まなちゃん
まなちゃん
図書室は昨日が休み明けの最初の開館日で結構賑わっていたようだが、今日はこの後、図書の委員会が開かれることもあってか、いつもより空いていた。それでも、五時間目が終わって委員会が始まるまでの時間に、席で本を読んだりノートに何かを書き込んでいる子や書架の前で本を選んでいる子も何人かはいて、オレもそれに混じる格好で、貸出本を物色しに来た。
いや、今更そんな風に繕ってもしょうがない。正直にいおう。フッカの相手という図書委員を見に来たのだ。幸いフッカたち四年一組はまだ来ていないようだが。
『幸い』か……。
見に来たくせに居ないことにほっとする。人の心とは可笑しなものだ。苦笑いをしようとして口元が歪んだ。
見るぐらいなら四年の教室に行けばいくらでも様子を伺うことができる。いままでだって何度もフッカを訪ねて二階の端教室まで出掛けていたではないか。けれども、愛する女が想いを寄せる相手の様子を覗き見る行為は男にとって余りにも屈辱的だ。
オレが四年のクラスに行けば必ず誰かがフッカに「お兄ちゃん来てるよ」と声を掛ける。何しろ、オレを本当の兄だと思い込んでいる子が少なからずいるのだ。
で、フッカが出てきたらなんて言う?
「久坂って奴はどいつだ!」と声を荒らげて教室へ殴り込むか?
「おまえはオレのものだ!」と抱き締めて唇を奪うか?
バカだ……。安っぽい本の読みすぎだ。
図書室なら本を借りに来たと言えば誰もが納得する。なによりオレ自身を納得させることができるのだ。
出入口を入ってすぐ横の貸出しカウンターの様子を横目でちらっと確認する。
カウンターの奥に、司書先生のセミロングの横顔が覗いた。
そりゃ、このあと委員会があるんだから、やっぱり居るよな……。向こうが仕事に集中しているうちに、足早に前を通り過ぎる。
「あっ、啓示くん」
パソコンに向かっていたはずの先生がどうして気付いたのか、奥から声を掛けてきた。溜め息交じりにそちらを向くとデスクに座っている先生が首だけこちらに捻っている。オレの顔を認めると、分かりやすく相好を崩した。
「きょうは貸出し?」
奥まった席から話しかけてくるので声が大きい。カウンター横に掲示してある『図書室内は静かに!』のポスターが虚しく映る。
「まあ、最近借りてないんで」
スルーして行きたいところなのに、先生はわざわざ立ち上がってカウンターの方に出てきた。カウンターでは当番の図書委員の男女二人が並んでイスに腰掛けて客待ちの間に本を読んでいる。
この子たちは確か五年三組だったな。図書委員は四、五、六年の三学年、各三クラスの男女で十八人。それぞれ持回りの当番制でカウンター係や図書整理をしている。
先生がカウンターに出てきたせいで、二人は彼女の腹に潰されそうになって渋い顔をしてイスをずらした。普通ならイスに座った後頭部あたりに柔らかな胸が当たって心地よいはずなんだろうけど、先生だとまず腹からぶつかる。
「久しぶりね、いつもはどこの図書館?」
「あ、はい、市立とか、県立の方も」
県立の図書館は市立に比べて蔵書が充実している。あのパパさんのせいでフッカと遊べない休日は図書館や文学館を回ることが多かった。
「県立なんて遠いじゃない。ここにおいでよ」
先生のまばたきがウインクのようにも見える。そうやって客引きする図書館ってあったらすごいと思う。それがきれいなお姉さんだったらいいかも知れないけど、相手がころぴょんじゃイマイチだ。
ころぴょんというのは、去年の四月から山小に来た大卒ピカピカの司書教諭、北倉愛美先生のことで、コロコロしておっとりした感じなのに運動会のリレーで先生チームのアンカーとして、山小陸上部のエースをぶっち切ったことから付いたニックネームだ。なんでも、高校時代は文芸部一の俊足だったらしい。人は見かけによらない。
