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手紙

 オレが部屋に入っていくと、フッカは窓の下の壁を背もたれにして、カーペットの上に座っていた。

 いつもの赤いタータンチェックのワンピースパジャマで、投げ出した両脚に毛布を掛けている。

 部屋の中に微かに感じるツンとした臭気は吐瀉物によるものだろうか、学習机の脇のカーペットに掃除したあとを隠すように畳んだバスタオルが置いてある。

「どうしたん? なんか悪いもんでも食ったか?」

「ちょっと、怠くて……」

 オレの精一杯の冗談に、フッカは血の気のない顔で唇の隙間から細く声を漏らした。


 朝、いつものようにフッカを迎えに来たときに、ママさんから「夕べから湿疹が出て」と、連絡帳を渡された。

 それで、学校帰りにフッカの先生から預かった連絡帳を、見舞いがてら届けに来たのだが、思った以上に体調が悪いように見える。

 最初は、玄関でママさんに連絡帳を渡すだけにしようと思っていたんだけれど、上がって行くように言われて、結局階段を登ってしまった。

 この部屋に入るのは久しぶりのような気がする。そう思って、前に来てからまだ十日ほどしか経っていないことを思い出した。ただ、部屋の様子がずいぶん違って見えてしまうのは、オレがこの部屋に相応しくない人間になったからだろうか。

 机の上に飾ってくれていたオレの写真がなくなっている。


 フッカが学校を休むのは、忌引きを除いては、昔、湿疹に悩まされてたとき以来だ。生活環境の変化、新しい人間関係、そんなストレスが積もり積もって、小学校入学で爆発した。

 痛々しい発疹、生々しい掻き傷と同級生たちの残酷な言葉に、フッカは笑顔を失った。

 元々、自分の感情を抑え、あまり表に出さないタイプの女の子だったことも、知らず知らずのうちにストレスを溜め込んでしまう結果になったんだろう。様々な検査がされたけど直接の原因が分からないまま、長い間苦しむことになった。

 そんなフッカの湿疹が治まるきっかけになった事件がある。


 あれは梅雨も終わりかけのジメジメした蒸し暑さでフッカの状態が特に酷かった時期だ。オレはふと彼女のことが気になって、昼休み給食を食べたあとに一年の教室まで様子を見に行ったんだ。

「ふみか、いないよ」

 教室で沢木ほのかが心配そうに少し前に起きたできごとを話してくれた。みんなにからかわれて、出ていってしまったらしい。

 それを聞いて、オレは不安になった。

「ふみかちゃん、どんな感じだった? 泣いてた?」

「ううん、真っ赤になって、すごい怒った顔だった」

 教室を飛び出してフッカを探した。マジでヤバいと思った。フッカは我慢する子だ。限界の限界の限界まで我慢していい子でいようとする。けど、限界を超えると爆発する。

 フッカと出会って間もない頃、オレは親父に酷く怒られたことがあった。

 滅多に怒らない親父が手を上げたことで、オレは家から逃げだした。逃げた先はフッカの部屋だ。オレはフッカに自分が置かれた危機的状況を説明して助けを求めた。〝助け〟というのは、つまりほとぼりが冷めるまで部屋でこっそり遊んでいようということだ。

 でも、オレがフッカの部屋に隠れていることは容易に親父の知れるところとなって、まもなくフッカのママさんの仲介で親父とフッカとの間で犯人の身柄引き渡し交渉が始まった。

 騒ぎが大きくなってしまって、不安になっているオレをみて、親父に叱られる恐怖を感じているんだと思い込んだのか、フッカは部屋に内カギをかけて断固としてオレを渡そうとしなかった。

