オトナになった日
年明けのバーゲンが一段落したら、キミトはすっかりバレンタイン商戦に突入していた。
成人式の帰りなのか、これから遊ぶのか、振袖姿に髪を山盛りに着飾ったケバい女とツルツルのスーツに派手なネクタイを絞めたコメディアンみたいな男が通路の真ん中で酔ったようにじゃれ合って、まるで正月のお笑い番組のようだ。
暇潰しに出掛けても、暇は潰れない。空粗な時間を違う場所で味わっているにすぎないことに気付いても、それでも少しでもフッカから遠く離れたところにいた方がましなような気がした。ただ、キミトは思い出が多すぎた。
ロフトで目新しい文具を眺めても、ジュンク堂で新刊本を見ても、どれもフッカに見せたら、と思うものばかりだった。
キミト。
『キリオ・ミライ・トモニ「キミト」』
二年前、霧生駅前に大型ショッピングモールを中心とした市の情報サービスセンターなどを合わせた複合施設ができたとき、そこの愛称募集でオレが応募した名前が採用された。それがキミトだ。
オープニングセレモニーでは特設ステージにフッカと手を繋いであがった。司会のお姉さんに「カノジョです」と紹介したのに、フッカは「お兄ちゃん」と言って笑いになった。
キミトという言葉に込めたのは、本当は『君と・未来・共に』で、君と未来を共に生きよう、という願いなんだよ。キミトのキミはフッカのことなんだ。
キミトがある限り、オレの思いは形となって残る。たとえキミトがなくなっても、ここにキミトがあったという事実は消えない。
けれど、いまオレの壮大なモニュメントは古代の遺跡になってしまった。オシャレな服が並ぶ店もいまとなっては廃墟だ。一時間もブラブラしないうちに気持ちだけが疲れた。
そろそろ潮時か。
場所を変えようかと二階のJR側バスターミナル方面への出入口に向かった。
フッカはこの先のペデストリアンデッキが好きだった。必ず、オレをおいて駆け出す。直線の30メートルを全速力で走り抜け、右の階段からバスターミナルへ駆け下りて、3番の北巡回バスの乗り場までの競争になる。
オレは、フッカに一度も勝てなかった。後ろ姿を見たかったからだ。小さな背中が勢い良く弾んで、風に髪が揺れた。そういえば、一人でキミトに来たのは久しぶりだった。
「えーっ! 一人で行ったのぉ!」
キミトに行くときにフッカを誘わないと、口を尖らせて泣きそうな顔になる。笑顔を取り戻すには、お土産が必要だった。
そうか、もう、お土産は必要ないんだ。
すぐ近くで行列が出来ているクッキーシューのシュークリーム屋に並びそうになっていたのに気付く。期間限定の贅沢いちごのクリームは………。
オレは、きょう何度目かのため息を吐きながら、手にしていたロフトの黄色い袋に目を落とした。
ウサギのシール。
バカかオレは…………。
「高森くん?」
不意に名前を呼ぶ女の人の声に、そちらに顔を向ける。すぐ右横に声の主がいた。
「ああ、やっぱり」
笑いかけてくるこの人は誰だ? 歳は母さんと同じくらいか、もう少し若いか? 大人の年齢は――特に女の人は――よく分からない。
どこか見覚えのある気はするものの、クラスメイトの親とか授業参観で教室の後ろに並んだ顔を思い返してもこんな綺麗な人は出てこない。
オレの名前を知ってるってことは、不審者とも思えないが、もし不審者ならヒマだし付いて行ってもいい。なにかあっても今よりは楽しそうだ。
「きょうは、一人なの?」首を傾げるクリッとした瞳に「覚えてないかな?」という色が混じってる。
「あ、ヨシコ先生?」
「正解」
その人は、オレの顔の前に人差し指を一本立てて笑った。
ずっと前に学校に来ていたスクールカウンセラーの先生。
その頃、アイドルグループのセンターにいた杉咲芳子というアイドルとそっくりだということで、みんなが付けたあだ名がその子の名前を取った『ヨシコ先生』だった。
