなくてもいい。たぶん生きてる時間は10年程しか変わらない。」
「え・・・10歳も年上・・・なの?そうは見えなかった・・・。」
「そんなことはどうでもいい。・・・ところで、ベッドはサラと一緒でいい。連れ込んでおいて嫌だとは言わせないからな。」
見下ろしながらまたその可愛い頬に触れると、サラは瞳を泳がせながらコクリと頷いた。
その夜彼女の寝室で、お気に入りだというバルコニーに出て、二人で夜の海を眺めた。
真っ暗の中、星と月がぼんやり浮かんでいて、星座に詳しい彼女があちこちを指さして星の名前を辿った。
「星の光って何年も、何十年も前の輝きなのよ。」
「・・・どういうことだ?」
「星の中でガスが爆発して発光してるの。光が私たちの目に届くまで何十年とかかるほど、すごく離れてるってこと。今見てるあの星は、過去の光なのよ。」
「・・・・何だか基礎知識がないとピンとこない話だな・・・」
「ふふ、そうね。・・・ねぇノエル・・・どれくらい街に滞在する予定?」
「・・・さぁな・・・まだ考えてない。本当にフラっと立ち寄ったんだ。これからどうしようか未定だ。」
「そう・・・」
「心配しなくとも世話になる気はないから安心しろ。」
「・・・明日にはいなくなっちゃうの?」
暗く落とすように呟いたサラの声は、まるで手を離すなら今のうちにしてくれと言わんばかりだった。
あちこち逃げ惑いながら、女の家を転々として過ごすことも多々あったが、別れを惜しまれてもなんとも思わなかった。
それが所詮一時の相手に言う言葉で、期待などしていなくて、俺の代わりがいくらでもいるからだ。
だがサラは、他の連中と違うように思えた。
「いなくなったら困ることでも・・・?」
また優しく頬を撫でると、彼女は意外にも愛おしそうな目をして俺の手に、自分の手を添えた。
「・・・貴方が・・・私と同じ気持ちじゃないなら構わないの・・・。」
向けられたことの無い温かい眼差しは、次に俺が何か言ってしまえば涙をこぼす気がした。
またそっとキスをして、彼女の手を引いてゆっくりベッドに押し倒した。
純朴な彼女はまるで男を知らずに、誰かに恋をしたこともないと語った。
緊張してわずかに震えながらいる様が、可愛らしい子猫のようで、尚の事愛おしかった。
「サラ・・・俺はそれほど人間をよくわかっていないんだ。怖がることはないし、無理に受け入れることもない。」
かつて人間に無理を強いられ、差別し迫害されていたことを思い出しながら、目の前の彼女を愛おしいと思うばかりに、何も強要する気にはなれなかった。
見下ろしていた体勢から、隣に転がって頭を撫でると、サラはまた優しく笑みを返した。
人間に対して穏やかな気持ちを覚えたのは、それが生まれて初めての事だった。