沢木ほのか
フッカは結局今週一週間学校を休んだ。
顔の掻き傷が気になってのことらしいんだけど、オレはフッカの体調の方が気になっていた。皮膚科には行ってるらしいが、これほど休むとどこか内臓でも悪いんじゃないかと思いたくなる。連絡帳を届けにいくと、必ずフッカは床に座り込んでぼうっと壁を見つめていた。ベッドで寝ている気配もない。
金曜日の放課後、フッカの家を訪ねると玄関の外までママさんが出てきた。いつもならドアを開けて中に招き入れてくれる。連絡帳と手紙を差し出すとオレに顔を寄せて声をひそめた。
「ごめんね、パパが帰ってきてるから」
どうやらフッカの容態を案じたパパさんが休みを取って帰ってきているらしい。多分、オレが毎日連絡帳を届けに来ていたことすら気に入らないのだろう。愛娘に擦り寄る悪い虫と思われているようだ。カウンセラーが『危ない関係』を感じたのと似たような感覚なのかもしれない。確かに、一年ぐらい前からフッカに対する思いに占める欲望の割合は急激に高くなっていた。見たい、触りたい。頭に入ってくる大人の知識の色々を試したい。
そんな妄想の中で初めてフッカを汚してしまった日、驚きと自分のしでかした罪の大きさに涙を流したこともあった。けれどもそれも直ぐに慣れっこになって、そんな妄想での逢瀬が楽しみにさえなってしまっていた。
オレはフッカを大切な人だと思っていたのだろうか。
フッカの気持ちを考えたことがあっただろうか。
万年床に転がって、窓の下の壁を見つめる。
することがない。
貴重な休日の内の7時間をあの壁を見つめることに費やしている。あの向こうにいまもフッカの背中があるのだろうか。
明日は月曜日だ。
フッカは学校に出てくるんだろうか。パパさんが向こうに帰ったら見舞いに行ってみようか……。
そうだ、カードを。何か伝えられる言葉があるんじゃないのか。確か青い画用紙がまだあったはずだ。
寝床から上体を引き剥がして掛布団をはねのけた。途端に部屋の冷気が襲い掛かってくる。布団の中で転がっている毎日なので一切の暖房は切ったままだった。この部屋でパジャマ一枚は生死に関わる。パジャマの下に何も着けないのは何ものにも束縛されない自由を満喫できるのだが、十分な暖房設備か発熱素材のブランケットがなければ厳寒期の北関東ではお勧めできない。
昨夜脱ぎ捨てた下着の在処を確認して、急いでパジャマを脱いだ。
「啓示……」母さんの声と部屋の襖戸が開くのはほぼ同時だった。
「えっ?」いきなりで、母さんと向かい合う格好になった。
別に母親なのでどうということはないんだけど、ノックするとか先に声を掛けるとかの対応を今後は検討して欲しい。そういえば母さんに生まれたままの姿を披露したのはもう三、四年ぶりか。
「何やってるの?」
「着替え」足元のパンツを拾い上げて振ってみせる。微妙に他の部分も揺れた。
母さん呆れた顔をしているが、折角なので息子の成長を見届けてくれ。目立った外観上の変化は認められないかもしれないけど、あの頃よりは多少なりとも立派になったと思う。
「お客さんだけど」
「お客さん?」いままでオレを訪ねて家に来た人間といえばフッカだけだ。それにもしクラスのヤツらとかなら『お友達』と呼ぶだろう。
(お客さんって誰だ?)突っ立ったまま腕組みで頭を巡らせる。
「いなり連れてこなくてよかったわ……」溜息で圧力をかけてきた。
母さんが告げた来客の名前に、慌ててパンツに足を突っ込んだ。
「こんにちは」
玄関の隅の方でまるで場違いのところに来てしまったかのように小さくなっている沢木ほのかに声を掛けた。
「こんにちは……」少し心細げに挨拶を返す声は澄んだフルートの調べのようだ。
夕刊を取りに玄関を出た母さんが家の前に立っていた彼女を新聞と一緒に取り込んだらしい。
確かに沢木さんなら『お友達』ではない。『お客様』なのだろう。
玄関は暖房が効いてなくて土間からの冷気が上がってくるのにきちんとコートを脱いで前に抱えている。
「とりあえず上がって」この子が家に来たのはおそらく玄関先で話ができるような要件ではない。
「部屋に上がってもらっていい?」彼女が靴を脱ぐ間に母さんに確認する。