ガキだったオレたちは、そのあだ名以外のちゃんとした名前を知らないまま――実際は聞いてたんだろうけど覚えていないまま――本来の目的以上に、綺麗な先生目当てで用もなくカウンセラー室の前をうろついていた。カウンセリングに母親じゃなくて父親が付き添って来るなんてことが増えたのも、先生が『美人すぎるカウンセラー』という評判のせいだった。
「通路の真ん中で仁王立ちしてる迷惑な子がいるなって思ったら」
「ごめんなさい、考え事してた」小さく頭を下げた。
「何か、お買い物?」
先生が黄色い袋に目をやる。
「あ、ちょっと……」
なにか誤魔化そうかと思ったが、いい言葉が浮かばない。
「もう帰り?」先生がオレが進もうとしていた通路の方に顔を向ける。
「いえ、まあ、ぶらぶらしてるだけで……」
「なら、一緒にお茶でもどう? オバサンとでよければ」
オレは、先生にくっついて、近くの同じフロアにあるスターバックスに入った。
先生はカプチーノを、オレはキャラメルスチーマーを頼んで席に着いた。
「こういうお店は、初めて?」
「はい」
オレのカウンターでの様子を見ていたら、当然ながらそう思うだろう。飲み物のサイズは簡単にS,M,Lとかにできないんだろうか? そういう特別なものっていう感じが、ただのコーヒー屋をオシャレなカフェにさせているのも確かなんだと思うが。
先生が「なにか食べる?」と言うから先生に合わせてスコーンを選んだが、先生のチョコレートのスコーンに対してオレはキャラメルナントカのスコーンだ。キャラメルスチーマーにキャラメルのスコーン。美女とオシャレなカフェに動揺して冷静さを欠いて被ってしまった。どんだけキャラメルが好きなんだ。お子様かオレは。
「なら、こんど彼女と来るときは大丈夫ね」先生は少しからかうように笑うがその言葉は結構きつい。
苦笑いにしかならないが、涙が出ないだけ成長してるのかもしれない。口をつけたキャラメルスチーマーの甘さにホッとする。やはり心の疲れに糖分は大事だ。
クリスマスにフッカと二人でキミトにきたとき、スタバのメニューを覗き込んで「どんなんだろう」と興味深げに話をしてたんだけど、敷居の高さに気圧されてサーティワンでアイスを食べてしまったんだった。ただ、この味をフッカに伝える術はもうない。
「三年ぶりかしらね」
先生が、口に運んだカップをテーブルに戻して、飲み口のところをそっと親指の腹でなでた。
「あの頃はまだキミトも工事中だったもんね」
オレは黙って頷いた。
ヨシコ先生は、学校に関わる色々な問題事が起こる度に、心配事や悩み事の相談に乗ってくれるために学校に来てくれていた。
大きな事件は、オレが二年の頃、近くの小学校で起きた女児連れ去り事件と、三年の時の学校中を巻き込んだいじめ事件だ。
それ以降は大きな事件もなく、先生が来ることもないまま、いつの間にか保健室にカウンセラーか何かの資格のある先生が勤めるようになってしまってた。同じように先生と呼ばれる人間でも、立場によっていろいろな資格が必要らしい。
そうか、あれからもう三年にもなるのか。
しかし、三年も会ってないのによく顔がわかったもんだ。心理カウンセラーってやっぱりすごい人間なんだろう。
「元気にしてた?」
もう一度頷く。けれど、すでに先生と一緒にいるのは不味かったかと思い始めていた。先生はあの頃のオレたちのことを知りすぎている。
「あの子は? どうしてるの?」
なんと返事しようかと、キャラメルスチーマーのカップに視線を落としたままオレは固まった。
数秒。
たぶん、先生は突っ込んで聞こうか、それとも話題を変えようか、考えてるんだろう。先生が喉の奥の方で小さく咳払いをする音が微かに聞こえた。
「えっと――」
「あいつ、彼氏が……、好きな子ができたみたいで」