運動能力も、性格も…………。
「だから、借りに来ました」決して先生に会いに来たわけではない。
「何かマイブームはあるの?」
「いまはフィデルマのシリーズを……」県立で偶然手に取った『蜘蛛の巣』は面白かった。でも、ハマるという程ではない。とりあえず今はころぴょんの知らなそうな本にしたかっただけだ。
「ああ、えっと……、アイルランドのだっけ? 推理物だよね、確か。私、読んだことないなぁ。結構難しいんでしょ? ここにあったかなぁ」
クソッ、知ってやがる。しかし、いつもながら話し方が先生っぽくない。彼女の頭の中は高校の文芸部で止まっているのだろうか。オレに対してだけなのかもしれないけど。
「一冊もありません」
創元推理文庫など、学校の図書室には数えるほどもない。それに、フィデルマはころぴょんの言う通り、大人向けの文庫本だ。児童書じゃない。
「あっと……」
会話をぶった切るようなオレの強めの返事に先生が言葉を詰まらせた。悪いけど、きょうはいつも以上に先生とおしゃべりを楽しむ気分じゃない。
「でも、広域で取り寄せだってしてあげられるし、そんなにきつく言わなくても……」心なしか声が震えてるようにも感じる。まさかこんなことで泣き出したりしないよな。
「いや、そんなつもりじゃないです。ごめんなさい」
そりゃ、確かにわざときつ目に言ったんだけど、なんでオレがコイツに謝らなきゃならない。
ころぴょんが「うん」と、頷きながら二回鼻をすすって目尻を指で押えた。
この女は悪魔だ。思い通りにいかないと「泣くぞ」っていう、男が一番扱いに困るタイプの女だ。
「ゴメンね。私、そんなに気にしてるなんて思ってなくて……」泣き掛けで鼻にかかって甘えたような声になる。
オレたちの会話に聞き耳を立てていた、カウンターの二人が、脈絡もなく猫なで声で先生が謝るもんだから、揃って本から顔を上げて不審げにオレを見た。
まったく、思い付いたことを言わないと気が済まない性質なんだから。オレのつっけんどんな態度が気になったんだろうけど、今日の不機嫌さはフッカの件が大きいのだ。いまはころぴょんとのプライベートな話題はどうでもいい。
「大丈夫です。かなり気にはしてますけど」泣かれないように笑って返したが、つい軽い皮肉も付けたくなる。
「でも、仲良くしてちょうだい。ね」
『ね』にアクセントをつけて、ちょこっと首を傾げる仕草は教師が児童に見せる表情とは違うようにも感じる。
カウンターの二人はいよいよ興味深げな表情だ。オレたちは決して痴話喧嘩をしてるわけじゃないんだ。頼むから大人しく本の続きを読んでてくれ。
「はい」
頷いたけど、『先生と仲良く』っていうのは、オレとか? 親父とか? 顔を見たらいろいろと問い詰めたくなる。だから、いつも図書室には先生のいない時間を狙って来るようにしていたんだ。きょうは先生の在席を確認する余裕がなかったのだ。
ころぴょんは、美人ではない。何となく、愛嬌があってカワイイ雰囲気はあるが。低学年には人気があるけど、高学年の男子がエロい目で見るような対象とはちょっと違う。体格も好意的にぽっちゃりと呼べる限界の太さだ。電車に乗ったら間違って席を譲る人がいてもおかしくないお腹をしている。
親父は本当にこの女と不倫してるのか? そりゃ、ずいぶん若いのは間違いない。制服を着せれば田舎の女子高生にだって見えるだろう。世の中にはそういう服装でサービスをしてくれる大人のお店もあるらしいし。
けど、母さんの方が年食っててもずっと美人じゃないのか? 不倫って、そういう見た目じゃないってことか? 相性とか、なんか、そういう身体の、とか?
