妹は生まれた時から全てを持っていた。
妹は生まれた時から全てを持っていた。
桃色の幻想的な色味を帯びて輝く、艷やかな金髪。澄んだ真夏の空のような爽やかで明るい瞳。小さくて可愛らしい、形の良い鼻。熟れた果実のような、魅惑的な赤い唇。
栗色の髪に栗色の瞳の、この国ではありふれた容姿を持つ私と正反対だった。
華やかな容姿に劣らぬようにと、両親はセレスティーヌという美しい名前をつけた。
セレスティーヌの特別な美貌は日に日に輝きを増すばかりだった。たった2歳の頃にはもう、周りの大人たちは皆彼女に夢中だった。1つ年上の私のことは、両親を含めた誰もがまるっきり相手にもしなくなっていた。幼い時は、それが寂しくてならなかった。
セレスティーヌが3歳になる頃、王家に男児が誕生した。
「よし、いい時期にお生まれになった……。セレスティーヌとはたった3歳差。王太子となられて婚約者をお決めになるまで、決してセレスティーヌの相手を決めてしまうわけにはいかぬ」
「当然ですわ!長く男児が生まれなかった王家に、このタイミングで世継ぎになるであろう王子がお生まれになるなんて。セレスティーヌは美貌ばかりでなく強運まで持って生まれてきたんですわ」
「ああ。あの子は神が我がバランド侯爵家に遣わした女神だ……!」
「絶対にセレスティーヌを選んでもらわなくては。きっと年頃になれば、王子の方があの子のことを気に入るはずですわ」
未来の王太子妃となるべく、セレスティーヌの英才教育が始まった。けれどまだ幼いが故に、甘えたり遊んだりしていたいセレスティーヌ。彼女のご機嫌が悪くなると、両親や侍女たちは彼女にあらゆる物を与えた。高価なドレス、髪飾り、アクセサリー、異国の美しいお人形、宝石が縁取られた素敵な小箱に、繊細なガラス細工の可愛い置き物……。
「もうこれいらないっ!おかあさま、あたしアレがほしいっ!」
「……ニナ、セレスティーヌがお前のその人形を欲しがっているから、渡してあげなさい。早く」
「おねえさまのドレスの方がかわいい!どうして?!あたしのはいつもおんなじようなものばっかり!」
「セレスティーヌや、お前のドレスはとても質の良い高価なレースや生地で作られた一点ものなんだよ。ニナの着ているあれは安物だ。お前には似合わない」
「いやいやいやよ!!おとうさまのいじわるっ!アレがいい!アレがほしいっ!」
「……ニナ、そのドレスをすぐに脱ぎなさい。何か部屋に別の服があるだろう。それはセレスティーヌにあげなさい」
全てがこの調子だった。私の持ち物は妹が気に入ればすぐに妹のものになる。もちろん、その逆は一度もない。泣いていたのは最初の何年かだけ。そのうち私は自分の心を守るために、大切なものを作らないようにした。何かを特別に気に入ることを意識的に止めた。奪われた時に、できるだけ悲しまなくて済むように。
そのうち妹は自分だけが特別な勉強をさせられていることを不満に思うようになった。
「ねぇお父様、お母様、なんで私ばかりがこんなに辛い思いをしなくてはいけないの?なんでその人は何もせずに遊んでいられるわけ?」
その人というのは私のことだ。妹は7歳頃になるともう私を姉と呼ぶことさえしなくなった。私と自分に対する周りの態度の違いを見て、敬ったり親しんだりする対象ではないとはっきりと認識していたのだろう。
また不機嫌になりそうなセレスティーヌの様子に、共に食卓を囲んでいた両親の空気がピリッと張り詰めた。