「あの、きったない部屋に!?」母さんの眉がピクリと動く。
〝きたない〟に強調を表す促音まで付けているのは、部屋が片づけられていないことへの警告ではない。目の届きにくい二階の自室で女子と二人っきりになることへの不快感だ。
母さんはオレのあらゆることを知っているようで怖くなるときがある。
いままでだってあの部屋にさんざんフッカを連れ込んでも何にも言わなかったくせに。
さっきの露出は母さんにはちょっと刺激が強すぎたのかも知れない。かといって、一階はばあちゃんが寝ているし、リビング・ダイニングの続間は母さんの支配下にあって内密の話など到底できない。離れの客間は内鍵が掛けられる秘め事には最適な空間で、そんな腹ぺこオオカミの前に子兎を差し出すような行為は以ての外だろう。それに、オレも沢木さんには密かに聞きたいことがあるんだ。
「大丈夫だよね?」
「あ、はい、大丈夫です」
オレの問いかけに、沢木さんの素直な返事がいい。
大丈夫というのは、つまり部屋が散らかってても気にしないという意味だ。まさかこんな純朴で可憐な小学四年生に、男女同室のリスクについて説くこともできないだろう。
「じゃあ、あとで飲み物持っていくから……」
また母さんに溜息をつかせてしまった。
義母の介護と看病。
夫の不倫疑惑。
息子の不純異性交遊――いや、これは違うか。
誇りをもって勤めていた職場も介護休暇三月目だ。
凜として美しかった母さんが、まるで呪いの魔法を掛けられたみたいにひと月にひとつずつ歳を取っていくような様子にふと哀しくなるときがある。オレたち家族は寄って集って母さんをいじめてるようなもんだ。
でも、いまは我儘を許してくれ。オレも人生を賭けてるんだ。心の中で母さんに合掌する。
沢木さんを部屋まで案内して、とりあえず敷きっぱなしだった布団は畳んで部屋の押し入れに突っ込んだ。
押し入れの下の段のガラクタはあまりお年頃のお嬢さんには見せたくなかったが致し方ない。
「まあ、どうぞ」
入り口に立って、万年床の処理を見守っていた沢木さんに窓際の日当たりのいい場所を手で示してお勧めした。
ちょこんと頭を下げて、部屋の中に入り、襖を静かに閉める。さっきも玄関で脱いだ靴を揃えてたし、母さんへの挨拶も完璧にできていた。まさにお嬢さまって感じだ。
ただ、フッカのガサツな動きを見慣れているせいか、この優雅さに間が持たない。その間、オレの右手は畳の一点を指し示したままだ。座布団でもあれば目標地点が分かりやすいのだろうけど、そんな気の利いたものはない。
ゆったりとした動作でオレのお勧めスポットまで時間掛けて漸くたどり着いてくれた。
沢木さんに座るように言って、オレは入り口に戻った。襖戸を開けながら振り返る。若い男女が過ごす部屋は閉め切っていてはいけない。
窓際に立つ沢木さんはレースのカーテン越しの柔らかな光の中でテレビに出てくるアイドルのようにも見えるが、緊張なのかやや表情は固い。
「ごめんね、きったない部屋で」さっきの母さんの口調をまねてみせる。
「ううん、わたしもお母ちゃんにお片付けしろって怒られてばっかり」ちょっと表情が和らいだ感じがする。
あの『沢木ほのか』の部屋がこのレベルの汚部屋であろうはずがないが、母親をお母ちゃんと呼んでいるのは意外だった。これは逆に好感度が上がる。
もう一度、座るように促して、彼女のお尻が畳に着いたことを見届けて、オレも近くに胡坐をかいた。一応、手を伸ばしても届かない距離で、真正面を避けて斜め60度ぐらいの位置に。
膝を崩した女の子座りの脚をフレアのスカートで覆うようにして清楚な雰囲気に溢れている。胸に抱いたファー付きの赤いダウンコートは学校でよく見かけるものだ。
「あ、暖房つけてなかったね」コートで両手を暖めているような格好でようやく気付いた。
手を伸ばして布団があったときの枕元の位置に転がったままになっているエアコンのリモコンスイッチを掴んだ。部屋にはフッカ用のオイルヒーターも置いてあるが、純日本家屋で襖を開けていては部屋をすぐには暖められない。