親父ところぴょんの〝身体の〟って、想像したくもねぇ。でも、オレも金井じゃなくてフッカの方が良いわけだし。いや、見た目だけなら金井よりも沢木さんの方が理想のタイプだけど。しかし、オレ的にはフッカの方が断然可愛いし魅力的なんだ。違う、そういう問題じゃない、なに考えてるんだ。クソッ、やっぱり親父的に母さんよりころぴょんの方が良いってことか。
「親父と不倫してますか?」なんて聞けるわけないから、後期は図書委員を辞めたんだ。フッカには呆れられるし、クラス中から非難轟々だったけど、みんなに本当の理由なんか言えるわけがない。でも、冷静に考えたら、不倫相手の子供に平気で接するなんて、よほどの厚顔無恥じゃないとできないような気がするし、そうだとしたら、やっぱり不倫とは違うようにも思うけど、こうやってニコニコ顔を見ていると、穏やかでいられない。親父はこの笑顔に癒されてるのだろうか。
「そうだ、啓示くん、渡したい物があるの。ね、ちょっと待ってて」
ころぴょんが返事を待たずに奥のデスクの方に体を揺すって戻っていく。なんだよ、いったい。
五年三組の二人は完全に読書を放棄してオレところぴょんに交互に顔を向ける。おまえら、盗み聞きするならせめて本ぐらい開いて読んでる振りはしろよ。
たぶん、先生の自分たちに対する言葉遣いと今のやり取りを頭の中で比べていろいろ想像を働かせてるのかもしれないけど、若い女教師と十三歳未満の男子児童との関係なんて、ドラマでだってありえないんだよ。オレところぴょんが特別なのはそんな粘ついた関係じゃないんだ。
オレの親父は地元の高校で国語の教師をしている。ころぴょんは、高校時代、親父の教え子だったんだ。親父は文芸部の顧問もやっていて、ころぴょんはその頃友達と一緒に何度か家に遊びに来たことがあった。らしい。
確かに昔、家に来た高校生のお姉さんたちとかるたをやった記憶はあった。どうやらオレがその中の一人のお姉さんをすごく気に入って「まなちゃんまなちゃん」って膝の上に乗っかって、遊んでくれとせがんでたそうなのだ。それで、そのお姉さんが時々遊びに来てくれて、夏にはプールにも連れて行って貰った覚えがある。いや、覚えがあるというより、その時の写真を見せてもらって思い出したという方が正しい。オレはまだ小さくて、女子更衣室でお姉さんと一緒に着替えたらしい。そのまなちゃんが、ころぴょんだったんだそうだ。更衣室……、まったく覚えていない。せめてそこだけでも記憶が鮮明によみがえったらどんなに幸せだろう。
その後、まなちゃんは高校を卒業して、家には来なくなってしまった。それが、大学を卒業したらうちの学校に赴任するということが決まったときに、家に挨拶に来たんだ。
「春から一緒の学校だね。啓示くん、いろいろ教えてね」
まだ高校生のお姉さんみたいで、笑顔が可愛いと思った。と、同時に、先生の先生になるうちの親父はやっぱりすごいと思った。それなりに、オレは親父を尊敬していたんだ。
私学の進学校や有名な塾、予備校から毎年のように声を掛けられ、大学の研究室からも誘われている広く深い知識と洞察力を持った、そんな男だ。何冊か研究をまとめた本も出している。仕事ばかりで家庭を省みないってことも全くない。休みの日は家族で買い物にも行くし、年に一度は母さんと二人だけで旅行にも行く。オレが本好きになったのも、床が抜けそうなほど大量な親父の蔵書のおかげだ。
ところが、ころぴょんの高校の同窓会があった頃から、親父の様子がおかしくなった。当然、同窓会には担任だった親父も呼ばれていて、その日は帰りが酷く遅かった。
それからは、親父の帰りが遅い日の翌朝は先生は二日酔いで頭を抱えていたし、親父が泊まり掛けの研修のとき、先生は休みをとっていた。他にも、行動が同じようなことが幾つもあるんだ。
図書室に来る度に、先生から高校時代に親父がどんな素晴らしい教師だったか、女子の憧れだったかなんて、聞かされたくなかったんだ。
ころぴょんは、反抗期に入ったオレが学校で父親のことを色々言われるのが嫌で図書委員をやめてしまったと、勝手に想像して勝手に反省しているようだが、そんなことを気に病むぐらいなら親父とこそこそ会うのは止めてくれ。
もやもやした気持ちでカウンター前で先生を待っていたら、後ろで人の気配がして、振り向いた。
図書室の入り口にフッカが立っていた。オレがこんなところにいたことに驚いているようだ。隣には誰もいない。
一人で来たのか。
良かった、フッカの隣に他の男がいるところはやはり見たくはない。フッカがカウンター奥のころぴょんに向かって顎を突き出すように頭を下げた。図書室は、基本的には私語厳禁で挨拶も会釈だけでいい。ころぴょんさえ口を開かなければ図書室はいたって静かな空間なんだ。それからオレの方を向いて、ちょこっと首をかしげた。
(どしたの?)そんな目だ。
オレは右手を上げて本を掲げる格好で振って見せた。