 それで、交渉の結果『もう怒ってないから帰ってこい』という親父の言葉を引き出して、ようやく部屋を出ることになった。

 それで無事終わったかに思えたのだけど、白井家から出てきたオレを、親父は怒鳴った。それは仕方のないことなのかもしれないし、オレも反省すべきだと思っていた。

 けれども、フッカは目の前で大切な約束を破られ、自分が守ったはずの人間が蹂躙されている姿にキレた。彼女の叫び声を初めて耳にした。

 フッカはオレと遊ぼうと思って部屋から持ってきていたバドミントンラケットで、親父を滅多打ちにしたんだ。

 最初、親父の向こう脛を叩き、驚きと痛みにしゃがみ込んだ背中や頭を休む間もなく叩き続けた。小さな体で飛び跳ねるようにラケットに全体重を掛けた攻撃で、不意を突かれた親父はうずくまったまま体を丸めた防御姿勢で必死になって頭を守ろうとしていた。

 親父にしてみれば、大の大人が小さな子供相手に本気で反撃することが出来なかったんだろう。

 フッカはどこかで耳にしたことがあったのだろう、この世に溢れかえる憎悪の言葉の数々を吐き出しながらラケットを振り下ろした。ラケットのフレームが歪み砕けバラバラに飛び散ってしまってもなお容赦しなかった。

 オレはフッカを抱き止めた。本当に親父は死んでしまうと思った。それで、フッカにこんなことをさせてしまった罪の大きさに泣きながら何度も何度もごめんと謝った。

 フッカはオレの頭をぽんぽんと優しく叩いて、

「お兄ちゃん、もう大丈夫だよ」と笑った。

 フッカはその件で手首を痛めてしまい、それ以来トラウマなのか一切バドミントンのラケットを握ることはなくなった。

 後から聞いてもフッカはその時のことを全く覚えていな様子だったけど。

 いまのフッカはあのときと似ている気がする。

 まだぬかるみの残る運動場では、みんな泥だらけになりながらドッジボールや鬼ごっこに夢中になっている。中庭に回ると、ちょうど向こうからフッカが歩いてきていた。

「ふみかちゃん」

 声を掛けたが気付いていなみたいで、駆け寄ると、凄く怖い顔をしてオレを見ている。目の前でもう一度呼び掛けた。

「ふみかちゃ……」

 いきなりフッカが声を上げて腕を振り回した。咄嗟に危ないと感じて飛び退いたけど、ゴツンと腰骨に衝撃を受けて尻もちをついた。

 フッカはオレを見下ろして両手を振り上げた。

(えっ!?)

 その手には木刀みたいに鉄パイプが握られていた。

 必死でフッカの胸に飛びついて抱きしめた。

 振り下ろされた鉄パイプがさっきオレのいた地面を5センチもえぐった。

「ふみかちゃん!」

「あれ、お兄ちゃん?」

 フッカのいつもの声だ。オレはフッカの小さな胸に頬っぺたをくっ付けたまま、激しい鼓動を感じていた。

「ふみかちゃん、どうしたの?」彼女の胸に話しかける。

「あのね、木川くんをころすの」

 とても穏やかな声だったから〝ころす〟が〝殺す〟の意味だということを理解するのに三秒かかった。

 オレはフッカを強く抱いたまま、彼女の頭や背中やお尻も脚までも何度も何度も撫で回した。興奮する犬をそうやって飼い主が落ち着かせるのをテレビで見たことがあったからだ。

 しばらくして、ようやくフッカは手にしていた鉄パイプを下に落とし、くすぐったそうに身をよじった。

「もお、お兄ちゃん、エッチだあ」

 言いながら、オレの頭をギュッと抱えて、胸に押し当ててくれた。それで、フッカの手を引いて、一年の教室に戻った。

 もう、とっくに五時間目の授業が始まってて、扉を開くと女の先生がマグネットシートのリンゴを黒板に貼り付けていた。

 オレは先生の呼び掛けを無視して、フッカを連れたまま教壇の真ん中に進むと教室を見回した。

「木川ってどいつだ!」

 誰も名乗らなくても、クラスの視線が一箇所に集まるからすぐに分かる。そこにいるのは、なるほど、チビのくせにクソ生意気な面構えのヤツだ。

 そいつの席までフッカを引っ張って、

「この子に謝れ!」と机を思い切り叩いた。

 ビビって震えて声の出ないそいつの机にもう一発喰らわす。生意気な面が泣きそうになってる。

 慌てた先生がオレを引き剥がしにかかった。

「教室に戻りなさい!」

 聞こえない!