エアコンの吹き出し口がゆっくりと開いて微かなうなり声を上げて風が吹き出してくるのを、二人して見上げた。
間違いなく動くのについ見てしまうのは子供の性というより次の話題を思い付くまでの繋ぎだ。暖房は〝おまかせ運転〟にして後はエアコンに任せた。室温コントロールに関してはコイツの方がオレなんかより格段に頭がいい。
暖かい風が出てくるまでの数秒を寒風にさらされて二の腕をさすった。シャツ一枚じゃ、やっぱり寒い。
「外、寒かった?」
「そうでもない。朝はちょっと寒かったけど」首を振る仕草も愛らしいが、天然なのかオレに対しても何となくタメ口だ。たしか、学校でフッカへの手紙を持ってきたときは「これ、文香に渡して下さいませんか?」だったと思う。いままで沢木さんとはフッカが一緒の時にしか話をしたことがなかったから、意識したこともなかった。が、さほど嫌ではない。いや、むしろ人懐っこさを感じて可愛さが倍増する。というか、この子が何をやっても好感度が上がる。
「さっきまで布団の中にいたから外の天気がわかんなくてね」ひとまず、部屋の空気が温まるまで世間話で繋ごう。母さんが飲み物を持って現れそうな雰囲気だったし。
「ほんと、寒い時ってお布団、友達だよねー」もう二学年下だということを感じさせてくれない話し方だが、好感好感。
「沢木さんはベッドなの?」女の子にいきなり寝具の話はデリカシーがなかったかも知れないが、好感度とノリで聞いてしまったものは仕方がない。
「わたしもお布団。文香みたいなベッドがうらやましい」
彼女の愛読書は『月刊少女ちゃかぽこ』だとフッカから聞いている。少女マンガの主人公は概ねベッド生活者だろう。
「やっぱ、ベッドって憧れる?」
「だって、ベッドなら敷きっぱなしでも叱られないでしょ?」
なるほど、そういう憧れ方もあるんだ。少し温まってきたのか、抱えていたコートと小さなリュックを脇に置いて、脚をポンと投げ出し後ろに手をついて不満げに頬を膨らませた。きっと、今朝お母ちゃんに叱られたばかりなんだろう。お母ちゃんが部屋に来て言う小言の数々を手振りを交えて並べたてた。案外、沢木さんの部屋もここに負けないぐらいのレベルなのかも知れない。
タメ口なのは同類としての親しみを感じているからなのだろうか。が、少し、リラックスし過ぎだ。
「母ちゃん怖いもんな」
オレの同意にクスッと笑う。それで、両手で腿を下から抱えるようにして膝を曲げて三角座りをすると、膝に顎を乗っけて大きく息を吐いた。
さすが、女の子は身体が柔らかいもんだ。
「文香、どうしちゃったのかなぁ……」
その件は、後々ゆっくり話そうと思ってたのに、いきなり話題が飛びすぎる。そのへんはさすが子供……、んっ!?
「ん、ん……、うん、そうだなぁ……」あ、いや、沢木さん、スカートが拡がっている。女の子なら脚はスカートごと抱えた方がいいと思う。
真っ白で美しいギリシャ文字のωのラインが目に飛び込んできた。これはまずいと思って、そちらに顔を向けないようにチラチラと視線だけを送った。
中がタイツだといいのか? いや、タイツはダメだろ。スパッツならボトムスの一種で見えてもいいみたいだけど、でもこれはつま先まであるタイツで靴下の一種だし。それとも厚手で透けてるわけではないし、下着が見えなきゃいいってことなのか? けど身体のラインそのものだし、スカートの中ってだけで水着よりドキッとするし、見えてることに気付いてないだけかも知れない。
でも教えてあげるというのもどうなのか。
言ったら鑑賞していたことがバレてしまうし、エッチな男と思われた挙げ句、せっかくの光景まで隠されてしまったらダブルショックだ。
いや、なにを考えてるんだ。
もう、気になって気になってフッカの話題にも集中できない。しかし、目の前で広がってるスカートの中身を見ないなどという選択肢は男としてありえないし。
ああ、沢木さんが首を傾げてこちらを見てる。きっと『うん、そうだなぁ……』の先を求めているのだろう。
気になりすぎて、もう一度、視線をスカートの中にやると、彼女はササッと脚を女の子座りに戻してスカートを直した。
やばい、結構ガン見してたのがバレたか?
