第一部
古びた年季の入った写真を、そっと取り出す。
その日珍しく一日中外にいたからか、疲労感が酷く、カフェの屋根裏部屋を借りて休息を取った。
もうかれこれ100年近く生きてきた。
手元の写真は、決して戻ることない現実で、思い出とするには後悔が残る一部であった。
腰かけた屋根裏部屋のベッドは、写真と同じく古びたデザインで、体重をかけるとしなって軋んだ。
マスターが気を遣って布団を置いてくれはするが、相変わらず無頓着なのか埃をかぶってしまっている。
まぁ、獣人である自分にとっては、人の姿か猫の姿であっても、屋根のある場所で眠れるなら多少のことは気にならない。
閉ざしたままの窓の向こうに、申し訳程度に夕暮れが覗く。
また軽くため息を漏らすと、梯子を上がってくる音が聞こえて、アリスがひょこっと顔を覗かせた。
「ノエル・・・。マスターにここで休んでるって聞いたから・・・」
アリスはゆっくり足元に気を付けながら部屋に上がると、辺りを見渡して少しワクワクしたような笑みを見せた。
「屋根裏部屋って・・・なんかちょっと面白いね。」
恐らく人間の年では成人しているだろうが、強い薬のせいで幼少期の記憶を失っている彼女は、無邪気な少女のような感想を述べる。
「・・・何か用か?」
アリス自身に害はないと分かってはいるが、人間だという点で言えばあまり関わりを持つべきではないので、簡潔に尋ねた。
「用というか・・・休んでるって聞いたから、ひょっとしてまた無理して怪我でもしたんじゃないかって、心配になって・・・」
「・・・そうか。特に何でもない。」
突き放す理由はないにしろ、彼女は賢者であるロディアと同居している身だ。
余計な関わり合いを持つべきでない。
写真をポケットにしまいながらいると、アリスはそっと近づいて隣に腰かけた。
「・・・ふ・・・アリス、男と二人きりで、ベッドに腰かけるなんて不用心過ぎないか?」
「・・・え・・・?」
アリスは戸惑いの表情を浮かべるので、そもそも男というより、俺に対して猫の印象が強いのだろう、警戒する意味もわからないという顔だ。
「まぁいい・・・。あまり他人を信用し過ぎるなよ?」
尚も彼女は曖昧な笑みを返して、そっと俺の手元に視線を落とす。
「さっき・・・何をポッケにしまったの?」
可愛らしく小首を傾げて、その大きな青い瞳で俺を覗く。
金髪に映える瞳は、かつて隣国リーベルの歴史を作った、貴族出身者の特徴だ。
「・・・何でもない。気にするな。」
「・・・今日はあんまりおしゃべりじゃないんだね。ごめんね、邪魔して・・・。」
取り付く島もないと感じたのか、アリスは残念そうに立ち上がった。
寂し気な小さな背中が、50年以上前に見た誰かを思わせた。
もう名前も忘れかけていたけど・・・。
「サラ・・・」
見た目が似通っているわけでもないのに、無意識にその背中に投げかけた。
アリスが振り返ってその髪をわずかに靡かせる。
誰の事かと問うその瞳を、今度は無視することも馬鹿らしくなった。
「・・・・はぁ・・・。もう50年も会ってない昔の女の名前だ・・・。さっきしまったのはその写真だ・・・。」
ため息交じりに答えると、アリスはまたゆっくり隣に戻ってきた。
「そうなんだ・・・。ノエルが愛した人?」
「ふ・・・そんな言い方すると随分ロマンチックに聞こえるな・・・。」
「・・・違うの?」
夢の中で自問自答するような質問の返し方に、何か調子が狂う。
「・・・違わない。・・・だがもう今は生きてるのか死んでるかもわからないな。」
「どうして?もう会ってないの?」
「おいアリス・・・少し不躾だろ、そういう無垢な聞き方はよせ。」
「ごめんなさい・・・。」
アリスはパチパチと瞬きを繰り返して、視線を泳がせてバツが悪そうにした。
「・・・何も知らない子供のようなアリスに、聞かせられる個人的な話はないぞ。おとぎ話が聞きたいならロディアに尋ねるといい。俺より長く生きているなら、いくらでも知ってるさ。」
口から煙を吐き出すように、どうでもいい話し方を繰り返すと、彼女はまたその真っすぐな目で俺を見つめた。
「私・・・自分が人魚の生まれ変わりだと言われて・・・それだけで十分おとぎ話みたいだと思ったの。全然ピンとこないし・・・だからと言って私の人生が大きく変わるのかと言われたら、それもどうかわからない・・・。私は自分のことも世界のことも、わからないことだらけなの。だからどんな話であってもたくさん聞きたいと思ってる。ノエルのことを知りたいのと、自分のために。」