言葉にして、気持ちが楽になるというのは本当のことだろう。ただ、絞り出した言葉が、腹に溜まったガスが抜けるように気持ちの強張りを和らげてくれるまで、越えなければならない苦痛がある。
オレは、首筋に冷水を浴びたようなヒヤッとする感覚に襲われた。その滲んだ冷媒がじわじわと体中に霜を張るように広がっていく。
俯いた視界の奥に、ハンカチが差し出された。オレはゆっくりと顔を上げた。あまり顔を見せたくなかったが、泣いているとは思われたくない。
「あ、大丈夫です」
先生の白いタートルネックのニットの上で銀色に光っている菱形を見つめながら、手のひらでハンカチの前に壁を作った。
「すごい汗よ?」
先生の言葉に、顎を上げたら首筋が動いてうなじの冷たい感触が一筋背中を伝っていく。オレはそれが自分の冷や汗だということにようやく気づいた。
ハンカチに向けていた手のひらを持ち上げて、指先で額を押さえた。ヌルっとした粘りけのある液体がそこに滲み出している。
「ああ、あります」
ズボンのポケットからタオルハンカチを引っ張り出した。眉の上を横に拭って、それから前髪を掻き上げるようにハンカチを動かすと、汗は額だけでなく身体全体から噴き出していることが分かる。とりあえず、シャツの襟元から上の汗を拭ったが、肌のネバつきまでは取れなかった。
「ハンカチ、ちゃんと持ってるのね」
そう、確かにハンカチを持ち歩かないヤツはいる。洗う前よりも手が汚れるんじゃないかと思うような、いつ洗濯したのか分からないぐちゃぐちゃなハンカチをポケットに突っ込んでるヤツもいる。だいたい、小学生なんかそれで十分なんだ。シャツの裾やズボンの尻に、必要な面積の布は用意されている。オレがハンカチを持っているのは、フッカがそういうヤツだからだ。
フッカはトイレに行っても、ジェットタオルがなければ、手を振ったり叩いたりして水滴を切るか、隣にいるオレの一番外側にある布地で済ませてしまう。なので、フッカがトイレから出てくるところを待ち構えて、ハンカチを渡さなければならなかったのだ。だから、出掛けるときにはハンカチが必須で、いつも大判のタオルハンカチ二枚持ちが欠かせなかった。
ああ、ハンカチひとつでまたフッカだ。
これからは、あいつのハンカチをフッカが用意するんだろうか。いや、ああいう見せかけだけのスマートなヤツは洗濯して綺麗にプレスされたハンカチをさりげなくポケットに入れてるもんだ。
くそっ、馬鹿馬鹿しい。そんなこと、もうオレが心配することじゃない。
「先生、覚えてます? 彼女のこと」
「ええ、よく覚えてるわ。特別な子だったからね。友井さん、だったわよね?」
「あ? あ、あぁ…………」
えっ、フッカのことじゃなかった?
そうか、先生にとって特別なのは友井の方だったか。
「そっか、あの子、彼氏ができたのか…………」
ヨシコ先生はそう言って、オレをじっと見つめた。
「そうなんだ……」
先生が小さく三つ頷く。
いや、これじゃあまるで友井に彼氏が出来てオレがガックリきてるみたいじゃないか。
「いや、ボクは別に友井のことをどうとか思ってないし……」先生がさらににっこりと微笑んで「いいのよ」と言わんばかりにまた三つ頷く。
ダメだ、好きバレして必死で言い訳してるヤツみたいになってる。
「大丈夫よ、高森くんなら。彼女のこと、ちゃんと応援してあげられるでしょ」
「もちろん。ボクが応援しなくたってあの二人は勝手に上手くやるでしょうけど」そうさ、友井は誰よりも幸せになるべきなんだ。みんなもそれを望んでる。
「さすが高森くんね。好きな人の幸せを一番に考えてあげるのって、実は大人でもなかなかできることじゃないのよ」
くそっ、やっぱりオレは友井が好きだったってことでこの場は丸く収まるのか。友井とフッカじゃ似てるのは名前と胸の大きさぐらいなもんじゃないか!