「啓示」
襖戸をノックする音と母さんの声に部屋の入り口に顔を向けた。母さんが入り口から顔を出している。
「入るわね」
開きっぱなしの戸でもきちんとノックするあたりは良識ある大人だけど、それならオレが着替えてるときにもノックするべきだろう。入ってきた母さんはグラスの乗ったトレイを持っている。
一瞬で、部屋の空気を読み取るように視線を巡らして、近くに寄ってきた。表情は穏やかだが、全身のセンサーを最高感度に設定してオレと沢木ほのかの関係を探っていることはあきらかだ。
やはり部屋の入り口の戸を開放しておいたのは正解だったようだ。それだけで、幾分なりと好意的な見方をしてもらえる。
さっき沢木さんがきちんと座り直したのは母さんが接近して来るのを察知したからか。なんていう野生のカンなんだ。普段から他人の接近に神経を張り巡らせているに違いない。
母さんはオレの横に膝をついて踵の上にお尻をのっけて座った。表情が穏やかなのでまずはほっとする。
「はい、とっておきのりんごジュース」
見るからに濃厚なジュースの入ったカットグラスを洒落たコルクのコースターに乗せて沢木さんとオレの前に置いた。こんな食器が家にあったんだ。
「ストローは環境保護のためになし、ね」母さんは、そういうところはきっちりしてる。
「あ、プラスチックのゴミが海を汚してるって……」
沢木さんの答えに満足げに母さんがニッコリと頷く。彼女もなかなか成績優秀そうだ。
そういえば、フッカは、
「ストローとかレジ袋とか身近なプラスチックに目を向けるのはいいことだと思うけど、なんか問題がそれだけになっちゃって、大事なことが抜けちゃってるんじゃないかなぁ」って、ストローがないことにブツブツ言ってたな。
「きょうはどうしたの?」母さんがケーキの乗った皿をオレたちの前に並べる。見るからに濃厚そうなファッジブラウニーだ。
「文香ちゃんのお見舞いに伺ったんですけど会えなかったんで、お兄ちゃんさんにお手紙を預かっていただこうと思って」言いながら脇に置いていたリュックを開け、空色の封筒を取り出して見せた。
(お、お兄ちゃんさん!?)確かにフッカはオレのことをずっとお兄ちゃんと呼んでいるが、それにわざわざさん付けするか? 高森さんで良くないか?
母さんもちょっと驚いたように「そう」と大きく頷く。
「文香ちゃん、心配よね……」オレならともかく、まさか沢木ほのかまで追い返されてるとは思ってなかったのだろう。
「明日は学校来れるかなあ」
「たぶん、明日は学校行くんじゃないかな? 大丈夫だと思うけど」なにしろ、良いも悪いも、あのパパさんがいるんだもんな。
「文香ちゃん、お父さんが帰ってきてるんだっけ?」
「うん、金曜日の昼過ぎに帰ってきたらしいよ。連絡帳持ってったらママさんがゴメンネって言ってた」
母さんも隣のパパさんは結構苦手だ。向こうはうちを〝悪い虫の巣〟ぐらいに思ってるのかも知れないけど。まさか害虫を駆除しろと言われてるわけじゃあないだろう。
〝一寸の虫にも五分の魂〟はあるんだ。いや、オレは虫じゃない。
「いない方が平和なのにな」向こうのママさんの苦労が忍ばれて、つい本音が口に出た。
「そんなこと言うもんじゃないわよ」母さんが窘めてくるけど、やや同意掛かっているので口調が柔らかだ。
「お手紙、後で持ってってあげたら?」
「うん、夜なら大丈夫かと思うけど、たぶん……」パパさんはいつも日曜の夕方には向こうに帰って行ってる。
問題はその手紙をフッカがどうするか、ということだ。いままでの手紙もまともに読んでる気配がない。
「いつもお母さんが車で送ってってるから、出掛けたか見といてあげるわ」それは感謝するけど、母さんはいつまでこの部屋にいるつもりだ? まさか、このまま居座って若い男女の内緒話に立ち会おうというのだろうか。