「・・・ふぅん。それがアリスのエゴか・・・。」
もう一度ポケットから取り出した写真を、そっと彼女に手渡した。
「・・・素敵な人ね。」
「何故そう思う?」
「ふふ・・・だって、ノエルと一緒にいるのがすごく幸せって顔してるもん。」
「・・・・」
写真を眺めながら、慈しむような表情を落とすアリスの髪を一束つまんだ。
「似ているわけじゃないのに・・・彼女も長い髪だったからか、性懲りもなく思い出したんだ。」
「・・・この人も金髪だったの?」
写真は白黒なのでわかるはずもなく、アリスは機嫌良さそうに尋ねる。
「いいや。そもそも金髪なんて滅多に生まれるものじゃない。エデン出身者でなければな。」
「そうなんだ・・・。」
「・・・彼女は・・・何と言えばいいだろうな・・・ああ・・・カフェオレみたいな髪色だった。」
「ふふ、カフェオレ?優しい茶色なのかな。」
「まぁ・・・色に詳しくないからそれが正しく何色なのかはわからんな。・・・名前と見た目は覚えてはいるが・・・声や仕草はもう記憶にないな・・・。彼女がハタチの頃に、ある港町で出会って、それから約10年間一緒に暮らしていた。」
「10年・・・」
「・・・俺にとってはごくごく一部の時間だ。けど・・・彼女・・・サラにとっては違う。人間は寿命が短いからな。不憫になったんだ、婚姻出来ない獣人と一緒にいる彼女が。俺は戸籍もないし、ご覧の通り、100年生きていても若者の姿だ。そんな者と一緒になれば、家族が認めてくれたとしても、周りから不審な目で見られる。生きづらさを与え続けることは、サラがどれほど「俺がいるだけで幸せだ」と笑っても、自分が許せなかった。」
「・・・それで・・・どうしたの?」
「・・・いきなり姿を消そうとも考えたが、それではもっとサラに悪い気がしてな。俺のエゴでしかないことは確かだし、彼女に本心を伝えて、もう終わりにしようと告げて別れた。その時彼女は30歳だ、女性が結婚相手を迎えるには少々遅い年齢だし、チャンスを残すにはいい機会でもある。それから・・・アレンティアに戻ってきたんだ。」
「そうだったんだね。」
アリスは隣にある俺の手をそっと握った。それを握り返して顔を覗く。
「似ているわけじゃないが、純粋無垢で潔白なところはそっくりだ。俺がアリスを口説く理由はそういうところだぞ。」
そっと頬に触れて唇を指でなぞると、アリスは尚も美しい瞳で見据えた。
「・・・サラさんに、会いたい?」
人間の速さで動く心臓が、ドクリと大きく音を立てた。
いったい自分がどんな顔をしているのかわからないが、アリスは歌を歌うような静かな声で、優しく続けた。
「私は会ってみたいなぁって思っちゃった・・・。ノエルもきっと会いたいよね。」
感傷に浸る程、疲労していただろうか。
そんなつもりはないし、誰にも話すつもりもなかった。
アリスの歌声に似た話し声が、導くような力を持っていたなら、彼女はある種の尋問官にでもなれるだろう。
「・・・わかるだろう?」
「・・・なあに?」
「・・・はぁ・・・。50年だ・・・一度も会ってない。それでもこうして写真を持ってる。もっと早く会いに行けばよかったと思うことも、そりゃああったさ。けど・・・今更会わせる顔はないし、街を訪れて辿り着いたのが、彼女の墓の前だったら・・・俺はもうとうとう死にたくなるさ。」
「・・・・ノエル・・・」
「だがな・・・俺は心折られるわけにはいかないんだ。死ぬには早いし、果たさなければならない目的がある。だから・・・墓の前だったとしても、生きていてくれたとしても、サラに会いに行くことは出来ない。もうそこから動けなくなってしまってはいけないんだ。意地でも・・・叶えたい事がある。」
「・・・叶えたい事・・・」
アリスは考え込むように視線を落として、重ねていた白くて細い手を解いて、膝の上で合わせた。
指先から髪の先まで、洗練された美しさを持つ彼女は、普通の人間とは違う魔力を宿している。
それが人魚の生まれ変わりであるせいなのか、はたまた貴族の末裔たちが集うエデン出身だからなのか・・・定かでない。
だがロディアが治療しているというだけあって、色んな魔力が体内に渦巻いているような、妙な感覚を与えるのは事実だ。
「私がノエルにしてあげられることは何かない?」
ただただ美しい御心と瞳で、アリスはそう言った。
「・・・知ってるか?アリス・・・。人魚がかつて何千年も前に存在していながら、絶滅の一途をたどった訳を・・・」
アリスは尚も変わらず細い眉を下げた。