「はは、それはもちろん、セレスティーヌ、お前が特別な娘だからさ」
「そうよセレスティーヌ。あなたは生まれた時から全てを持っていた特別な女の子なの。ニナとは全然違うわ。だからあなただけに、特別な教育を受けさせているのよ」
「全ては第一王子に、そして両陛下に気に入られるためだ」
私が同じ食卓を囲んでいても、両親はお構いなしにセレスティーヌを持ち上げ、私を貶す。もう傷付くことにもすっかり慣れきっていた。私は俯いて黙々とナイフとフォークを動かす。
けれどその時、セレスティーヌが言ったのだ。
「そんなのずるいわ!私が特別美しいからって、どうしてその分私だけが苦労しなくちゃいけないわけ?!馬鹿げてるわ!王太子妃になるのが私だとしても、せめてその人にもちゃんと王太子妃教育以外の勉強はさせてよ!その人ばかり自由を満喫してるなんて、我慢ならないわ!!」
我が家のお姫様のその一言で、今まで放り出されていた私も彼女と一緒に様々な座学を受けることができるようになった。
私は嬉しかった。学ぶことが楽しくて仕方がなかった。教師たちの、私とセレスティーヌへの言葉遣いや態度が明らかに違うことなんて、もうどうでもいいと思った。
妹が13歳になり貴族学園に通いはじめた時、私も一緒に学園に入学することとなった。いつもの「あの人だけ学園に行って勉強しなくていいなんてずるい!」のおかげだった。
臙脂色の制服のブレザーを着て、皆と同じように学園に通い、勉強し、同じ年頃の令嬢たちと会話をする。何もかもが新鮮で楽しく、私はますます勉強が好きになっていった。
しかし入学からわずか一年後、私は突然学園を退学させられることになった。
「な……、なぜ、ですか?お父様。どうして私だけが……」
居間で「お前は明日から学園に通う資格はない。もう退学手続きも済ませた」と突然父と母に宣告された時、私は思わずそう反論した。それほどにその言葉がショックだったからだ。
しかし父は私の言葉を聞くとソファーから立ち上がり、私の目の前までやって来た。そして──────
パンッ!!
「…………っ!」
前触れもなく私の頬を叩いたのだった。その力の強さと衝撃で、私は床に崩れ落ちた。
反射的に父の顔を見上げると、父は憎しみに満ちた目で私を見下ろしていた。まるで汚いゴミでも見るかのように、嫌悪感に満ちた眼差しで。
「なぜだと?お前が学園で不必要に目立とうとするものだから、恥をかいたと言ってセレスティーヌが泣いていたんだぞ。お前、各科目のテストや総合模試で常に学園トップの成績をとっているそうじゃないか。周囲の学生たちが皆あなたの姉はすごいとセレスティーヌに言ってくるそうだ。それがどれほどあの子の自尊心を傷付け不快な思いをさせていたか、お前に分かるか?」
「……そ……、そんな……」
「自分ばかり目立てばそれでいいの?何の取り柄もないお前は、せめてセレスティーヌが学園で心置きなく楽しい時間を過ごせるように気を利かせてあげなきゃいけなかったのよ。それを、仮にも王太子妃候補である妹の足を引っ張ろうとするなんて……本当に嫌な子だわ!」
ソファーに座ったまま、私を憎しみのこもった目で睨みつけていた母までもがそんなことを言う。どうして……?せっかく通わせてもらえた学園で、ただ精一杯勉強を頑張っただけなのに、どうしてここまでひどいことを言われなければならないの……?