 教壇に戻ってこんどは黒板に一発。校舎中に響くほどの派手な音が鳴った。

「おまえらみんな謝れ! いじめたヤツも、黙って見てたヤツも!」

「いい加減にしなさい!」

 耳元で怒鳴り声を上げる女を睨み返した。

「あんたら大人が毅然とした態度を取らないからここにいるクソみたいなヤツらがこれぐらいいいだろうって甘えたこと吐かすんだよ」

 黒板をもう一発。リンゴが三枚剥がれ落ちて、一番前の席にいた女の子が泣き出した。それにつられるように、教室のあちこちですすり泣きが始まった。

「一人の人間がここにいる連中に傷付けられて苦しんでるっていうのに、あんたは算数の授業の方が大事なのかよ!」

 オレは他の教室から駆けつけてきた男の先生二人に取り押さえられた。言い合いなら大人が寄って集ってきても負ける気はしないが、力尽くだと小学三年生ではどうしようもない。

 その後、フッカのクラスは算数の授業をやめていじめについて話し合う時間になった。別にフッカをいじめたヤツらに更生の機会を与えようというわけじゃない。フッカをいじめたらただじゃおかないということを思い知らせてやれればよかったんだ。

 結果的には木川ってヤツの命を救ってしまったことになるのかもしれないが、あんなクズ野郎のためにフッカを殺人犯にしなくて済んだのは良かったのだろう。

 オレは強制送還された教室で怒られ、さらに放課後には校長室にフッカと呼びだされて注意を受けた。でも、絶対に謝ることはしなかった。もしオレが謝ったらフッカに、たとえ1ミリでも非があるとを認めたことになるような気がした。フッカには、何があっても守ってやると強く伝えたかったのだ。

 オレは危ないヤツと思われるようになったが、フッカへのいじめはそれ以降ましなものになったので良かったんだ。


 家に帰って、元気のないフッカを中庭のあの岩のところに呼び出した。

 フッカを岩に座らせて、正面に立つと、まるでテレビで見たプロポーズの場面のようになった。

「ふみかちゃん、もうじきお誕生日でしょ。ちょっと早いけど、これ、お誕生日プレゼント」

 誕生日に渡そうと思っていたミッフィーのハンカチにメッセージカードを添えて手渡した。とにかく一刻も早く彼女の笑顔を取り戻したかったんだ。

 フッカはそれを手にして、オレににっこりと微笑んでくれた。

 その日から突然フッカの湿疹は治った。

「お兄ちゃんの夢を見た」といって、もう痒くないのだと。

「どんな夢?」

「あのね、お兄ちゃんと遊んだの」

「何して遊んだの?」

「……内緒」

 フッカは俯いて、ボソッと言ったきり、夢の内容を話してはくれなかった。

「あのね、お話したら、おまじないの効き目がなくなるの。きっと……」


 フッカはあのハンカチでなにかおまじないをしたらしい。それ以来、眠れぬほどの痒みがフッカを悩ませることはずっとなかったのだ。

 いまは真冬だ。汗疹ができる時期でもなく、ダニやカビに悩まされる季節でもない。肌の乾燥には暖房もスキンケアも気を使っていたんだ。

 フッカを襲った今度のストレスは、新しい恋のせいなのだろうか?