沢木さんはオレと母さんのやりとりを微笑みで耳を傾けてはいるが、チラチラとこちらに送ってくる視線には面倒くさげな色も感じられる。もしこれで彼女がフッカへの手紙をオレに差し出せば、ジュースもケーキも手を付けないままお開きとなりかねない。
けど、沢木さんはほんわかとした雰囲気を醸し出しながらも、意外と強固なハートを持っているようだ。そう簡単に渡すまいと、手紙をリュックに戻している。
やっぱりフッカの話はもう少し後だ。
「このジュース、じいちゃんとこの?」ちょっとわざとらしいけど、話題を変えるのにグラスに手を伸ばした。じいちゃんと言うのはウチのどうしようもない不倫野郎の父親ではなく良識ある母君様の方のだ。
「そう、お正月行けなかったからね」
ばあちゃんの看護で新年のあいさつにすら行けなかったじいちゃんのところから年賀の届け物で来たやつだ。
「お兄ちゃんさんのおじいちゃんってジュース屋さんですか?」沢木さんもグラスを手に取った。
「いや、渋川の方にリンゴの畑を持っててこういうジュースとかも作ってるんだ」
「あ、美味しい」一口飲んで、ほわっと息を吐く。グラスを持ったまま、空いた手でブラウニーにも手を伸ばした。厚めに切ったそいつを豪快にかぶりつく。皿にあったフォークはひとまず出番無しのようだ。
「んー……」口に入れすぎて言葉にならないが目と頬っぺたが満足げだ。ゆっくりと口内のケーキを処理して、ジュースを一口含んだ。
空いた唇からなにがしかのグルメレポートが飛び出すかと思ったけど、大きくもう一口。
「んんっ……」こぼれそうになる口元を手の甲で押さえたが、食べこぼしがスカートの上に散らばる。手近にあったボックスティッシュを彼女の膝前に滑らせてやった。
母さんが吹き出しそうになるのを堪えて肩を震わせている。
「ゆっくりおあがりなさい」
沢木さんは口いっぱいのケーキで言葉が出せず大きく頷くだけだ。
フッカの話題から離れたからだろうか、母さんが漸くお尻を上げた。
「じゃあ、お母さん下にいるから」やや〝いる〟にアクセントを置いてオレに存在感をアピールするように部屋を出て行く。廊下でこちらを振り返ってもう一度オレたちを観察してから襖戸を閉めた。とんとんと控えめな足音が三つほどして一旦止まって、二、三秒してからまた足音が階段を下り始めた。多分、いつもの癖で戸を閉めてしまったことに気付いて立ち止まったに違いない。
もう一度開けに戻るのもおかしいと思ったんだろう。
やっぱり、部屋の戸は閉まってる方が落ち着く。別に何をするという訳でもないんだけど、男と女だ、何があるか分からないじゃないか。
母さんが戸の開閉で逡巡しているうちに沢木さんは三口目でブラウニーを片付けて人差し指を舐めていた。
オレもジュースを一口飲んでコースターに戻した。
さあ、いよいよ本題だ……。
「あれ、文香の写真……」沢木さんの視線の先を追うと壁に掛けたフォトフレームに止まっていた。勉強机代わりにしている壁際の座卓の前にフッカの写真が飾ってある。
「ああ、去年プール行ったときの写真だって、確か沢木さんと行ったんでしょ?」確かも何も、沢木さんのナイスな水着姿も拝ませてもらってる。そういう写真を何枚か見せてもらったうちの一枚をもらったんだ。パソコンに取り込んでからバストアップをトリミングしてA4に写真プリントしたものだ。胸の谷間はないけれど、自然な笑顔が実にいい。が、ここまで手の込んだことをやっているのを目の当たりにして沢木さん的にはどうなのだろう。危ないヤツとか思わないだろうか?
「いいなあ、飾ってもらえて……」
「そう?」そう思うんだ?