傷付くことにはすっかり慣れていたはずの私の目から、久しぶりに涙が零れた。だけどそれさえも妹を溺愛する両親にとっては不愉快なことだったらしい。
「まぁ……っ!何よそれ。まるで自分が被害者みたいに涙なんか零して。性根が腐ってるわ。性格って見目に表れるものなのね」
「全く、あれだけ美しく健気な妹を持ちながら、こいつにはセレスティーヌの欠片ほどの魅力もない。……もういい。どうせセレスティーヌのための出費が嵩んできていたところだ。お前のためなんぞに払う学費がもったいない。学園は退学。これは決定事項だ。いいな」
こうして私だけが学園を辞めることになり、セレスティーヌは引き続き通い続けることとなった。
しかしセレスティーヌは徐々に授業についていけなくなり、ひそかに私に助けを求めるようになってきた。
非常に高圧的な口調で。
「ねぇ、あんた私の宿題を代わりにやっておきなさい。あんたと違って、私はいろいろと忙しいの。王太子妃に選ばれるための特別な教育だってあるしね。バカ真面目に宿題だのレポートだのやってれば息抜きの時間なんてまるっきりなくなるもの。……お父様とお母様には絶対に言うんじゃないわよ。告げ口したらただじゃおかないから。あんたに妬まれて意地悪されてるって言い返してやる」
セレスティーヌは自分が不出来なことを両親や周囲の人々に隠しておきたいようだった。自分が王太子妃候補から脱落することが嫌だったのだろう。
(そんな風にごまかし続けていても、どうせ後からツケを払う日がやって来ると思うけどな……)
そう思っていたけど、もちろんそんなこと口には出さない。もし言えばセレスティーヌや両親からどんな目に遭わされるか、何を言われるか、想像に難くなかった。
セレスティーヌの教育には多額の金が注ぎ込まれた。貴族学園に通いながら高名な家庭教師を数人雇い、美容家を週に何度も招いてはセレスティーヌの全身を磨き上げ、ケアをする。彼女を最高に美しく見せるためのドレスやアクセサリーなども次々と新調された。その上ストレスの溜まったセレスティーヌが癇癪を起こすたびに次々と与えられる、高価な品々……。
いくら我が家が多くの資産を有していた侯爵家とはいえ、このような散財が数年続くと領地経営は苦しくなってきたようだ。だけど両親は、全てセレスティーヌが王太子妃となるための投資だと思っていた。
経費節約のために、屋敷勤めの使用人たちが解雇されはじめた。バランド侯爵家の使用人の数はどんどん減り、ついには使用人たちの仕事を代わりに私がやらされるようになった。料理や掃除に買い出し、セレスティーヌや母の身支度、外出する際の準備など、私はどんどん忙しくなっていった。
第一王子が正式に王太子と定められると、いよいよ本格的に婚約者の選定が始まった。我がバランド侯爵家をはじめ、候補となる娘がいる高位貴族の人々は皆血眼になって王家に猛アピールしているようだった。
そんな中で、ある日王宮から茶会の招待が届いた。それは私とセレスティーヌ、両方に参加を促すものだった。主催者は王妃陛下、そしてその茶会には王太子殿下も参加されるとの内容だった。
「いよいよね。きっとこの茶会が婚約者の最終選定の場となるはずだわ。セレスティーヌ、以前作らせた最高級シルクのドレスを身に着けていくのよ。ヘアスタイルも入念に打ち合わせしなくては。あとは……」
母は招待状を何度も読み返しながら妹にそう言うと、忙しなく屋敷を歩き回っては数週間先の茶会の準備を始めた。私のことは、もちろん視界にも入っていない。まぁ妹に決まるのはほぼ間違いないだろう。私はせいぜい失礼にならない程度に着飾って出かけるとしよう。大したドレスもアクセサリーも持っていないけれど、どうせ下手に目立ったところで両親に厳しく叱られるだけだから。
普段私は、母やセレスティーヌが参加する高位貴族や王家の方々主催の茶会には連れて行ってもらえない。セレスティーヌがものすごく嫌がるからだ。成績優秀だった私に話題が集まるのが不愉快なのだそう。今回のような華やかな場に行くのは初めてのこと。隅っこで静かにしているのが賢明だろう。
ところが当日の朝、大きなアクシデントがあった。
王宮での大切な茶会の日。私はその日の早朝に、街までセレスティーヌのドレスを受け取りに行かされることとなった。直前になってセレスティーヌが、ドレスの一部がどうしても気に入らないと言い出し、急遽仕立て直しを頼んでおいたのだ。なんとか当日の朝までに仕上げるよう無理を言っておいたその店まで、私が使いで行くことになった。
万が一王宮に出発する時間までに私が間に合わなかったら大変だからと、うちの馬車に乗らせてはもらえなかった。以前は数台所有していた馬車も、今ではたった一台だけ。いざとなれば私を置いて自分たちだけその馬車に乗って王宮へ行くつもりらしい。
もしそうなったら、セレスティーヌは結局違うドレスで行くのだろう。じゃあわざわざこんなに無理してまであのドレスに執着しなくてもいいんじゃないの?そうは思ったけれど、言うだけ無駄だ。セレスティーヌと母の機嫌を損ねるだけだもの。
途中まで歩いて行き、辻馬車を拾おう。そう思った私は屋敷を出て、一人黙々と歩いていた。人気の全くない早朝のひんやりした空気の中をひたすら進んでいくと、しばらくして、道端に蹲っている男性らしき人の姿が見えた。
(……?何だろう。ちょっと怖いな……)
その人の横を通り過ぎなければ大きな通りには出られない。おそるおそる近づいてみると、体の大きな黒髪の男性だった。……俯いて、何だか苦しそうな様子だ。
「……?……っ!!だ……っ、大丈夫ですか……っ?!」
よく見ると、男性がその大きな手で押さえている脇腹から血が滲んでいる。目を凝らすと、着ている黒い服も血でぐっしょりと濡れているようだった。
大変……っ!街まで連れて行って早く手当てを受けさせなくては……!