目の前の皿に乗っかった三角形のキャラメル……、――そうだキャラメルトフィースコーンとかいう長い名前のやつだ――を掴んで思い切り齧り付いた。途端に口元から欠片や粉が落ちてテーブルやズボンに広がる。
やっちまった、先生が笑ってるように思えて顔を上げられない。
ああ、くそっ、美味い。コイツ、間違いなくフッカの好きな味だ! ちくしょう、もう、なにもかもうまく噛み合わない!
あれは三年前、例のいじめ事件だ。
そう、あの当時、学校は酷く荒れていた。
バカな親が学校に無理を押し通そうとしたり、一部の親がPTAを抜けるとかで騒いだり、ガキがそれに乗っかって好き勝手に振舞っていた。
権利や義務や責任ってやつを三年生のオレはきちんと理解するほどの頭を持っていなかった。もちろんいまでもそうかもしれない。でも、小学校だぜ? オレたち小学生、子供だぜ? 親や先生のいう権利も義務も責任も全部子供のためってのが一番にあるはずだったんじゃなかったのか。
大人なら子供にとって一番いい結論を出してみろよ。
やる気のない親はやる気のない先生を生む。そんな中で、そこにいる子供だけがやる気を保てるわけがないんだ。バランスの崩れたジェンガと同じで、誰かが無理やり引っこ抜いたピースのせいで、オレたちは呆気なく崩れ落ちた。
うちのクラスにも当然のようにいじめがあって、大人しくて弱っちい一人が標的にされて、およそ人間が考えつくであろうありとあらゆる非情な行為が日常のルーティンのようになされていた。
先生も見て見ぬふり。あれはふざけであっていじめではない。子供同士でよくある遊びの延長だと。そしてオレも、その頃フッカのことだけを考えていたから、いじめには参加はしないが止めるということもしない、ただの卑怯な傍観者だった。そういうことが当たり前の日常に感覚が麻痺してしまってたのかもしれない。
それが、フッカをいじめから助けたことで、彼女はオレを英雄視しするようになってしまった。そのせいでオレはバカバカしいけど本当にヒーローにならざるを得なくなったんだ。フッカがオレを自慢するのに、オレがなんにもしないヤツでは終われなくなった。フッカに胸を張れる生き方をしなければならなくなった。
あの凄惨な事件が起こった日、教室は地獄だった。
オレはいじめられてる子を助けようと、二階の窓から飛び降りて階下の職員室へ助けを呼びに行った。
結果、ドジ踏んで右足踵骨圧迫骨折で二週間学校を休んで、二ヶ月まともに歩けなくなった。その後のリハビリのおかげで何とか日常生活には不自由はなくなったが、未だに体育では全力で走ることができない。
でも、そのせいでオレは先生や親達から、いじめを止めたヒーロー扱いされることになった。フッカ自慢のお兄ちゃんになってしまったんだ。
違う、そうじゃない、いじめを止めたのは、最初から最後まで体を張って立ち向かった友井だ。あの地獄の中でひとり正義を貫いて闘っていた。
クラスのみんなもそれを知っている。
けど、彼女はその時ヤツらの乱暴に抵抗して相手に大怪我をさせたとして逆に加害者扱いされてしまったんだ。
ちくしょう、結局、オレだって友井の手柄を横取りしたクソ野郎だ。盗作野郎と少しも変わらないじゃないか。
オレの足が治った頃には、もう学校からいじめはなくなっていた。
ひとまず、オレが友井に振られたということにしとけば、フッカについてヨシコ先生から突っつかれる心配はない。
これで安心してスコーンを食べることができるだろう。さっきズボンに落とした粉末は、スタバのスタッフさんには申し訳ないがキレイに払わせてもらった。
さすがにヨシコ先生は上品に口に運んでいる。
落ち着いたところで、この際、ちらっと聞いてもらおうか? 友井のことってことで。
オレは、一つ息を吐いてからヨシコ先生にフッカとオレにあったことを話した。もちろん名前は出さないで、友井とのことって感じで。
もう、汗も引いて、不思議と淡々と話すことができて、やっぱり言葉にすることで気持ちが楽になるのだろうかと感じていた。
「いっつも着の身着のままみたいな無頓着な子が急にお洒落してさ、しかも精一杯お洒落して漸く他の女の子の通学服に追い付くぐらいなんだ。それで、それがすごく光って見えて……」急に目頭がじりじりと熱を持って、鼻の奥がツンとする。バカ、これは友井との作り話だ。あんな貧乳女、オレの好みじゃない。あいつの顔を思い出せ!