「だって、いっぱい撮っても『きれいに撮れたね』ぐらいで終わりなんだもん」
父ちゃん母ちゃんに見てもらったのか。まあ、デジタル写真はたいていメモリの肥やしになってしまうもんだ。
「このときもいっぱい撮ったんだよ」リュックからスマホを取り出してこちらににじり寄ってきた。肩が触れ合いそう。もう、手を伸ばさなくてもなんだってできる距離だ。
しかも、匂いが甘いオレンジだ。
どうすりゃこんなに美味しそうな人間になるんだ。
画面を指先で撫でて何かアプリを操作しているがスマホ未経験者のオレには基本、わからない。
が、表示されたのがオレがもらった写真の元データだというのはわかる。
「これでしょ。これとか、こんなのとか……」
スマホにプールで写したスナップが次々に表示される。その中に気になるショットが目に留まった。
「あ、ちょっと見せて!」
沢木さんのスマホに手を添えると、意外にもすんなりと渡してくれた。画面をフリックして画像を三枚ほど戻すとフッカのアップが現れた。
まさに破顔だ。
普段仏頂面の多いフッカは笑った写真だけでも貴重なのに、やっぱり気の置けない女子友同士だとこんな表情も見せるのか。
「この写真もあげよっか?」
沢木さんの願ってもない言葉に首がもげそうなほど頷いた。
その先は家族旅行の写真になっていたので、プールの写真に戻って一通り見直す。隣で撮影当時の様子を事細かく解説をしてくれるのでそのときの情景が浮かんでくる。何枚かを追加発注した。更に遡ると背景が変わって部屋の中になった。
フッカと沢木さんの自撮りツーショット。
「あー、それ私の部屋。散らかってるぅー」見ちゃダメと画面を手で隠そうとするが、さほど嫌がってはいない。
「そんなことないって」彼女の手からスマホをずらして先に進んだ。確かに女の子でこの部屋の有様なら母ちゃんが怒るのも無理はないだろうが……。
「あ、えっ!?」
「あー、だめぇ!!」
激しい揉み合いになって、最終的にスマホは沢木さんに奪い返されてしまったが、一通りは目に焼き付けた。こういうときの男の動体視力はどうして格段にアップするんだろう。
あの沢木さんの愛らしい口元から「てめぇぶっ殺すぞ!」という威勢のいい言葉が飛び出してくるとは思いもしなかったけど。
沢木さんはオレの分のブラウニーとジュースで平常心を取り戻した。
「あのさ、その場の盛り上がりってあるだろうけど、その……、見えてるのは消した方がいいと思うよ」多少は言葉を選んだつもりだ。ブラウニーをかじりながら頬を赤らめる。
その日、フッカと沢木さんは水着の試着会をやったんだ。着替えがチラッと写ってるなんてもんじゃない、オレのお年玉全部渡してでも欲しいような画像が、いや、いや。
「スマホなんて他人に見られるかもしれないし、落として誰かに拾われたら大変だよ」これではまさに爆弾を抱えて街中を歩いてるようなもんだ。
「うん……」
「とりあえずパスワードぐらい設定したら?」
「うん……」握ったスマホを出来の悪いテストを隠すように裏返して膝の上で押えた。うつむき加減に小さく鼻を啜る。
泣く!?
いや、この子は怒られ慣れてるのだ。ここで何か慰める言葉をかけたら一気に泣き出してこの話題を終わらせてしまう。こちらは別に怒っているわけではない。むしろ喜んで……、違う!
淡々と、だ。
「だってさ、好きな子の裸の写真なんか他のヤツに見られたくないじゃん」まあ、オレも沢木さんのを見てしまったわけだが。
「お兄ちゃんさん、文香と付き合ってるの?」顔を上げてキッとこちらを見る沢木さんに泣いてた様子も今後泣きそうな素振りも全く見られなかった。
「いや、そのつもりだったんだけど、なんか違ったみたいな……」よく分からないんだ。オレが泣きたくなる。
「そういう話はフッカとしてんだろ」オレとの関係性はフッカからたっぷりと聞かされてると思うのだが。
「だって、なんかお兄ちゃんお兄ちゃんってホントの仲のいい兄妹みたいに普通に言ってたから」
「オレ、ずっと好きだって言ってたんだけどなあ」
「キスした?」
「え」
「だから、文香とキスしたことあるの?」
いや、聞き取れなかったわけじゃない、あんまりストレートな質問だったから驚いただけだ。
「ないない」できればあると言いたい。
その後も自白を強要する尋問が続いたが、彼女の満足のいく回答ではなかったようだ。ただ、いい雰囲気になったけどパパさんの邪魔が入って出来なかった一件の話はした。
「それは文香から聞いた。『クソ親父、もう二度と帰ってくんな!』ってブチ切れしてた」
なんだ、筒抜けじゃないか。
これならオレとフッカに何か進展があればこの子が知らない訳がない。試しにフッカとオレとのことを幾つか聞いてみたら全てを知っていた。女子友恐るべし。というか、フッカがそう思ってたってことは、やっぱりあの時は絶好のチャンスだったんじゃないか。
「そっか、やっぱり付き合ってないのか……」
そうなんだろうけど、面と向かって“やっぱり”などどと言われるとショックだ。
沢木さんはドラマに出てくる探偵が謎解きをするみたいに顎を右手の親指と人差し指で摘んだ。
「……あのね、わたし、久坂くんと付き合ってるの?」
いや、オレに聞かれても?