私はその人の隣にしゃがみ込むと声をかける。
「動けますか?頑張って立ってください!もうすぐ辻馬車を拾えるところに出ますから……。私がお医者様のところまでお連れしますわ。さぁ、私に掴まって」
その男性はようやく顔を上げると、苦しげな表情でゆっくりと私の方を見た。とても整った顔立ちをした若い男性だった。けれど、見惚れている暇などない。私は男性の片腕を自分の肩にかけるようにして彼を立たせ、無我夢中で歩いた。
引き返して屋敷に戻った方が早いかしら……などと頭をよぎったけれど、激昂したセレスティーヌや母から追い出される可能性の方が高いと判断し、私はそのまま辻馬車を目指した。
その後怪我を負った男性をどうにか馬車に乗せ、病院まで連れて行き、手当てを受けさせることができた。
「……本当に助かった。ありがとう。礼を言うよ」
病室のベッドに寝かされた男性は、隣に座っている私を見ながら掠れた声で弱々しくそう言った。
「大事に至らなくてよかったわ。……誰かに刺されたの……?」
「ああ……。ちょっとしたトラブルだ。夜中にあの辺を通りがかったら、商人の爺さんが強盗らしき連中に襲われていた。爺さんのことは助けられたけど、自分が怪我をしてしまったってわけさ」
「まぁ……。あの辺りは夜中は物騒だわ……。人助けできたのはよかったかもしれませんが、今後はどうかお気を付けて」
「あなたこそ。あんな寂しい道を人気のない時間に一人で歩くなんて、危険だよ。気を付けないと、よからぬ連中に出会ったら最悪なことになる」
男性の方が逆に私のことを心配してくれているようだった。こんな大怪我を負っているのに。なんだか可笑しくて、私はクスリと笑った。
どうせもう彼女たちの出発までにドレスも私も間に合わないと分かっていたから、諦めてしばらく彼のそばにいた。私たちはいろいろな話をした。彼の名はロベール。私と同い年で、今は騎士になるために訓練を重ねる日々だそうだ。
彼に尋ねられるがまま、私も自分のことを少しずつ話した。あの場所からさほど遠くないバランド侯爵家の娘だということ。美しい妹がいて、彼女が両親からとても大切にされていること。そして逆に、私は疎まれ寂しい生活を送っていること。
「……。……もう、そろそろ帰らなきゃ」
言葉を交わすほどに立ち去りがたく、だけどここにずっといるわけにもいかない。未練を残しつつも私が立ち上がろうとすると、ロベールは私の手をそっと握ってきた。
「……っ、」
「ニナ」
彼の唇が、私の名を紡ぐ。なぜだか胸が熱くなり、私はその漆黒の瞳を見つめた。
「……俺はこれから訓練を重ねて、立派な騎士になるよ。準備ができたら、……君を迎えに行ってもいいかな」
「……ロベール……」
「その時は、俺の元に来てくれるかい?」
彼の瞳は真剣そのものだった。込み上げる想いを必死に飲み込みながら、私は震える声で答えた。
「……ええ。……待っているわ。ずっと」
出会ったばかりの二人。だけど私たちは、もうすでに恋に落ちていた。
それは私にとって、初めての恋だった。
◇ ◇ ◇
実は私がその時助けた黒髪の美しい男性は、この国の王太子様だった…………なんて、そんなオチはない。私の人生にそんな劇的なことは起こらない。
あの日王宮の茶会から帰ってきた母とセレスティーヌには、何度も何度もぶたれた。だけど結局、半年後セレスティーヌは正式に、王太子の婚約者となった。