「……でも、その光は、もう、オレを照らしてるんじゃないって、違うんだって……」
慌ててハンカチで顔を押さえた。必死でこらえても、止められない感情で、鼻を啜った。
スタバじゃなきゃ、このままテーブルに突っ伏していると思う。キャラメルスチーマーがすっかり冷めるまで顔を上げることはできなかった。
ヨシコ先生は、オレが落ち着くまで、なにも言わずに見守っていてくれた。
結局、こうなってしまった。まあ、胸の内を洗いざらいぶちまけたら、少し気持ちが軽くなった気がする。ヨシコ先生がかけてくれたいくつかの言葉もオレを落ち着かせてくれた。
ほっと息を吐いた。
「聞いてもらえてよかったです」
少なくとも、自分か久坂か、どちらかの命を消し去ろうという漠然とした企ては保留にすることができそうだ。
「あまり気の利いたアドバイスは出来なかったけど」
そんなことはないと微笑むこともできた。
先生が優しく頷く。
「あのね、本当は小学生同士の恋愛にはあまり深くならないようなことしかいわないの。だって、結局は責任論になっちゃうでしょう。わたしのアドバイスは子供よりも親を納得させなきゃならない。ネットなんかに書けば、なおさら子供の気持ちは置いてきぼりになって、大人が作った子供像に適合したものだけが正しい答えになっちゃう」
いま先生は子供相手に言うべきことではない話をしているのかもしれない。
「人を好きになるって言うことは、とても素敵なことだわ。でも、心から好きになるとか愛し合うという意味を理解するにはまだまだ積むべき経験が必要だわ。好奇心だけで誤った方向に進むこともあるでしょう?」
それは、分かる、と頷いた。
「ほんと言うと、あなたたち二人がそんな関係にならないか心配していたのよ」
ん、オレと友井が?
確かにフッカとなら。こんなことになると分かっていたなら、きっと、もっと強引に関係を深めてしまっていたかもしれないけど。
「でも、そんな心配、要らなかったみたいね」
いや、いったいどういう心配なんだ。あの頃そんな話をしてたっけ。
「あなたたちには何か危ういものを感じるけど、彼女を助けてあげなさいね」
違う、先生はフッカの話と友井の話をごっちゃにしてしまってる。三年も経てばそうなるのも仕方ないのかもしれないけど。オレが窓から飛んだのはフッカに認めてもらいたかったからだ。友井を助けたのは結果でしかない。
オレはあの頃と変わらず、いまでもフッカだけなんだ。
「ボクは、どんな罪を背負ってでもアイツだけは守ります」
先生はカプチーノのカップを置いて、オレの〝罪〟という言葉を大人の微笑みで受け止めてくれた。
まあ、マジで突っ込もれても困るだけだけど。もういい、どうあがいても、オレは友井に振られたってことだ。あした学校で会ったら恨み言のひとつも言ってやろう。
「でも、高森くんも大人になったってことかな?」
先生はカフェに入ってきた振袖姿の三人連れの方をちらっと見ながら、先ほどからの話題を絡めてか、話を繋げてきた。
「そう、かなぁ……」オレは最近の自分の行動がより一層子供じみてるような気がして首を傾げた。
「大人になるって、いろんな意味があるもんね。法律で決まってる大人もあれば、体の成長とか心の成長とか。たくさんの経験が人を大人にしていくんじゃないかな?」
そうなんだろうけど、瞬間、頭に浮かんだ〝大人になる〟というキーワードが性的なものばかりなのに自分でも呆れてしまう。ある意味オレに大人が訪れたのは去年の秋だし、クラスの女子の何人かはもう始まったという話を聞いたことがある。
「そういえば、ボクは四月からバス代が大人料金になりますね」我ながら上手い返しを見つけられた。
ヨシコ先生はオレの言葉にハッとして目と口を開いた。
「そうだ、高森くん。四月」思い出したように早口になる先生の声はトーンが少し高くなっている。
「キミトの二階にメディカルモールがあるでしょう。わたし、この四月からそこでクリニックを開くの」
何? クリニック、病院ってことか?