(本、探しに来た)
(そっか)
フッカが頷く。それからちらっと図書室の奥の席に視線を向けて戻した。
(わたしは委員会)
(じゃあ、がんばって)
(うん)
オレたちはこんなにもアイコンタクトだけで分かり合えるのに。
(フッカ、オレは君が好きだ……)
フッカはもうオレの目を見ることもなく、笑顔でオレの横をすり抜けて奥に向かう。念入りにブラッシングされたさらさらの髪に、ウサギのヘアピン。薄目だけどリップクリームも塗って、微笑む横顔が悲しいほど愛らしい。
きょうもジャージじゃない、淡いライムグリーンのセーターにブラウンのパンツ。スカートは慣れないせいかお腹が冷えて一日で放棄したらしいが。そんなオシャレなフッカが、真っ直ぐに、足早にひとつの席を目指している。
フッカがイスを引いたその隣に、親しげに話しかける男。
あいつだったのか。
オレが来た時からあの場所でノートに何か書き込んでいた。そいつのために、髪を解かし、おしゃれをして。
体が熱い。頭がズキズキする。もう、どんな奴かなんて関係ない! 大声をあげて暴れだしたい衝動が湧き上がってくる。
くそっ、あの盗作野郎! ブチ殺してやる。いま、すぐに、この場所でだ。こんなことならアウトドアナイフを持って来ておくべきだった。冬休み前に手に入れたオピネルがあったんだ。
ぎりぎりと 拳を握りしめて一歩踏み出した。
「……啓示くん、これ良かったら目を通してみてよ」
目の前に突き出されたものにいきなり現実に引き戻される。一瞬で体中の血の気が引いたように体温が下がって背筋がひやりと寒くなった。
「聖隷の願書。ねえ、前に受験するって言ってたじゃない。公立がダメとか言ってるんじゃないのよ。わたし、啓示くんにはチャレンジして欲しいの、みんなが目標にするような存在でいて欲しいの。ね、まだ締め切り前だからさ、もう一度よく考えてみて。ほんとに、応援してるからさ」目の前でオレに語り掛けてる女の子がまなちゃんだと気づいた。
差し出された封筒を手にすると、それはまるで鉄の板のように重く肩ががっくりと落ちた。
「ねえ、どうかしたの?」
冷たい。背中のこれは、冷や汗か。
「委員会、始まりそうなんで引き上げます」
誰にともなく一人呟いて、オレは図書室を出た。
気が付くと、自分の部屋にぼんやりと立っていた。
手にしていた封筒を思い出して畳の上に落とした。
そうだ、ころぴょんから渡されたものだ。あのとき、これを差し出されなかったら、オレはどうなっていただろう。
ひとつ息を吐いてランドセルを部屋の隅に放り投げた。
窓のカーテンを開けると、そこからフッカの部屋の窓がみえて、それで、バカみたいに泣いた。
毎日夜の十時に、この窓から手を振ってオヤスミの合図を送りあっていた。幼いフッカが悩殺ポーズを見せたことも、向かい合って恋のダンスを踊ったことも、ハロウィンのゾンビの仮装にフッカが悲鳴をあげたことも、あの18メートルと44センチの糸電話も、この窓からだった。
敷きっぱなしの布団に転がって、泣き喚いて、涙が枯れて、それでまた、フッカとの思い出が頭に浮かんで、フッカの笑顔が浮かんで、また、新しい涙が溢れてきた。こんなに、フッカを失うことが辛いもんだと思わなかった。
いっぱい本で読んでたんだ。
愛や恋。誰よりも大切な人……。
それを永遠に失う悲しさを。
そして、その再生の物語までも。
オレは偉そうに読書ノートに書いていた。
ネットに書き込んでいた。
嘘だ!
オレの全部が嘘っぱちだ!
たった十年ばかりしか生きてないガキが偉そうにいきがって分かったようなことをほざいて!
フッカは、生きて隣の家でいままで通り暮らしている。昨日も、今日も、明日も、あの窓の向こうで。それなのに、二度と会えなくなってしまうよりも遥かに苦しい思いがオレを押し潰そうとしている。この苦しみは、やつがいなくなっても消えない。フッカがいなくなっても消えない。
オレが、オレさえいなくなれば……。
ああ、ちくしょう、消えてしまいたい……。
こんなにフッカのことが好きだったなら、もっと、もっときちんと、好きだと、大好きだと、ずっと一緒にいたいと言えばよかった。いくらでも、いくらでも、いくらでもいくらでもいくらでもいくらでもチャンスはあったんだ。
オレだけのフッカでいてくれよ。
オレだけに笑ってくれよ。
オレの隣にいてくれよ。
「畜生! 畜生、畜生、畜生!」
なにが『君と・未来・共に』だ!
畳を殴った。壁を蹴った。
母さん!
家が壊れちまうぞ!
「なにやってんの、バカ!」って、怒鳴りに来いよ!
オレは、バカなんだ!
どうしようもないバカなんだ!
誰か、誰かオレを叱ってくれ……。
『お兄ちゃんは、アホウだねぇ』
フッカの声が頭のなかに浮かんで、オレはまた、振り出しに戻って、大声で泣き叫んだ。それで、そんなことを何度も何度も繰り返して、いつのまにか眠っていた。