沢木さんが最初に久坂から声をかけられたのは二学期の終業式の日らしい。ふわふわパンケーキの誘いに釣られてクリスマスにキミトへ出掛けた。その後は、年賀状のやり取りがあって、年が明けて、先週と先々週の休みに二人で遊びに出かけた。それで昨日も二人だけで会ってたらしい。今年に入って、毎週末だ。
それだけ二人で遊びに行ってたらもう付き合ってるんじゃないのか?
「で、キスしたの?」まず、興味のあるところから聞いてしまおう。小学生の恋愛においてキスはアルファでありオメガであるんだ。
「してないよぉ」オレの質問に怒るでも恥ずかしがるでもなく、まるで汚いものに触れたように鼻の頭に皺を寄せて身震いした。
「そんなんじゃないの……」
沢木さんは暖まった部屋の中でまだ寒さに凍えるように二の腕を擦りながら、久坂との交際と、今日、家を訪ねてきた訳をとつとつと語り始めた。ただ、それは普通の小学生の男女交際としてはありふれた内容のように思えた。
久坂に誘われたパンケーキ屋さんは元々関西の有名店で関東ではキミトが一号店。
平日でも並ばないと入れないお店に予約席があってびっくりした。
なんだかセレブのお嬢様になったようなドキドキで気持ちがふわふわになって、お喋りも大人って感じで教室の中での男子達の、ガチャガチャしたのとは全然違った。
お店の会計も久坂がスマホでピッてやって、すごいカッコよくてスマートって思った。
でも、あとで冷静になったら小学生同士でおごってもらうのってやっぱり良くないので、年が明けてからお年玉で返したんだけど。なんか、ニコニコ顔なんだけどすごく怒ってる感じがして目がちょっと怖いぐらいで、嫌われたかもって思ったんだけど、来週も逢おうねって言ってくれたから、まあいいかって思った。
で、次に会ったときに友達の話題になって、フッカのことをいっぱい話したから、久坂はフッカのことを好きになってしまったのかもしれない。
「文香はわたしなんかよりずっと女の子らしいし、可愛いし、素直だし、ワガママいわないし、なんだってやってくれるし、困ってるとき一緒に悩んでくれるし、絶対男の子にモテそうだもん」
なので、久坂はフッカのことが好きでフッカも久坂のことが好きなんだけど、沢木ほのかが久坂のこといいなって言ったことがあるから、フッカは彼女に遠慮して悩んでる、ということらしい。
「だから久坂くんは文香にあげようかなっていうこと」沢木さんは筆箱に入った使い掛けの消しゴムでも譲る感じでサラッと口にした。
「それは、オレが困る」アイツとフッカがくっ付くのはどう考えても嫌だ。
「だって、文香のためなんだよ」
クラスの中でもフッカが久坂に色目を使っているという噂が出ているらしい。
色目なんて言葉、昭和のオヤジじゃあるまいし、いまの小学生が使うか?