「・・・真っすぐで美しい心を利用されたからだ。俺はかつて色んな国を渡り歩いて生きていた。人魚どころか、色んな生き物の話を幾度となく耳にしてきたし、歴史を裏付ける史実を持つ者にも会ったことがある。・・・人魚は俺のような魔力を操る獣じゃない。歌声を持ち、美しい心と容姿を持ち、人々の安寧を願いながら時に手助けして、己を犠牲にしてでも誰かを助けようと手を差し伸べる生き物なんだ。」
アリスはただ大人しく、静かに俺の話に耳を傾ける。
「だがわかるだろう?・・・・人間も魔術師も、俺のような獣人も、魔族や幻獣・・・その他の生き物は皆、時に醜悪で下劣な奴らも存在している。そんな輩に利用され・・・捕えられ・・・人魚たちがどうなっていったか言うまでもない。俺が以前話したことを覚えてるか?人を信じすぎることは危険なことだし、疑うことは己の身を護る大切なことだ。アリスが今・・・何を思って俺の話を聞こうとやってきたのかは、詳しく聞きはしないが、俺が実はよからぬことを企てていて、アリスに危害を加えないとも限らない。そうは思わないか?」
「・・・・・」
アリスはそっと瞳を伏せて、長いまつげを静かに閉じては開いて、少し愁いを感じる目を向けた。
「思わないよ。」
美しい声が真っすぐそう告げた。
俺は何故かその返答が、無性に悲しくて仕方なかった。
思わずこみあげてくる涙を見せぬように顔を逸らすと、アリスはまたそっと俺の手を握った。
「・・・ノエルにあった出来事を・・・話を聞きたいなって思ったの。けどそれは貴方の人生の話だから、つらいこともあるなら、無理に聞こうなんて思わない。けどもし・・・ノエルが何かに困っていたり、苦しかったり・・・躓いてしまってるなら、力になりたいし側にいたいの。だって・・・寂しそうにしていたり、何かに立ち向かおうとしてるなら手を貸したいもん。何故そこまでするのかって聞かれても、きっとうまく答えられない・・・。何が救いになって何が手助けになるのか、一緒に考えたいの。だって・・・あのね?私はロディアに・・・色んな人に救われたの。助けてもらえたから今生きていられるの。太陽を毎日浴びて、マスターに与えてもらった仕事をすることが出来て、お給金をもらって何か買うことが出来て・・・ロディアが居場所を与えてくれたから、温かいベッドで眠ることが出来る・・・。ロディアは私に、生きてほしいと言ったの。そして誰かを手助けできるようになったら、それは素晴らしいことだって・・・。」
言葉にならない想いが、次々溢れてくる。
生きてきた時間で覚えていることなど、そこまで多くないのかもしれない。
けれどそれでも・・・アリスの言葉を聞いていると、彼女を思い出してやまなかった。
「・・・・サラを・・・・愛していた・・・・。」
「うん・・・。」
「俺の幸福の全ては・・・・・彼女と共にあって・・・・それ以上を求めようと思ったこともない・・・・。」
忘れかけていた、写真以外の彼女の姿を、少しずつ思い出していた。
「幸せであることを懐かしいと思ってるわけじゃない・・・。永遠に覚えていられるなら・・・もうそれで構わないんだ。」
「・・・・本当に?」
アリスの優しい声が、胸の中に入り込むように問いかける。
「ねぇノエル・・・果たしたい目的って、今すぐじゃないとダメなのかな。」
「どういう・・・意味だ?」
「会いたいと思ってるなら・・・サラさんに会いに行ってからじゃダメなのかなって・・・」
考えもしなかった提案に、返す言葉に戸惑いながらいると、アリスは尚も俺の背を押すように言った。
「家族になって一緒にそこで住んでいた時間は、無くなったりしないんだよ。・・・私は自分が成人する前くらいまで生きてきた家を・・・家族を曖昧にしか覚えてないけど、私がそこで生きてきた事実は変わらない。・・・サラさんにとってノエルと過ごしてきた時間が、同じく幸せなものだったなら、今も会いたいと思ってくれてるんじゃないかな。例えそれが、どんな形であっても。」
アリスの青く深い瞳の色が、かつて過ごした遠い町にある海を思わせた。
閉ざされた窓の向こうの、遥か果て。
フラフラと空を懐かしむ鳥のように立ち上がり、窓の側に立てば、様々な建物で彩られた都会の街並みが広がっている。
だがあそこは違った。
海が広がる田舎町で、漁業が盛んで、皆幸せそうに潮風を浴びて生きていた。
50年ほど前、根無し草で放浪していた日々で、フラっと辿り着いたのがその街だった。
彼女と・・・サラと出会ったのも、ほんの偶然だった。