セレスティーヌの王太子妃教育が始まり、私はますます使用人としての存在価値しかなくなった。来る日も来る日も屋敷の中で働き続けながら、ロベールのことを想っていた。
本当に迎えに来てくれなくてもいい。私の悲しい人生に、たった一つの幸せな思い出をくれた。ただそれだけで嬉しかった。あの日のことを一生思い出しながら、生きていこうと思った。
バランド侯爵家の家計は逼迫するばかりなのに、両親は楽観的だった。ついに娘が期待通り王太子の婚約者となったのだ。もう一生安泰。二人が結婚すればうちの生活も楽になる。そう思っているようだった。
私には縁談など来なかった。社交の場に出ていないので知らなかったけれど、どうやら私は上流階級の人々から不運を呼ぶ存在だと噂されているらしい。妹は全てを持って生まれてきて、その代わり私は醜い部分を寄せ集めたような女なのだと。私が全ての悪い部分を引き受けて生まれてきたから、セレスティーヌはあんなにも美しく強運で、未来の王太子妃にまでなれたのだと。だから姉の方に関わるのは縁起が悪い。嫁にもらえば醜いものや不運を一緒に呼び込んでしまう。そんな噂が立っていると、母が憤慨しながら父に話しているのを聞いてしまった。
「嫁ぎ先もないなんて。本当に困った娘だわ!縁談に持ち込めないかと思って話を出すと、皆必死で話題を逸らすのよ。恥ずかしい娘だわ」
「……まぁいいさ。現に今は使用人としての仕事を全て引き受けてやっているわけだしな。あの娘に関しては無給の労働者だと思って割り切るしかない」
父や母の本音が、どうしようもなく悲しかった。
(……でも、私はずっと孤独だったわけじゃない。想いが通じ合った人がいた。たった一度だけでも)
胸が千切れそうなほど辛い時は、ロベールとのあのひとときの思い出が私を救ってくれていた。
そんな惨めで悲しい私の人生に、劇的な出来事が起こった。それはセレスティーヌが王太子殿下と結婚してからわずか一年後のことだった。
百年近くも平和を維持してきたこの王国は、突如隣の大国から攻め込まれた。王太子殿下の不貞がそもそもの原因だった。
結婚直後から、王太子とセレスティーヌの不仲は社交界では有名だったようだ。どうやら王太子はセレスティーヌの美貌にばかり目がくらみ、深く考えずに彼女を妃に決めてしまったらしい。けれどここへ来て、ついにこれまでセレスティーヌが勉強をサボり続けてきたツケが回ってきたのだ。
何もできないセレスティーヌに失望した王太子だが、その彼自身がまた不出来であったらしい。妻に飽き嫌気が差していた王太子は、短絡的に次々と不貞行為を繰り返した。そして、国外から多くの来賓を招いたある晩餐会の夜、大国のまだ14歳の王女をだまくらかして手籠めにしてしまったそうだ。事実を知った大国の国王夫妻は激怒。そこから揉めに揉めて、ついには戦争にまで発展してしまった。
国内の治安は一気に悪くなり、誰もが王家に対して激しい不満を抱いていた。戦争のために経済状況はどんどん悪化し、皆が余裕を失くしていた。当然王家も追い詰められており、父や母がアテにしていた我が家への援助らしきものは一切ない。バランド侯爵家も、ついには日々の食事にも困るほどに困窮しはじめたのだった。
そんなある日のことだった。私は一人、玄関ポーチの辺りを箒で掃いていた。
その時。
「ニナ」
(──────……え……?)