「お兄ちゃんさんはさ、わたしが付き合ってあげるから。ねっ、ダブルデートできるよ」
昨日までの沢木ほのかなら心が動いたかもしれないが、このガサツなワガママ娘では見た目はともかく御遠慮願いたい。
「付き合うって……。オレとキスできる?」
「いやっ!」
あれは風呂場でアシダカグモに出会ったときの顔だ。
沢木ほのかの太腿はフッカよりもかなり細い。こんな華奢な身体のどこにこれほどのパワーとスピードが秘められているのか。両脚を抱えている手にタイツ越しにも汗ばんできているのが分かる。
上体を起こすたびにスカートが少しずつずりあがってもう穿いてないのも同然だが、あれは下着じゃない、タイツだタイツ。
目を凝らせば真っ白なタイツ越しにほんのり水色の布地が透けて分かる気もするが、それはきっと気のせいだ。
沢木さんが去年の体力テストで上体起こしの校内記録に迫ったという話になって、それ以来、家で筋トレが趣味になったらしくて、いま、その成果を見せてくれることになったんだった。
そうなったのは、オレが『アイツとフッカをくっつけるという話題』を嫌って、最近家に閉じこもってて運動不足だという話題をねじ込んだからなんだけど、思いのほかこの光景は〝いいね!〟だ。
スマホのカウントダウンアラームが鳴って、沢木さんが仰向けに倒れて両腕を広げた。荒い息で胸が波打っている。
抱えている両脚を離すとそのままオレの目の前で大の字になった。
体力テストで体操服ならそれほど思わないんだろうけど、こんな感じで女の子の脚の間にいると居心地が悪い。スカートを直してやろうかと一瞬思ったが、それに触れたらかえってエッチだ。
スマホのアラームを止めて、なるべく視線を沢木さんの上半身に送った。やり切った表情が実にいい感じだ。
「何やってるの!?」
声に振り返ると入り口に母さんが立っている。
慌てて起き上がった沢木さんに思い切り腰を蹴られた。
「こんにちは」正座してスカートを直しながら、ちょこんと頭を下げる。
いまさら『こんにちは』って、そこまで動揺してるとかえって誤解を招くだろう。
「すごいんだよ。沢木さん、体力テストで上体起こし45回なんだ。六年でも40回超える奴なんて滅多にいないんだよ、いまなんか47回、将来トップアスリート間違いなしだよ」かなり説明口調ではあるが仕方ない。いったいいつから見ていたんだろう。
あれでタイツ穿いてなかったら往復ビンタぐらいでは済まされないような光景だ。まあ、往復ビンタで済むなら見てみたいところだけど。
「で、啓示は何回できるの?」
「20回、ぐらい……」体力テストの記録が19回だったとはこの場で言いたくなかった。
母さんが鼻で息を吐いた。呆れたという感じなんだろう。さっきの件を水に流してくれるならいくらでも呆れてくれ。
「もう、五時になるけど、ほのかちゃん大丈夫なの?」
沢木さんがスマホの画面を確認する。
「あっ、もう帰らないと……」手を伸ばしてコートとリュックを手元に引き寄せた。
「送ってくよ」立ち上がって部屋の隅に丸まってるダウンを引っ張り上げて袖を通す。
「あ、お兄ちゃんさん、いいです。一人で帰れますから」沢木さんも急いで立ち上がる。
「だめだめ、あっという間に暗くなるぜ」
「ほんとに、大丈夫ですから」とオレのダウンコートの裾を引っ張り始めた。
「女の子が、なんかあったらヤバいだろ」近くに手袋を探すが見当たらない。そのうち彼女が「なんか付いてますよ」とダウンの背中を叩き始めた。放り投げてたせいで部屋の埃か塵が付いたみたいだが結構打撃が強めだ。
「ちょっと、布団叩きじゃないんだから!」避けようとしたら軽いフットワークで背中を追いかけてくる。攻撃をかわして彼女の背中に反撃を試みた。
「もう、だいぶ冷えてきたし、お母さん車で送ってあげるから」母さんが少し棘のあるイントネーションでオレたちのグダグダなやり取りを綺麗に断ち切ってくれた。
うん、それがよさそうだ。
軽のワゴン車は後部座席の足元が結構広い。オレと沢木さんは並んで後ろの席に着いた。別にどうということはないが、助手席で母さんの隣より断然こっちの方が空気がいい。
「ほのかちゃんの家は、学校の前をまっすぐよね」シートベルトを掛けながら母さんが顔を後ろに向ける。
「はい、郵便局の裏のほうです」
オレも、当然母さんも沢木さんの家は知らない。フッカの友達という以外の知識はほとんどなかったんだ。
「じゃあ、近くに行ったら道案内お願いね」母さんがシフトレバーをドライブに入れると、車はゆっくりと動き出した。
沢木さんは車の中では学校にいるときのお嬢様になっていた。
終盤、母さんにはずいぶんボロを見せてたようだけど。学校では結構無理してるのかもしれない。いったん、学校でキャラが作られてしまうと、それをはみ出すのは容易ではないからだ。久坂の前でこの子はどんな女の子になってるんだろう。
(まあ、そんなことはどうでもいいか)この甘いオレンジの香りについ浮かれてしまってた。彼女が母さんとお嬢様言葉で話をしている内容にはあまり興味はない。
さっきの沢木さんの提案――アイツとフッカの仲を認めること――は、やはりオレには受け入れ難いものだ。車の窓から彼女の肩越しに、フッカの家が流れ過ぎていく。
玄関の脇に一台の自転車が止まっているのが見えた。