「へぇー、ヨシコ先生ってほんとにお医者さんだったんだ」そういえば、カウンセラーって何かそういう資格なのかと思っていた。
先生がイスに置いていたバッグから小さなサイフのようなものを取り出して、そこから一枚のカードを抜いた。
「こらっ、ほんとに、はないでしょ」笑いながら「はい」と差し出されたのは名刺だった。
名刺って、両手で受け取るもんだったよな。
こういうものを大人の人からきちんと出されると緊張する。頭を下げて表彰式みたいにうやうやしく受け取った。
手にした名刺に目を落とす。
そこに書かれた内容にはっとして息を飲んだ。
そうか、そうなんだ、この人も医者だったんだ。
【児童思春期外来 こどもこころクリニック】
彼女の名前が美子だということに、妙に納得した。ヨシコ先生と呼んでも普通に対応してくれてたわけだ。名前の横には医師であることを示す御大層な肩書きが添えてある。
「三年前、高森くんたちと話をしてて、いろんな悩みを抱えた子供たちの力になれるような場所を作りたいって思うようになってね、ずっと準備してきて、それでようやくそれを形にすることができたの」嬉しそうに話す笑顔は欲しいものが手に入った子供の顔と同じか。
「じゃあ、オレがその相談第一号になりますよ」
この人がほかの医者みたいに原因が分からないと「ストレスです」で片付ける人間じゃないと願いたい。少なくとも精神科の医者はそのストレスの原因を見つけてくれるもんだろうから。
「ええ、楽しみにしてる……、は変よね」
無邪気で輝くような笑顔だ。大人でも夢に向かって頑張ってるんだな。けど、オレは素直にこの人を応援してやれるのだろうか。
「オープンしたら、一度遊びに来てね。なんにも悩みがなくても」
遊びに、か。この人にイライラしても始まらない。この人が寄り添ってくれるならきっと安心に違いないんだ。
オレはカップに残った冷めた甘ったるい液体を飲み干した。口の中に張り付くような粘っこい甘さは少しも気持ちを和らげてくれなかった。
「ごちそうさまでした」カフェを出た通路で彼女に小さく頭を下げた。とりあえず今日はこれで引き上げよう。
「友井さんにもよろしく」先生の言葉にやっぱり友井かと苦笑いで「はい」と頷く。
「でも、高森くんにはあの子がいるから大丈夫でしょ?」
「えっ……」
「ほら、お兄ちゃんお兄ちゃんって慕ってた小さい子がいたじゃない」
「あ…………」なんだこいつ、今頃思い出したのかよ。
「あの子、高森くんのこと、好きだったんじゃなかったかな?」
くそっ、この女、ほんとにカウンセラーかよ。正月早々クリニックのことで浮かれすぎて脳ミソがスポンジになっちまったんじゃないのか?
「ああ、あの子なら隣の家で元気に飛び跳ねてますよ」オレは笑いながらスボンのポケットの中で久坂美子の名刺を握り潰した。