 そういえば、あのハンカチがいつも置いてあるベッドのところに見当たらない。


「寝てなくていいのか?」

 寝ていた痕跡のない整ったベッドをちらっと見て、フッカの隣に膝を突いた。ひょっとしたらベッドにも吐いた跡があるのかも知れない。

「熱とか、あるのか?」フッカの額に手を伸ばす。それを避けるようにフッカが頭を強く捻った。

「あ、ごめん」

 行き場を失った右手を引っ込めて、左の手のひらでそれをぎゅっと包んだ。もう、オレが気安く触れられる訳じゃないんだ。

 そう気がついて、吐く息と一緒にもうひとつ「ごめん」がこぼれた。

 フッカはそんなオレの言葉に、とんでもないことをしでかしたときのような、恐れの色を浮かべて唇を震わせた。

「ごめん、からだ、汚れてるから……」

 言い訳するように、前髪を引っ張って、視線を逸らす。頬と額に紅い斑点が浮かんで、掻きくずしたのかその幾つかが小さなかさぶたになっていた。フッカのこんな湿疹の出ている姿の記憶は、おぼろげなほど昔のことだ。

「そうだ、連絡帳を」

 話題を変えようと、ランドセルを下ろしてフッカの連絡帳を取り出した。

「特に、連絡はないみたいだよ。宿題のプリントは2枚あるけど、別にやんなくていいって」

 差し出したプリントの挟まったノートを受け取ると、まるで分厚い鉄板を渡されたみたいに重たげに、中も見ずにそのまま脇に捨てるように置いた。

「あっと、それから、これ」忘れないうちにと、コートのポケットから、チェック柄の封筒を取り出す。

「沢木さんから預かってきた。心配してたよ」

 チェックの封筒を目の前にして、最初フッカは手を伸ばさずにいたけど、間をおいて、ためらいがちに受け取ると、ちらっと目を落としただけで、そのままぎゅっと手の中に握り潰してしまった。

 沢木さんはフッカの一番の友達だ。二番目からはいない。フッカが唯一、下の名前で呼びあう間柄でもある。放課後、わざわざ六年の教室まで手紙を届けに来てくれたんだ。くしゃくしゃになった手の中のチェック柄に言葉が浮かばなかった。

 先週の金曜日の朝は、フッカはいつもと変わらなかった。金曜日の放課後も一緒に帰った。それからのこの三連休の間に何かがあったのだろうか。

 土日はパパさんが帰ってきてて、成人の日の月曜の夕方にまた出かけていった。

 休みの間に、またアイツが来ていたのか?

 パパさんがフッカとアイツの交際に激怒したのか?

 もう家に来るなといったのか?

 いや、フッカがアイツに振られたのか?

 以前「ほのかね、好きな子がいるんだよ」と言ってたことがあった。クラスで一番のイケメンなんだと。まさかそれがあの久坂とかいうヤツのことだったのか?

 それで、二人の関係も微妙なものになっているのか?

 それって、三角関係ってやつか?

 聞けない。わからない。

 オレは、フッカに並ぶように壁にもたれて、恐る恐るチェックの封筒を握ったままの彼女の手の上からそっと手のひらを重ねた。

「オレ、いつでもフッカの味方だからね」

 フッカは大きく頷きながら、オレの肩にもたれかかって、それで、泣き出してしまった。すすり泣くフッカの肩を抱き寄せ、頭を撫でた。そうしていいのかどうかわからないけど、少なくとも、フッカはそうさせてくれた。

 フッカの髪は洗い立てのタオルのようにふわふわでいい香りがして、少しも汚れてはいなかった。そしてそれがとても懐かしく感じて、髪に頬擦りをした。

 フッカはただ涙を流しながら「ごめんね」と独り言を呟くように繰り返すだけだった。

 オレは、このままフッカがアイツに振られてひとりぼっちになれば、また、自分のところに戻ってきてくれるんじゃないかって、そんな勝手なことを思って悲しくなった。

 オレは本当にフッカの幸せを考えやれるのだろうか。全てをなげうってでもフッカを守りたかったあの時のオレはいま何をやってるんだろう。

 結局、フッカはオレがいる間、ベッドに入ることはなかった。

 オレが帰ったあとも、ずっとあの壁にもたれて小さくなったままだったのかもしれない。



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