決して忘れるはずのない、恋しい人の声が聞こえた。それも、はっきりと。
一瞬固まった私がゆっくりと顔を上げると、そこには、ロベールが立っていた。私を見つめて、微笑んでいる。
「……ロ……、ロベール……?」
「ああ、そうだよ、ニナ。遅くなってごめん。……迎えに来た」
「…………ロベール……ッ!!」
頭が真っ白になり、そしてその直後、大きな喜びが一気に胸に押し寄せてきた。その喜びに押し出されるように、私は箒を捨て、駆け出した。両手を広げたロベールが、胸に飛び込んだ私をしっかりと強く抱きしめる。涙が止めどなく溢れ、言葉にならない。
「ロ……ロベール……!ロベール……会いたかった……!」
「……ああ。俺もだよ。君を忘れたことは一日たりともなかった」
互いの体温を確かめ合うように、私たちはしばらくそのまま動かなかった。信じられない。これは現実なの?私……、生きてもう一度ロベールに会うことができたの……?
ロベールがゆっくりと私の頬を撫で、顎を持ち上げるようにして上を向かせる。漆黒の瞳が優しく私を見つめていた。
「ここでは相変わらず辛い毎日を送っていたようだな。もう心配ない。……さぁ、行こう」
「……行くって……、どこへ……?」
「ここよりも安全なところだよ。戦争のない、平和な国さ。今のところね」
そう言って私の髪を撫で、ロベールが片目を瞑った。……何?どういうこと……?
「ど、どこへ行くの?平和な国、って……?」
「ごめん。言ってなかったけど、俺はこの国の人間じゃないんだ。もちろん、戦争中の大国でもない。もっと南の小国出身なんだよ」
その国の名を聞いて驚いた。自然豊かな美しい国。世界で最も国民が幸せに暮らしているのではないかと言われている、生活水準の高い素敵な国の名だったのだ。
「あれから、俺は父とともに武勲を立て、父は国で辺境伯の地位を賜ったんだ。俺は今辺境伯私設騎士団の副団長を務めている。……君を妻として迎えるのに、充分な功績を上げてきた、と思っているよ」
少し照れくさそうにそう話すロベールの笑顔が、愛おしくてたまらない。夢を見ているような心地になりながら、私はロベールの腕の中で呟くように言った。
「……本当に……?私を、連れて行ってくれるの……?」
「もちろん。ニナと出会ったあの日から、ニナのことだけを考えてここまでやって来たんだ。……行こう、俺と一緒に」
「っ!ま、待って、ロベール」
このまま手を引いて屋敷の門の方へ向かおうとするロベールに、私は慌てて言った。
「わ、私、何も持っていないわ」
「何か大切なものがある?あるのなら、屋敷に取りに戻るかい?それなら待つよ」
「…………。ない、けど……」
私には大切なものなんて、一つもない。子どもの頃から私の気に入っていたものは全て、妹に取られる人生だった。両親から私に何か特別なものを買い与えられた記憶もない。
そうか。私には、何もないんだっけ。
「……うん。ない。ないわ、ロベール」
「じゃあ、このままもう行こう。大丈夫。国に戻ったら必要なものは俺が全部買ってあげるから。……実はもう、屋敷に君のための部屋も用意してあるんだ」
そう言うとロベールは私の肩を優しくそっと抱いた。
「さぁ」
「……ええ」
私は抵抗することなく、そのままロベールとともに歩きはじめた。
その時だった。
「ニナ!!待ちなさい!!」
突如聞こえた金切り声に驚いて振り向くと、玄関先に母が鬼の形相で立っていた。はぁはぁと肩で荒い息をしている。その後ろから父も出てきた。
「ど……っ、どこに行くつもりなの?!え?!掃除も放りだして……。その男は一体誰なの?!」
どうしよう。困った私が思わずロベールの顔を見上げると、彼は安心させるように優しく微笑み、私を背中に隠すようにして両親から庇ってくれる。
「あなた方が使用人同然に扱っているらしいこちらの女性は、俺にとっての大切な人だ。このまま俺の国に連れて帰る」
「まっ!……お、お待ちください」
父が前に出て、慌てて口を挟む。
「ど、どこぞのどなたか存じませんが、身なりから推察するに、おそらくは高貴なご身分の方でいらっしゃいますな」
「まぁ、そうなるかな。だがこの国の者ではない。ニナは俺の国に連れて帰るつもりだ。大切にしていなかった方の娘だ。問題ないだろう」
「い、いや!!大問題ですよ!!ニナは私共が大切に大切に育て上げてきた娘にございます。どうしてもお連れになりたいと仰るのなら……相応の金額をいただかねば……!」
「そっ!そうですわ!!ただでお渡しするわけにはまいりませんわ!!それなりの金額をお支払いいただかなくては!」
(……。要するにお金が欲しいだけなのね。娘を他国へ連れて行かないでって、縋ってくれるわけじゃないんだ。……分かっていたけれど)
悲しくなったのは、この期に及んで両親の私への愛情のなさを再確認したからではない。昔は堂々たる振る舞いで尊大な態度を崩さなかった二人が、今やお金欲しさに必死で、あまりにも惨めで情けなく見えたからだ。
だけど……
(……このまま見捨てて行くの……?慣れない貧しさの中で喘いでいる、仮にも実の両親を、見殺しにして……?)
様々な思いが一度に押し寄せ、困り果てた私はロベールを見上げる。
すると私の方を振り返っていたロベールがハッとしたように目を開き、それからクスリと笑った。
「……参ったな。俺は君を苦しめ続けてきた奴らに情けなんてかけるつもりは一切なかったんだ。……だけど、ようやく会えた君からそんな目で見つめられると……」
そう言って私の頬を少し撫でると、ロベールは両親の方に向き直り、懐から取り出した何かを投げた。
地面にカラカラと転がったものは、数枚の銀貨だった。
「ほら。拾え」
「は…………はぁぁぁっ!」
父と母は飢えた獣のように一斉に飛びかかり、這いつくばって銀貨を拾い集めはじめた。服の裾を汚しながら背中を丸めてせっせと銀貨を拾う二人を見ているうちに、私の中の憐憫の情がすうっと消えていくような気がした。
「もういいだろう。さぁ、今度こそ行こう、ニナ」
「……ええ、ロベール」
そうして私は生まれ育ったバランド侯爵家を後にしたのだった。
◇ ◇ ◇
やがて母国は大国に降伏し、その支配下に置かれることとなった。ロベールが人を使って調べてくれた情報によると、王太子をはじめとする王家の数人が処刑された後、王太子妃セレスティーヌは捕らえられ、その美貌ゆえに大国の騎士団専用の娼婦となり働かされているという。
私の実家であるバランド侯爵邸は取り壊され、跡形もなくなっていたそうだ。どうやら父と母は大国の追手から逃げ延び、身寄りのない人々が集まって暮らす貧民街の施設にいるらしい。きっとあの人たちにとっては耐え難いほどの質素な暮らしを強いられていることだろう。正気を保っているだろうか。
ロベールの故郷の地に降り立った私は、彼の妻となり、その後お父上から爵位を継いだ彼のサポートをしながら幸せに暮らしている。培ってきた知識を駆使して広大な辺境伯領を切り盛りしながら領民たちの生活を見てまわり、花や野菜を育て、使用人の皆と一緒になって屋敷の手入れもしている。もうすぐここに、“子育て”という新しい仕事が加わりそうだ。
「奥様!お願いですからどうぞもうご無理をなさらず!そんなに働かなくとも私たちがおりますでしょう。大きなお腹を抱えてあちこち飛び回られたんじゃこっちが心配でたまりませんよ」
「そうですよ!奥様に何かあったら私たちが旦那様に怒られるんですからねー!」
優しい侍女や使用人たちがいつも心配してくれるけど、大丈夫だってば。私だってちゃんと分かってる。この子の命を危険にさらすような無茶な真似はしないわ。
でもね、じっとなんてしていられないの。
だって私、生まれて初めて、今こんなにも人生が楽しくてたまらないんですもの!
ーーーーー end ーーーーー
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